不倫はありだ。
報道キャスターと国会議員の不倫が話題だ。
恋愛の話題はマスコミが大好きで、有名人なら業種に関係なく追い掛け回す。視聴者の関心も高いからスポーツ紙の一面に載ることも少なくない。
単純に交際しているよりも結婚、結婚より離婚、不倫と、まさに他人の不幸は蜜の味であることを証明するようなマスコミの扱いとそれを求める視聴者の姿だ。
誰が誰と付き合おうと別れようと同でもいいじゃないかと思うのだがそうはいかないらしい。
今回スクープされた二人もそんなマスコミの犠牲者であるわけだが(自業自得だから犠牲者というのは不適切かもしれないが)、国会議員と、新番組を担当するキャスターの行動にしてはお粗末過ぎた。新番組をアピールするための話題づくりにしてはリスクが高すぎだ。
浮気も不倫も似たようなものだが、不倫のほうが法で結ばれた関係に踏み込むことからか、悪いイメージがある。しかし、不倫というネーミングはどこか浮気という言葉よりもドラマ性を感じさせ、ちょい悪な恋愛をイメージさせる。
世間的に非難されることの多い不倫だが、私は賛成派だ。
失楽園の著者の渡辺淳一は「不倫こそ究極の愛の形だ」と言った。世間体や将来のことなどを排除した純粋な愛情の形が不倫だという。
それが正しいかどうかはわからないが、お互いが不倫であることを認めての恋愛は健全だと思う。家庭を壊すことはよくないが、結婚したからといって無理に他の異性への感情を押さえ込むのはあまりに不健康ではないか。
フランス人は家庭を持っていても、親の幸せは子の幸せと、躊躇なくパートナーを変えるらしい。そんな親を持つ子の気持ちはわからないが、その考え方もありだ。
生活のパートナーを変えなくとも、普段と違うひとと例えば食事などをすると奥さんや旦那さんへの接し方もスムーズになるように思う。どんなに好きな料理もそればっかりだと飽きてくるのと同じ理論だ。それは付き合っているカップルにも当てはまると思うし、お互いを束縛することは非常に不健康。
ただ、冒頭にも述べたように世間的には受けが非常に悪いので、やはりばれないようにしなければならない。有名人ならなおさらですね。
報道の限界
人が情報を得る手段として、ニュースが最も一般的だ。
テレビやラジオあるいはインターネットでタイムリーな情報を、そして、雑誌またはインターネットでより詳細を知ることが多い。雑誌や一部ネットを別にして、ほとんどのニュースを無料で得ている。なぜ無料なのかといえばそれは言わずもがなメディア側が広告料をスポンサーから得ているからだ。
メディアはスポンサーからの広告料で成り立っているわけで、いわばスポンサーはお客様だ。お客様の悪口を言えるわけがない。だから報道は時に殺人事件などを警察顔負けに関係地周辺を取材する一方で、企業事件の際にはそれほど深追いせずにいる。
報道されなければ人は情報を知る機会は激減する。事件を起こそうが人の意識に残らなければ事実上それはなかったことになりかねない。本来メディアはその名前からも中立であるべきなのに、その収益構造ゆえに中立たりえない。
しかし、一部雑誌やインターネット(媒体社サイトではない)ではテレビやラジオでは報道しない、企業の影の部分まで伝えている。特にメディア(新聞社など)のサイトではないインターネットサイトでは、その確かさは保障されないものの、言いたい放題。
テレビやラジオはスポーツやバラエティなど、真実を伝えざるを得ない番組のみに絞るべきだ。一部バラエティにはやらせ疑惑があるが、やらせも演出の一部だと思う。バラエティでのやらせは否定しない。
しかし報道でまでやらせを行う局があるのも事実。そこまでして報道をやらなくてもよい。真実がつまらないならやらなければいい。テレビへの期待はもはやそれほど高くはないのだから。
性犯罪と女子生徒、学校の役割
先日ある高校で、パンツスタイルの女子制服を導入することを決めたという報道があった。
スカートとの選択性だというが非常に画期的な試みだと思う。
