10円プロモーション
シャッター通りが増えているとはいえ、わたしの家の近所には商店街があって、魚、肉、クリーニングと生活に必要なものは一通りこの商店街でそろう。
当然よく利用していて、今日もその商店街で買い物をした。
いつも利用する肉屋で豚バラ肉を購入。
一人暮らしだから100gで購入することが多く、今日も100g購入しようとしたのだが、店員さん(夫婦で経営しているらしく、その奥さん)が「110gでいい?」と聞いてきた。
10gくらいいいかと、「いいですよ」と答えたのだが、同時に10gとはいえサービスしてくれるなんて良い店だな、と思った。
しかし、支払いはきっちり110g分の料金だったのだ。
10gだからたかだか10円ちょっとのことなのだが、なんだかすっきりしない買い物となってしまった。
サービスだと思ったのはわたしの勝手な判断であり、店側に値引きする義務は全くないのだが、こちらの要望とは違う分量を店側の都合で提案してきたのだから、わたしがサービスだと思うのはそれほどおかしなことだとは思わない。
もし、客側が、増えた分の料金を払うものと思っていたとしても、10g分をサービスしていたらとても気分がいいし、リピート客になる可能性も非常に高い。もしかすると近所に住む人に宣伝してくれるかもしれない。
たった10円ちょっとでものすごく効果的なプロモーションになりえたのに、それを放棄するどころか、たった10円ちょっとで客にもやもやした気分にさせてしまったのだ。
大型スーパーがそこかしこにでき、商店街の苦戦が伝えられるが、商店街には大型スーパーにはない、客との近距離でのやりとりがある。
それは金額で言えば上記のようなほんの10円ちょっとのことだ。
とても小さなことが気になってしまったが、放っておけば廃れかねない商店街もちょっとした工夫でその街に必要なものとなり得るのではないかと思ったお昼の買い物だった。
コンビニの脅威
某コンビニの店頭に、洗剤の広告ポスターが店頭に貼ってあった。
なぜそれが気になったかといえば、そればそのコンビニのPB商品の広告だったからだ。
コンビニのPB開発はもはや全く珍しくないのだが、これまではドリンクやアイスクリームといった食品での展開が目立っていたから、今回の洗剤の発売は、コンビニのPB開発がひとつ先のフェーズに移ったことをはっきりと示しているように思えた。
通常のPBがそうであるように、このコンビニのPBであるドリンクやアイスは他のメーカー品より数十円安いのであるが、今日目にした潜在については何と200円も違っていた(たしか198円と298円)。
これは製品の差が多少あっても普通はPBを手に取る価格だ。しかも価格は安いものの、品質・機能はしっかりしているように見える。
かつてのコンビニはその営業時間と品揃えで人気を得てきたが、昨今の飽和状態による売り上げの伸びの鈍化を補うべくPB開発による差別化を図ってきた。
全コンビニチェーンがPBを開発できるわけではなく、たとえ出来たとしても消費者がその商品を選ぶ明らかな強みがなければ差別化は厳しい。
商品力に関しては、メーカーはずっとその商品を開発・販売しているわけで、その技術力やブランド力はそう簡単には崩せない。仮にメーカーに負けない品質の商品を作ったとしてなかなか消費者は目を向けないだろう。
となるとメーカーヒントの差別化ポイントにもっともなりうるのは価格だ。
価格に関しては、商品を大量にさばけることがその優位性を確保しやすいことは明らかなので、当然最大手のチェーンがもっとも強力なPB開発企業となりうる。
最大手のチェーンには当然ブランド力もあるから、品質を疑う消費者は少なく、価格で目を引いて商品の認知を得ればあとは自然に売り上げ、シェアを伸ばしていくだろう(もちろん商品力がともなっての話になるが)。
今回のケースでは洗剤だが、今後コンビニに置かれる全ての商品(雑誌やDVDは難しいかもしれないが)がPB化していくのは必至だ。
PBの開発は先に述べたように全てのチェーンが出来るわけではないから、ますますトップチェーンの独走体制が強まっていくだろう。
すると今後予想される展開は、コンビニ(大手に限る)のスーパー化、ディスカウント店化である。
コンビニとスーパー・ディスカウント店を区別していた価格というステージにコンビニが乗り込んできたことで、スーパーの業態が問われてくるかもしれない。
コンビニとスーパーの違いが徐々に見えなくなっていく。
