国会でおこなわれている集団的自衛権の憲法論議
国会で、集団的自衛権の行使(を前提とする法律)の合憲性が議論をされているようです。
その内容、あるいは、その報道の内容に疑問を持ちましたので、書いておきたいと思います。
国会は、立法府です。そして、国会議員は政治家です。
他方、合憲か違憲かを判断するのは、裁判所です。
しかし、どうも、国会で、裁判所でおこなうような議論がなされているかのようです。
政治家である国会議員がまずおこなうべきなのは、政策論争であり、政治判断であるべきです。
わが国が集団的自衛権を行使するのが是か非か、という議論が先になければなりません。
そして、(場合によっては)集団的自衛権を行使する必要がある、という結論にいたった場合、それが憲法や法律に違反するならば、立法府として、憲法や法律を修正すればよいはずです。
しかし、国会での議論も、報道も、集団的自衛権の行使(を前提とする法律)が、憲法に違反するのかどうか、という形式論に終始しています。
与党政府サイドは、少なくとも、限定された事態においては集団的自衛権を行使する必要があるという政策判断を示し、そのうえで、一定の限界を明記しているため法案は違憲ではない、というスタンスをとっています。
自らの政策判断を示さずに、批判だけしている人たちよりは、真摯な態度だと言ってよいのではないでしょうか。
政治家なのですから、まず政治的な議論をしてほしい、と思うのです。憲法や法律をつくったり変えたりする立法府に属する政治家が、憲法や法律に違反するから反対だ、というようなことでは、その役割を果たしていないと思います。
集団的自衛権の行使(を前提とする法律)が違憲だと主張するのであれば、政治家として、「だから憲法を変えるべき」というべきです。
そもそも、集団的自衛権の行使をすべきではない、と主張するならば、憲法を持ち出すことではないはずで、たんに理由を示して、集団的自衛権の行使に反対し、集団的自衛権を行使せずにどのように国を守るのか主張すべきです(あるいは国を守る必要がないと主張するのか)。
違憲論を主張している政治家や報道は、こうした真摯に議論をする姿勢に欠けています。憲法を改正することの賛否を示さずに、憲法に違反するから反対だなどというのは、フェアではない、卑怯な態度であるといわざるをえないと思います。
なお、政治政策論から離れて、解釈論として、憲法に違反すると主張するならば、憲法の何条のどの文言に違反をするのか、ということを明示すべきです。
違反するということは具体的に言えなければなりません。違憲や違法は、それを主張するほうが、具体的に示さなければならないはずです。
ここまで書くと、では、お前はどうなのだ、と言われそうです。
わたしは政治家ではないのですが、あえて書いておきたいと思います。
まず、解釈論からです。
憲法は、自衛権も集団的自衛権も、否定をしていません。憲法第9条第1項は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とあり、わざわざ「国際紛争を解決する手段としては」という文言を入れているわけです。自衛権をも放棄しているとすれば、この文言は入らず、かわりに「理由のいかんを問わず」といった文言が入るはずです。
しかし、憲法第9条第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と明示しています。
したがって、自衛権はあっても、戦力がないため、実際には行使ができないことになります。
すなわち、自衛隊は明らかに「戦力」であるので明らかに違憲です。
自衛隊が活動する集団的自衛権行使も違憲ということになります。
しかしながら、わたしは自衛隊は必要だと認識しています。
第二次大戦後、日本国民が守られてきたのは、自衛隊があってこそだと思います。
したがって、憲法を改正して、自衛隊を合憲の存在として、明確にすべきだ、というのがわたしのスタンスです。
日本国民を守るために危険な任務についている自衛隊員のためにも、憲法に位置づけるべきで、それもせずに、なにかあったら守ってほしい、というのは、ムシがよいのではないかと思います。
もし、自衛隊は合憲であるが、集団的自衛権の行使は違憲であるという方がいたとしたら、それは、どう憲法を読むとそうなるのか、わたしにはまったく理解できません。
なお、これまで自衛隊に入隊している隊員のみなさんは、集団的自衛権行使を前提としていなかったと思います。したがって、命令により強制的に自衛隊員に集団的自衛権行使をさせるべきではなく、制度として、個々の隊員の拒否権を認めるべきだと思います。
念のために最後に書いておきますが、このブログの趣旨は、わたしの考えを主張することではありませんし、集団的自衛権の是非について論じたいということではありません。
立法府に属する政治家が、政策論議をせずに、法解釈論議をし、マスコミもそればかりをとりあげていることがおかしいのではないかということを、考えてほしいということです。