今に始まったことではないが、女子生徒が被害者となる痴漢などの性犯罪は少なくない。これを防ぐ手段として、もっとも有効な手段が制服の改定だとつくづく思っていた。
女子学生の制服を対象とした雑誌やビデオ・DVDなどは数多く製作されているし、実際に同じような格好をした女性が街を歩いていれば、彼女たちが性の対象となりうることは想像に難くない。
しかも女子生徒の多くは制服をファッションと捉え、スカートを短くするなど、よりかわいく見せる工夫をしているからなおさらだ。
生徒を守る学校側として、そんな状況をなぜ野放しにしているのか理解できない。校則でスカートはひざ上何センチだとか規定したところでほとんど意味がない。学生に限らず、一方的に規定された規則は気持ちのいいものではない。その規則がなぜあるのかをしっかりと説明すれば、学生側も理解しやすいだろう。時には実際の事件を挙げて説明するのも必要かも知れない。
そういった説明をきちんとした上で自分のスタイルを通したいというならばそれは自己責任でやらせればいい。
社会は自己責任の上に成り立っているから、そういった概念を身につけさせることも必要だからだ。
しかし、そもそもかわいくするには性的になりがちになるというのは制服としてどうなのだろう。中学、高校生くらいの年代ならば、男女問わず自分をよく見せようとする意欲は強い。多少のリスクがあってもよりかっこよく、よりかわいくなりたいと思うのは当然だ。
制服が生徒をリスクにさらすことになっているとすれば、それは本末転倒である。
私服にすることは生徒の家庭の事情からむずかしくなることもあるだろう。ならば学校側として、スタイリッシュな制服を用意するとか、冒頭にあげたパンツスタイルも選択肢のひとつとするとか、いくらでも生徒を守る手段はある。
生徒集めを目的とした制服改定はよく聞くが、結果的にそれが防犯につながるなら一石二鳥だ。
いつまで制服制度が続くかわからないが、学校側も進学ばかりに気をとられず、もっと広い視野で生徒を見てほしい。
細かすぎるモノマネとロングテール
フジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」の1コーナー「細かすぎるモノマネ」が人気だ。
わたしも大好きなのだが、どのモノマネも非常にマイナーで、見たこともない人のモノマネなのになぜ面白いのか。
このコーナーの特徴は出演者がネタを終了した場合、床が開き、出演者は落ちていく。視聴者にここが落ちですよと教えることによって、笑いやすくしているのだ。これはトーク番組で面白いコメントに字幕が出ることと同じ仕組みだ。
かつてトーク番組で字幕を出すことをダウンタウンの松本氏がお笑いの質を下げるからよくないと言っていたが、このモノマネの床落ちは、これがないとどこで笑っていいのかわからずはっきり言ってつまらない。逆に言うと、落ちを教えてあげればマイナーなモノマネでも全国区の笑いになるということだ。
その絶妙な仕組みにとんねるずの力が加わる。かつて同番組ではコントを中心に展開し、この二人がやることはどれも面白いというイメージを視聴者は持った。そんな二人のフィルターを通してのモノマネだから、マイナーなものでもきっと面白いのだろうという先入観を持ちながら番組を観るから面白く思える。いわば面白保障だ。
ウェブ2.0によってもたらされたと言われるロングテールという言葉をよく耳にするが、これは恐竜(ex.ティラノサウルス)を横から見た姿(左向き)に由来し、その姿を縦軸を売り上げ、横軸に商品のランキングとしたグラフにおいたものを言う。つまり売り上げが上位は多く売れ、下位はほとんど売れていない状態を示し、このウェブ2.0によって、しっぽの部分、いわゆる売り上げ下位の商品を扱ってもビジネスとして成り立つようになったとしている。
細かすぎるモノマネはいわばモノマネ下位のテール部分であり、それをとんねるずというフィルターを通すことでマスに受けるコンテンツ、ロングテールで言うところの頭の部分に消化させたのだ。