スーパーのほうが商品数が多いのは(現在のところ)確かだが、コンビニは巨大化によってカバーできる。
だから、理論上ではいずれコンビニが現在のスーパーに取って代わる可能性は十分にある。
ただ、コンビにはあの大きさであるからなんとなく落ち着くという、理論では説明しづらい部分がたぶんにあるので、結果的にスーパーの存在価値は小さくなりながらもあるポイントで共存していくような気がする。
CM過渡期
テレビやラジオ、ウェブTVのCMは一般的に番組の合間に15秒や30秒のものが流される。
CMを流す企業のターゲットが見ているであろう番組に広告を出稿するのであるが、そもそも視聴者が観たいのは番組そのものであり、CMではない。
話題になるようなCMは別として、CMは邪魔者扱いされることが多い。視聴者が観たい番組のいいところで挿入されるのが普通だから、邪魔だと感じるのも当然である。
広告を作る側としてはなんとかして商品の特徴を伝えつつ、視聴者に観てもらうかに苦心しているわけだが、ついにコンテンツそのものを広告にしてしまう、あるいは広告そのものをコンテンツにしてしまう映像が出た。
かつて資生堂がマキアージュのプロモーションとしてCM出演女優を多数起用したドラマを制作したが、それはあくまでドラマであり、従属的な扱いとしてマキアージュがあった。
しかし、今回見つけた「クオーク」の映像 はあくまでクオークのためのドラマだ。
ドラマの中にクオークの言葉は一言も出てこないし、クオークが作った映像であることを知らなければ何のことかわからない(ドラマとしてはそこそこおもしろい)。
しかし、クオークが作ったドラマであることを前提にみると、いいたいことが非常にわかるし、実によくできたドラマであると思える。
動画共有サイトはもはや一般的なインフラになりつつあるし、企業側はそういったサイトや、あるいは自社サイトを使ってこういう試みをますますやるようになるだろう。なによりコストがものすごく安いからだ。しかも、どれだけ見られているかがわかるからその効果も計りやすい。
ただ、その映像を見せるためのプロモーションが必要かもしれない。
今回のクオークの映像はたまたま見つけたのだが、企業サイト上にある限り何かのきっかけをつくって企業サイトに誘導する必要がある。
以前このブログで企業のCMを一覧できるサイトができるのでは、と予想したが、今回のクオークの映像を観て、その予想は以外に確度の高いものではないかと思った。
書籍業界のジレンマ
CDと同じく書籍は販売価格が指定されているから、新品であればどこで買っても価格は同じ。
だが、古本になるとその制度の対象外となるから、価格は自由。定価が1,500円のものであっても800円で売られていたりする。
そして古本市場は活況だ。古本チェーンの賑わいを見てもそれは明らか。
これを支えているのは先にあげた価格指定制度に他ならない。
人は何でも何かと比べる性質があるし、価格はそれが数字である分非常にわかりやすい。価格,comが人気なのも、そのせいだろう。
書籍は背表紙に価格が書いてあるし、ネットにも何円オフといった表示があるから、常にバーゲン状態のようなもの。皮肉にも作者や卸業者の利益を守る制度が古本市場に活気を与えているのだ。
古本市場の活況が価格比較の結果とするなら、現在の価格指定制度をやめてしまうと書籍の市場は縮小する。古本市場は比較対象を失うことで、また震撼書籍市場には古本を通じてファンになる機会の現象が悪い影響を与える。
新品が安ければ市場が拡大するという単純な構図ではないように思う。低価格で拡大するのは古本市場だけだ。
これはブランド品の市場に通じている。例えば通常10万円で販売し人気のバッグがあったとする。これを「本日限り3万円」とするとおそらく列ができるほどの人気になるだろう。しかし、常に3万円で購入できるようにしたら、人気が3倍になるかというとそんなことは絶対にない。むしろ人気は落ちるだろう。これは、通常高価格のものが安くなるから行列ができるのであり、常に安いのならばいらない、という心理がはたらくからだ。
おそらく書籍業界の人たちは価格指定制度をはずしたくともはずせないジレンマに陥っているのではないだろうか。
古本業界の人たちにとっては、再販制度さまさまである。
書籍業界の拡大は底辺の拡大する三角形ではないか。
いくら売れても拡大するのは古本市場。
