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音楽ケータイに必要なもの

ケータイで音楽を聴くことが当たり前になりそうな(もはやキャリア側はこれを収益の柱にしなければならなように見える)状況だ。


音楽を聴けるケータイもあるよ、というのではなく、この機種はより高音質で、あるいは便利に聴けますよ、という差別化を図るようになるだろう(カメラ付ケータイのように)。


音質やダウンロード機能を発展させるのは当然だとは思うけれど、ハード面の使い勝手についてあまり振れられていないように感じる。


ケータイとポータブルミュージックプレイヤー(PMP)が一つになるのは時代の流れ上自然なことだけれど(そうせざるを得ないとも言える)、両者の大きな違いの一つにイヤホンの使用がある。


ケータイでもイヤホンを使う人はいるけれどそれはまだ少数派で、PMP使用時だけ使う人が大半だと思う。


で、ケータイで音楽を聴こうとすると当然イヤホンを使うことになるが、ケータイとして(通信機器として)ケータイを使うときはイヤホンはいらないわけで、言うまでもなくイヤホンは邪魔になる。


PMPを使わないとき、イヤホンはどうするだろう。本体に巻くのが通常ではないか。


だとすると、音楽ケータイで音楽を聴かないときは同じく本体に巻くことになりそうなものだが、当然それではケータイとして不便で(邪魔くさくて)仕方ない。


巻かないならば本体からイヤホンを外すことになるがそれはとても面倒だ。


すでに音楽ケータイを使う人はどうしているのだろう。


そこで音楽ケータイに必要とされるのが、イヤホン収納機能だ。


ちょっと前にソニーがイヤホン収納機能付ウォークマンを出したが(わたしも使っていて非常に便利だった)、その機能はなぜかスタンダードにはならなかった。


わたしが使っていたものはイヤホンの取替えが出来なかったことが最大の難点だったと思うが、イヤホンが取替え可能で収納できればニーズがあるように思う。


ケータイの大きさは使い勝手を優先して決められていて、小さくする気になればもっともっと小さく出来ると聞く。


イヤホン収納スペースの確保などわけないはずだ。


ハイテク機能も大いに結構だが、こんなローテク機能も忘れて欲しくない。


別に内蔵せずとも外付けでイヤホン巻取りツールをつければいいのかもしれないけど。

親切を受ける義務

電車に優先席があるのはご存知だろう。


言うまでもなくその席はケガをしている人や妊娠している人、お年寄りのための席。


だから目の前にお年寄りがいるのに寝ている人がいたらよい気はしない。


が、それが席を譲ろうとしたが断られた結果だとしたらどうだろう。


断った人は何の気なしに断ったのだろうが周囲の人のほとんどはその経緯を知らない。結果、座っている人にある種軽蔑に似たまなざしが向けられることになる。


もちろん誰かの好意を受けなければならないということになると、それこそ好意が好意でなくなるが、電車など多くの人の目があるところでは、好意はなるべく受けるべきだと思う。声をかけるほうもそれなりの勇気を出しているのだから。


優しさに対してそれを受ける優しさで応えるというと何かはずかしいが、そんな光景は見ている側もいい気分にしてくれる。

プロピアの新しさ

プロピアのCMにはテリー伊藤氏が出演している。


テリー氏のヘアスタイルは知らないが、CMでは「わたしは使わないけどいい商品だからいかがですか」というスタンスだ。


育毛剤のCMに出演する人たちはどれもフサフサだし「きっと普段はつかわないんだろうな」なんて思うが、テリー氏の場合は明らかに自分は使っていないというスタンスなのだ。


ヘアフォーライフのCMで高木豊氏が自ら体験しているのとは対照的だ。


テリー氏の場合、自ら使用せずとも、数々のヒット作をつくってきたその感性から推薦する商品であることはしっかりと伝わってくる。


多くのCMが有名人の放つ光で商品を照らしているのに対して、プロピアの場合はテリー氏によって商品に光が当てられている。つまり、他の有名人CMに見られるような「タレントだけ覚えて商品覚えず」というケースになりにくい。


プロピアの商品は画期的であるが、そのCMまでもが非常に画期的であるのだ。


かつて一斉を風靡したあのユニクロのフリースの有名人証言広告(有名人が自分について語るもの)も実はテリー氏がカメラのそばでインタビューしていたものらしい。


テリー氏おそるべしである。

ケータイとiPod

ケータイへの付加機能もひと段落しつつあり、最近ではカメラの画質向上とともに音楽機能の向上がケータイ市場での差別化要因とされつつある。


ケータイの価値は当初どこででも話ができるということであり、それにつづいてメール機能、インターネット接続機能とケータイが何でもツールと進化してきた。


上記のような通信としての機能がひと段落すると、カメラ、おサイフ、音楽再生と、所有者個人のための機能が付加された。


通信機器としてケータイをとらえた場合、競合は他社のケータイとなるのだが、個人ユースとしてのケータイ機能の競合は他社のそれに加え、カメラならカメラメーカー、音楽なら音楽機器メーカーとなる(おサイフ機能は競合ではなく協力関係にある)。