テレビを観る人が減ったと言われるが、それは娯楽の多様化によるものとする人もいる。テールの部分が長くなっているということだ。
だが、見せ方によっては、テールの部分をマス向けにしてしまうということを細かすぎるモノマネは証明した。
英語は勉強科目か
つい先日、文部科学大臣が英語の小学校からの履修は必要ないと述べた。まずはきちんとした日本語を習得することが先決だと。
わたしは英語の早期学習は絶対に必要だと思うし、特に幼児期からの英語は学習ではなく日常生活の一部となるから、習得するにはさらによいと思っている。
英語は社会や数学と並んで教科科目となっているから、社会などと同じ類のものだと考えれれがちだが、これは誤りだ。
研究者になる場合を別として、一般に数学や社会は実社会で使うことはほとんどない。が、英語は違う。日常生活の一部としての道具なのだ。社会や数学を学校を卒業後に英語を学ぼうとする人が非常に多いことからも、それを確信している。
しかも中学、高校などで英語を学習科目として学ばせるのに対し、一般の英語学校はコミュニケーションのための道具として英語を教えているから、同じ英語でも学生時代のそれとはまるで違う。学生時代の英語学習は全くと言っていいほど活きていない。
冒頭の大臣の発言は明らかに英語を学習科目として捕らえたものであり、英語が学習すべきものであるならば、それは小学校でやらなくともいいのかもしれない。仮に小学校から始めたところで、中学校1年で学ぶ科目を小学校で学ぶだけなら、全く日本人の英語能力は変わらないだろう。
英語は絶対に早く触れさせるべきだが、もし小学校で英語を始めるなら、学習科目にすべきでないというのがわたしの意見だ。
しかし英語に触れる環境は与える。つまり日常的に英語を学校にあふれさせるのだ。国語は難しいかもしれないが、算数や社会、理科などは英語のネイティブスピーカーに教師を務めてもらう。6歳くらいからそんな環境に身をおけば、いやでも日常会話程度は身につくし、発音だってネイティブ並になるかもしれない。
大臣は英語は日本語がしっかり身についてから始めるべきだというが、いつになればしっかりした日本語が身につくのか。現在一般的に英語を学び始める中学1年生は立派な日本語を使っているか。大学生だって、あるいは社会人だってきれいな日本語を使う人ばかりではない。言葉使いのよしあしは、年代ではなく、その人個人の問題だ。
そもそも外国人と日本人のとの間に生まれた家庭は日常的に2ヶ国語に触れる機会が多く、バイリンガルになるケースが多いが、どちらかの言葉が多少弱くとも、どちらも中途半端という話は聞いたことがない。
バイリンガル教育をしながら苦手な言語を強化するほうが、ある程度成長してから外国語を学ぶよりも絶対によい。文部大臣なら英語の重要性を理解しているだろうから、英語学習についてもう少し違った見方をしてほしかった。
現在はさまざまな特区があるが、その一環として、アメリカンスクールばりの英語での教育を(英語そのものの教育ではない)公立の学校でやってみてはどうだろうか。
学校は本来実生活に活きるものを学ぶべきところなのだから。
音楽データ配信とCDショップ
大手CD小売チェーンが音楽配信販売を始めるようだ。
iPodや音楽ケータイなどのポータブル機器が普及し、データとして音楽を持ち歩くことが当たり前になりつつある現状で、CDだけにこだわっていたのでは立ち行かないことは想像に難くない。
CDショップは当然ながらその店舗の数だけ土地代、人件費、店舗建築・維持・改装費、さらには商品の配送コストなどを負担しなければならないが、データ配信ならばそれらは大幅にカットできる。実店舗がないし、商品仕入については売り上げ予測など大きな問題ではないから在庫リスクもない。これは資源の無駄をなくすことにもなる。いいこと尽くめなのだ。