ネットでデータとして書籍を購入することが当たり前になるまでは古本市場は安泰だ。しかしデータ購入が発達すればするほど古本市場は不要なものとなってしまうことは間違いない。
教育現場への企業人派遣
一般企業からの教師への門戸が拡大するようだ。
これは教育の質を上げる上で非常にいいことだと思う。
学力の低下が話題になり、ゆとり教育の廃止によってそれを解決しようとする動きがある。国語や数学などの学力を向上させるには単純に勉強時間を増やすことが問題の解決につながることは間違いない。
しかし、企業から派遣された人材が教育現場で、仕事の現場の様子を伝えることで、それら一般科目を学ぶモチベーションはきっとあがるだろう。
例えば銀行員が小学校や中学校で授業をしたとすると、それまで漠然と数式覚えていた数式が、どのように使われるかがはっきり見えてくる。さらにもっと高度な数学理論への興味もわきやすくなるかもしれない。また、商社の社員による授業では貿易の話をすることで社会や英語を学ぶことの重要性が伝えられるだろう。
これは一般社会で働いたことのない教師には絶対にできないことだ。
わたしの小学校から高校までを振り返ると、社会で働くひとの話はほとんど聞いたことがなかった。社会化見学のような形で工場などに行った覚えはあるが、遠足の類としか認識していなかったように思う。
学力向上の議論も大いに必要だが、学力がなぜ必要とされるのかをもっと議論してもいいように思う。
会社には当然上司と部下の関係があり、できる上司は教育も上手だ。
教育上手が誰でも大学で教職課程を履修しているわけでは当然ない。
どんどん児童や生徒に社会人と接する機会を与えるべきだ。
親としても、子供から「テストで100点取ったよ」といわれるより「○○で採れる~を輸入したら儲かるんじゃないかな」なんていわれたら頼もしいではないか。それが子供らしいとかないとかの議論ではもはやない。なんのための教育かを考えればそれはむしろ自然なことなのではないだろうか。
評論家は必要か
ネットの発達で一億総評論家になれる時代となった。
ネット上で買える商品はすべて購入者の意見があるし、また映画もかなり専門的に解説してくれる。
私自身もネットショッピングや映画を見る場合などには大いに参考にさせていただいているのだが、こんな時代になると果たして評論家は必要なのかと思ってしまう。
特に映画や本については、観た人や読者の個人的な主観がものすごく影響するから、評論家がどんなに酷評しようが、人によっては名作になり得る。
もともと本や映画を専門家が評価することには疑問を持っていて、さまざまな賞にしても専門家が評価したものを一般の人が追いかけで見る・読むという流れに違和感を感じていた。
だから、テレビなどのマスメディアであれこれいう専門家はあまり好きではなかったが、最近では邪魔にさえ思うことがある。
彼らが何も言わずともネットを開けば何人もの人が感想を公開してくれているのだ。
しかもネット上で公開される感想はほとんど匿名だからその意見に対して何のバイアスもない。
当然評価する意見もあれば酷評するものもある。しかしそれが自然だと思う。さまざまな意見を見て、納得できるものだけを取り入れていけばいいのだ。
人の感性に訴える本や映画を、もちろん何らかの専門的な指標はあるにせよ、評論家と称される人が論じるのはおかしいと思う。
何より映画のCMに評論家が出ているのに、その人が公正に作品を判断しているとは思えないのだ。
情報の切り売りが招く混乱
先の女性蔑視発言はいまだおさまらず、特に女性からの非難はすさまじい。自分を「機械」とか「装置」とか言われれば怒るのも当然だろう。
マスコミは相変わらずこういったニュースを伝えるときは問題部分しか放送しない。そしてその発言を徹底的にたたく。野党議員も発言の問題部分だけを集中攻撃だ。
だから一般のひともそこだけに注目し、それに対しての感情を持つことになる。
しかし、大臣はこの一言を発したわけでなく、その前後の文脈の一部としてこの発言を捉えなければならない。
発言の全体から、彼が言いたかったのは「女性一人で産める子供の数は決まっているから、少子化を食い止めるには、一人ひとりの女性にがんばってもらうしかない」ということのように思う。
これを伝える比喩の一部として先の問題発言があるのだ。
確かに今回の比喩はほめられたものではないが、問題の本質は違う部分にあるのではないか。
それは大臣が「女性ががんばれば少子化が防げる」と考えていることだ。