映画などの映像データ配信も普及しつつあるが、それほどそのデータ容量に対応できるインフラが整っていないためまだまだDVDなどのメディアが一般的だが、音楽についてはケータイでも取り込めてしまうほど軽いし、iTunesを始めとしたデータ配信に対応するインフラも整っている。CDを買わなければいけない理由が少なくなっているから、必然的にデータ配信を利用する人が多くなる。
わたしがまだCDに分があると思っているのは、アルバムを聴く場合のコスト、一部レーベルのアーティストの音楽を聴きたい場合。
アルバムを例えばiTunesで買おうとすると、単純に曲単価×曲数となり、ほぼCDの購入価格と同じ。あまりうまみがない。リリースと同時に買おうというなら別だが、すでにレンタルされているものならば、一曲の値段で10曲以上を取り込めるのだから、データ配信業者にはもっとがんばってもらいたい。厳密にはこれはレンタル業者が儲かるだけで、小売業者に分があるとは言えないか。仮に新譜を買ったとしてもデータとして取り込んだらアマゾンなどで売ってしまうし、またそれを買う人も少なくない。
一部レーベルのアーティストについては、データ配信に対応していないから、CDを購入またはレンタルして取り込んでいくしかない。ソニーなどは自社レーベルのアーティストを、iTunesでは聴けなくてもソニーが運営する音楽配信サービスでは聞けるように
しているから一概にCDに部があるとも言えないが、iPodユーザーは不便な思いをしているはずだ。
以上現状ではCDに部があると思われることでも数年後には解決されるだろうし、ますますCD小売店は厳しくなる。
音楽を製作する側にとっても、データ配信が普及してアルバムが安く配信できるようになれば、これまでレンタル業者の利益となっていたものが吸収できるようになるから、CDからデータ配信に移行していくことは自然なことだ。
CD小売店が生き残るにはどうすべきかを考えても、音楽レーベルに資本参加してデータ配信しないようにするしか思い浮かばない。自社レーベルを立ち上げてひたすらCDにこだわった展開をしていくことも考えられるか。
いずれにしてもCD小売のは早晩CDから離れたほうがよさそうだ。
レジ袋どうしてますか?
「資源の再利用」という言葉はもう一般的に浸透していると思うが、それが行動につながっているかというと間違いなくNOだ。
スーパーの袋の有料化などが一時話題になっていたが、まだまだスーパーの袋はタダでもらえるものだという意識が強いし、会社帰りにスーパーに寄る人手、買い物袋を持参している人は珍しい。
話題になった割りに、スーパー側にも袋の消費を減らそうという姿勢は見えないし、消費者側にもレジ袋を持とうという意識を持った人を私は知らない。買い物そのものを目的としてスーパーに寄る人たちは、もしかすると家を出るときにマイレジ袋を持って家を出るかもしれない。しかし、会社帰りにスーパーに寄る人たちはほぼ100%、そんなことはしないだろう。
もしかすると会社に持っていくバッグに収まるような例えば酒のつまみや雑誌などを買ったときも、普通に袋に入れてもらっている。そのことで別に損はしないし、袋を断ったところで得をしないのだから、そうするのは自然なことだ。
ならば袋を使わないことが得であるような仕組みを作ればよいのだが、袋を断るお客さんにその都度割引をしたり、ポイントを付与したりするのは、効率が悪すぎる。
では何枚かまとめて持参した場合にキャッシュバックしたらどうだろう。スーパー側から「そんなもの持ってこられても困る」と言う声が聞こえてきそうだが、であるなら別の期間がそれを回収し、ビニール袋製造業者に返すことはできないのだろうか。資源の再利用だから材料費が安く済むと考えるのは素人考えで、むしろ材料から作るより高くつくのかもしれない。
やはり出口、つまりスーパーから消費者へ渡される部分での工夫がもっとも効果があるようだ。
袋が有料にならない限り消費者が進んで買い物袋を持参することはないだろう。店側も消費者離れを恐れ袋の有料化は簡単にはできないはずだ。
ヴィトンやグッチなんかがコンパクトにまとめられる買い物袋なんて出したら変わるかも。その前に日本の問題は日本で解決しようとサマンサあたりがやってくれるんじゃないかと期待しています。
無責任なマスコミの影響力
もうずいぶん昔のことのように思えるが、W杯の決勝でフランスのジダン選手が相手選手に
頭突きしたことは大変な話題になった。
W杯の決勝という大舞台にジダンの引退試合というシチュエーションが重なり、問題のシーンは何度も何度も
放映された。
ことの直前に相手選手が何を言ったのか読唇術を使って明かそうとしていた番組もあったし、
理由はどうあれ大変な影響力をもつ大選手の暴力は許されないという意見も耳にした。
確かに暴力は許されるものではないが、あれほど重要な(しかも自身最後の)舞台であんなことをするの
だから、よほどの理由があったことは想像に難くない。
しかし映像を報道するマスコミはただあの映像を何度も流すだけ。相手選手が何かを言っている様子も
見えたが解読はしていない。ただその行為のみを視聴者に伝えたのだ。
スポーツ選手に憧れる子供たちによくないと言いながらも何度も問題のシーンを流すマスコミは
一体何を伝えたかったのか。悪影響を与えるならその行為の事情がはっきりするまで放送を
控えるべきではないのか。
その影響力も考えず、多くの人の興味を引くだろうというだけであの場面を放送したメディアは
決して少なくない。
言いっぱなしであとは知らない、という姿勢を今回の報道には強く感じた。
問題の行為と考えるなら放送と同時に問題提起もすべきだ。
あの行為を真似る子供がいたならばそれはマスコミの責任である。
起こるべく起こったプロ野球人気の凋落
中日がまもなく優勝を決めようかという大詰めを迎えるプロ野球だが、今ひとつ盛り上がりに欠ける。
かつて「国民的行事」とまでいわれた伝説の10.8が遠い昔(実際10年以上前)に思える。もはやどこが優勝しようとそれは野球ファンのみの関心ごとであり、世間一般の関心ごとではなくなりつつあるようだ。
毎年のように一流選手が海を渡り、また毎年今年こそメジャーに行かせてくれと球団に要求する選手がいる。メジャーリーグに日本人選手が多く所属することで、かつて日本のプロ野球を楽しむようにメジャーリーグを楽しめるようになってきた。
日米のレベルの差は縮まってきているとはいえやはりまだその差は歴然で、日本プロ野球がメジャーの予備軍となりつつあることは否めない。ファンとしても、日本でバリバリ活躍する選手たちがメジャーへの移籍を希望している状況をみれば、野球はメジャーだ、と思うようになるのは自然なことだろう。
メジャーリーグの日本への浸透も日本の野球離れの一因であることに違いないが、それだけではないのではないか。
かつて2リーグから1リーグへ球界再編の動きがあったとき、古田選手会長を筆頭に、選手たちがファンに2リーグ存続を必死に訴えていた。試合前にはサイン会を開くなど、ファンとの距離を縮めようと努めているように思えた。
だが最近はどうだろう。日本ハムの新庄選手や森本選手のファンサービスは目立つが、それくらい。よく野球を観る方に言わせればもっとファンサービスしている球団、選手はいるというかもしれないが(ヤクルトのように)、めったに野球ニュースを観ない人にもわかるようにアピールしなければファンの獲得、維持はできない。
好きな人だけ観ればいいなんて考えではもはやだめなのだ。それをわかっている新庄選手などはユニフォームに一工夫(襟付)加えて注目を集めたが、プロ野球機構の判断はNO。野球規則違反だという。
それをいうなら、現在多くの選手に見られるダボッとしたパンツスタイルも原則的にだめだろう。目立たなければ違反もよしとし、目立つ(注目を集める)違反はNGとする姿勢に危機感を覚える。