子供を産むには当然パートナーが必要であり、さらに産んだ後には経済的・環境的なものも重要となる。そこを同解決していくかが彼の仕事であり、国会で審議すべき課題である。
それなのに実際は問題の比喩を過剰に問題視し、国会を放棄するまでになった。
女性を機械に例えてしまう大臣の資質は問われるべきであるが、問題の本質は見失ってはならない。
自民党も、これだけ彼の発言が問題になっているにもかかわらずウェブサイトに全発言を載せるなどの対応をしていない。これでは彼の発言はまったく間違っていたと党が考えていることになり、大臣を辞職させないことに筋が通らない。
テレビはもちろんネット上でもかなりの意見がこの問題にはあがっている。だからこそウェブサイトを有効に使っていくべきだと思うのだが。
「いまさら」のダイエット特集捏造批判
テレビ番組で特集されたダイエット特集の内容が捏造されていたことに対する批判がすさまじい。テレビ局には1万件を超える苦情が集まっているという。
信頼していたメディアに裏切られた恨みはわからなくもないが、そもそもこれまで放送されていた数多くのダイエット特集は果たして効果のあるものだったのか。
今回問題となった番組以外にも、ダイエットについて特集した番組は数知れない。その数の多さがそれぞれのダイエット方法の効果のなさを表しているように思う。ひとつでも効果的な方法があれば次から次への新たなダイエット方法が紹介されるはずがないからだ。
昨今のメタボリック症候群への危機意識の高まりを受け、女性だけでなく男性もダイエットに関心を持つ人が少なくない。そしてそういった人たちの多くが「楽して」やせるという情報に非常に敏感だ。
~を飲むだけ、~を加えるだけ、など苦労せずにやせると聞けばとりあえず飛びつく。そしてすぐ飽きる、あるいは効果がでないためやめる。その繰り返しだ。
これまでのダイエット法は効果がなくともその理論は間違ってないはずだから、ダイエット失敗の原因は自分にあると思っていたのだろう。ところが今回の問題ではその理論が捏造されていたわけだから怒りの矛先がテレビ局に向いた。
おそらく問題が発覚せずとも今回のダイエット食品ブームはすぎ終わり、また何ヶ月もたてば新たなダイエット法が出て、またちょっとしたブームとなっていた可能性が高い。
食品に限らず、腹筋を鍛える機械、あるいはウエストを細くするベルトなどいずれも「楽して」効果を実感できそうなものは次から次へと世に出てきては消えていく。
「運動すればやせる」という小学生でも知っている非常に当たり前のダイエット法があるにも関わらず、少しでも楽して、しかも過すぐに効果を求める世間に応える形でメディアや企業は次から次へと情報や商品を世に出していく。
今回のダイエット食品番組の捏造を批判するなら、これまで紹介された食品や商品についても調べてみてはどうか。いずれも捏造とはいえないまでも効果があった人のほうが少ないダイエット法のはずだ。
今回の捏造問題をきっかけに、メディアや企業の薄っぺらさ、消費者の浅はかさがはっきりと浮かび上がった。
楽して得られるものなど何もないと言うことだ。
転職回数の考え方
最近は第二新卒という言葉も一般化しつつあり、新卒で入社した企業を3年以内で退職することに対する悪いイメージは以前に比べれば小さい。
また、人材紹介会社の隆盛を見ると、転職市場を扱うビジネスは非常にうまみがあるようで、ひいては転職希望者が社会にはうようよいるということになる。
最初に入社した企業で定年を迎えることを当たり前としていた時代の人たちからすれば今の状況はにわかには信じられないかもしれない。
転職する際に、採用する側が気にする項目のひとつとして、勤続年数がある。
通常3年を一区切りとし、それ以下だと何か問題があるのでは、と考える企業も少なくないようだ。第二新卒ならまだしも2回目、3回目の転職をしようとして、それまでの職場での勤続年数が1,2年の場合はきちんとした説明が必要となる。
だが、一概に勤続年数を問題視するのは間違いだ。
仮にある業界に新卒で入社し、3年以内に全く別の業界に転職したとする。そしてまた3年以内に別の業種に転職するケースであれば、それはしかるべき理由がなければならないと思う。この場合は単に仕事への不満が原因で転職をしていると考えられるからだ。
しかし、同様の勤続年数であっても、同業界への転職の場合、先に挙げたケースと同様に考えてはならない。
最近は少ないのかもしれないが、大企業では、1、2年でさまざまな部署を経験させるところもあるから、例えば今年は企画、来年は人事というように、毎年のように異なる業務を担当することになる。同一会社内とはいえ、これはいわば異業種への転職を繰り返すことと大差はない。
しかしこの場合、履歴書上では同一企業に勤務していることになるから、紙面上は非常にきれいだ。
一方で、転職を繰り返しながらも同一業界でキャリアを積んでいる場合、その業界でのキャリアを着実に積んでいるにもかかわらず、書類上では転職回数が多いということで、キズモノの履歴書になってしまう。
一般にはキズモノの履歴書であれ、後者のビジネスマンは(特に犯罪などの問題がなければ)少なくとも自らの意思で会社をかえてきたわけで、自らの意思なく会社の言うがまま異動してきたビジネスマンよりも仕事に対する意識は高いように思う。
もちろん、前者のビジネスマンには自らの意思で異動した人もいるだろうし、後者には業界は好きでも会社のちょっとしたところが気に入らず退職を繰り返した人もいるかもしれない。
しかし、書類上の勤続年数を画一的に評価する制度は大いに問題ありだ。
今後(もしくはすでに)そういった評価の仕方をする企業の発展は見込めない。
「3年も待てない」若者はもう普通なのだ。
いじめを本気でなくすには
マスコミは勝手なものだから、一時期あれだけ騒いでいたいじめ問題もほとんど報道せず、最近は女性蔑視発言や情報番組の捏造問題に熱心だ。
マスコミで取り上げられずとも当然いじめ問題は解決したわけではなく、どの学校にも根強く残り、また次々に発生しているはずだ。
そもそもこの問題は新しいものでもなんでもなく、もう何十年も昔から、あるいは人間が集団生活をするようになってからずっとあるような問題ではないのか。それを今になって国が委員会を立ち上げるというのもおかしな話だ。
集団生活には切っても切れないこの問題を政府がどう解決するのかわからないが、わたしは今の学校制度が続く限り、いじめた生徒を出席停止にしようがいじめられた生徒を別のクラスに移そうがそれは所詮事後処理に過ぎず、根本的な解決にはならないと思う。
子供は自分と違う相手に対して不快に思う傾向があるから、いくら大人が「いじめはやめよう」といったところで子供は変わらない。子供が変わらないのなら学校制度を変えるしかない。
現在の学校の多くは学級制度を採っており、そのクラスは常に行動を共にする。国語をならうときも体育をやるときもほとんど一緒だ。だからクラスはある種村社会であり、当然仲のいい生徒同士でグループ化されるしまた仲間はずれも生まれる。そしてそれはいじめにつながっていく。
いじめの発生について上記のような仮説をたてると、いじめを防ぐには学級制度を廃止すべきという結論につながる。
わたしの考える非学級制度は大学の制度に近い。大学は多くの授業が選択性だから学級制度はとりあえずあっても別々の行動をとることが多い。むしろ他の学級の生徒と授業を受けるケースがほとんどだ。
高校までの学校制度でこのシステムを取り入れてはどうだろう。
高校までは大学のように授業を選択して受けることはほとんどない。しかし、国語や数学など必修科目を必要時間履修することを前提に、自らカリキュラムを組むことに何の問題もないはずだ。
同じ時間にある生徒は数学を、ある生徒は社会を学ぶ。生徒が自ら授業を選ぶわけだから、教師も当然選ばれる形になる。これまで受身姿勢で受けていた授業を能動的に捉えられるし、教師側ものうのうとしていられないだろう。
結果、学校の村社会はなくなり、仲間はずれなどなるほうが難しくなる。何より、友達を作ることが得意でない生徒にとって、学年全体から仲のよい生徒を見つける機会を与えられる。いじめだけでなく登校拒否も減るのではないか。
授業選択性の採用により、いじめだけでなく登校拒否の減少、さらに生徒の自主性や教師の指導力の向上が見込まれる。
わたしの勝手な仮説に基づくこととはいえ、やってみる価値は大いにある。しかし、このシステムは生徒にはよくとも教師側にメリットは少ない。
授業カリキュラムの複雑化や、生徒に選ばれることへの重圧など、仕事がかなり大変になる。
制度を決めるのが学校側である以上、現場の教師の反対は必至だ。何かと理由をつけて拒否するだろう。
それを打破するためには国が決めるしかない。
特区でもなんでもいいから、とにかくやらせるべきだ。
政府レベルで検討しているからこそ言えることもあるのだから。