プロ野球は教育的側面もあるから、あまりに行儀の悪いスタイルは規制すべきだが、例えばシャツの第一ボタンをはずしたり、アンダーシャツに工夫を加えたりなどということはまったく規制の必要はない。それらを規制するならガムをかみながらのプレーのほうを規制すべきだ(これは科学的にはリラックス作用があるようだが)。
前述した理由から純粋にプレーだけではファンをつかむことは難しくなっている。ならばそれ以外の露出でアピールしなければ、テレビ中継が激減する中でファンを獲得することなど無理だ。昔からのプロ野球ファンがほそぼそとラジオで楽しむような状況になってしまう。
金髪だって髭だって、プレー同様のアピールポイントだ。いい大人にそれらを規制する意味が理解できない。紳士たれなんてことをチームの方針とする球団もあるようだが、いまどれだけの人がその球団に紳士らしさをみているか。
球場で生のプレーはまだまだファンの心を熱くさせている。もっともっと球場に客を呼ぶ工夫を、そしてそれらを認める規制緩和をぜひともお願いしたい。
ケータイのこれからの価値。
最近よく耳にするケータイのナンバーポータビリティ(NP)。いよいよ来月実施され、各社のユーザー争奪戦も激しくなってきた。端末の性能、コンテンツ、サービス料金などあらゆる手を尽くしての囲い込み、新規獲得を狙っている。
ユーザーへのアンケートでは優位と見られるキャリアもあるようだが、ユーザーがケータイに求めるものとは何なのだろう。
異なるキャリア同士での通信では、通話は何の問題もないが、メール通信の場合絵文字が使えない場合があることがネックになっていた。しかし最近ではその問題も解決されつつある。
他人との通信で不都合が生じなければ、キャリアの差は対個人の通信、特にインターネット通信に見られるようになる。
auがNPで優位といわれるのはこの分野で他のキャリアより先にいる印象があるからだ。
auがケータイ市場の最大の消費者層である20-30代に魅力的なコンテンツ(着うたフルなど)をそろえ、また通信速度も抜きん出ている。ドコモがようやく高速通信対応機種を販売したがいまだ一機種のみで、後追いの感は否めない。
しかしそこは王者ドコモ。これから高速通信対応機種を続々投入してくるだろう。auが先進的なイメージで優位を保てるのはそう長く続かないかもしれない。
非公式サイト、いわゆる勝手サイトの充実、モバイル検索エンジンの標準装備などでコンテンツのキャリア間での垣根がなくなりつつある現在、ユーザーがケータイに求めるのは端末の性能と料金に絞られるだろう。
そうなるとキャリア各社はユーザーに対してケータイの新たな利用価値を提案しなければならない。
かつてはケータイをタダで配ってもその通信費で稼げたが、これからは通話も通信も定額が当たり前になる。ケータイユーザー数も頭打ちとなるなかで、ケータイキャリアがどう収益をあげるのか。
わたしは間違いなく金融事業だと思う。
ご存知のようにおサイフケータイは当たり前、ドコモ機種ではクレジットカード機能も標準になりつつある。
ドコモはケータイ内部での収益の限界を察し、消費対象をケータイの外に見ている。もちろんケータイコンテンツ販売での収益もおろそかにはしないだろうが。
欧米に比べるとまだ遅れている感はあるがクレジットカードの使用も一般的になりつつあり、またエディなどを通してケータイでの買い物にも抵抗がなくなってきている。ケータイにクレジットカードが組み込まれる土壌は十分なのだ。
かつてその名のとおり配送業者だったアメリカンエキスプレスが収益の柱を変えることでクレジット業者として現在の地位を確立したように、通信業者としてのドコモが、金融業者として一気に業界を席巻するかもしれない。
音楽に収益の柱を求めているように見えるauと金融にチャンスを見出したドコモ。あくまでケータイで勝負するソフトバンクと三社三様のケータイ業界。
いずれも厳しい競争の業界だが、発展途上の金融にこそ、宝が埋もれているように思う。