だが、ケータイのカメラと例えばキャノンのデジタルカメラを比べる人は少なく(そもそもケータイにカメラがなければ日常的にカメラを使う人は少ない)、競合とは言いにくい。


一方で音楽機能はまさにケータイと音楽再生機器が同じ土俵であり、まともな競合関係にある。


ポータブル音楽再生機器市場ではiPodが圧倒的なシェアをとっており、iPodとそれ以外という構図といってもいいくらいだ。


昨今のケータイの進化はその市場構造を崩す可能性を十分に秘めていると思う。


iPodが市場で優位に立っているのはそのデザイン、記憶容量、使いやすさなどによるもので、他社はそれらの後塵を拝していた。


だがケータイは、もともとそうであるために、iPodにはない通信機能がある。どこでも音楽を取り込んでそのまま聴けるという大きな特徴がある。


つまりボクシングでまともにやりあって勝負にならなかったものが、異種格闘技戦となり少し面白い勝負になりそうなのだ。


ただ、ケータイはそもそも通信機能であるから、音楽を聴いていたために電池が切れ、通信ができなくなるという本末転倒の恐れもある。また、iPodの圧倒的な記憶容量に対抗するだけの記憶媒体を装備できるかも大きな課題であろう。


それさえクリアできれば、ケータイ音楽がiPodを抑えることも十分にありえる。


台風の目はリスモでケータイ通信音楽市場を引っ張りそうなau。ナンバーポータビリティ制度でもっとも恩恵を受けるだろうといわれているそのブランドイメージも追い風だ。


だがアップルも黙っているわけはなく、ボーダフォンにiPod搭載機種を提供する。


ケータイで購入した曲がPC上のitunesに同期され、またその逆も可能だとしたら、iPodの王座は揺るがないだろう。


ましてやボーダフォンだけでなくドコモとも提携したりしたらちょっと手がつけられなくなる。


アップルとしたらiPod市場はそのままにケータイでもitunesを使いたい人を囲い込むことができて安泰だ。


あるいはiPodに通信機能をつけてくるなんてことも全く考えられないことでもない。


やはり異種格闘技でもiPodは王者のような気がする。


スポーツニュースの限界

右も左もワールドカップである。


ワイドショーもW杯をトップトピックスにもってくるほどだ。


スポーツニュースももちろんW杯を中心に番組を構成していて、世界トップレベルのゴールシーンはもはやアートと思えるほど美しい。スポーツニュースのハシゴが今後しばらく続きそうだ。


サッカーは野球のように攻撃と守備を交代で行うものではないから、いつ得点あるいは失点するかがわからないから、一瞬でも目を離すと大変なことが起きてることもある。ただ、ゴールシーンはその数秒前から振り返れば一通りの流れがわかる(本格的に分析しようとするとそうではないかもしれないが)のでスポーツニュースでは得点者だけでなく、ボールを奪う、パスする選手の動きまで伝えることが出来る。


一方で野球はそうはいかない。


試合時間の平均が3時間ほどかかることからもわかるように、チャンスをつくり、得点するまでが本塁打を除いて数分かかってしまう。だからスポーツ番組では基本的に得点打の場面のみを報道することになる。


だが野球の醍醐味はスポーツニュースでは流れない部分にある。


得点打(本塁打や適時打)に至るまでその打者に対してどんな球種をどのコースに投げていたのかが重要なのだ。


サッカーがゴールまでいくつもパスをつなぐように、野球でも決定打にいたるまで(あるいは打ち取るまで)考え抜かれた攻め方(いわゆる配球)がある。


だからわたしは基本的なスタンスとして野球はリアルタイムで、サッカーはニュースで観るようにしているのだ。


ただ、さすがにW杯はリアルタイムで観る予定です。



芸術の価値基準

最近盗作疑惑の画家のニュースを目にする機会が多い。今回の騒動でその画家の名を知ったひとは決して少なくないはずだ。


実際どうか知らないが、芸術という分野は非常に閉じられた価値基準の中にあるものだと思っている。作品の評価は専門家によるもので、素人は専門家によって評価された作品をみて「さすが○○は違うわね」なんていってしまう世界だ。


だから、専門家がよいと判断された作品をとことんまねしたものは素人にとっては本物と同じものであり、偽物もまたよいものなのだ。だからこれだけブランド品の偽物が世に出回っているのだし、鑑定士というひとたちが必要とされているのだ。


しかし一方でそれは、鑑定士さえ本物と判断すれば本物になってしまうということであり、その評価基準は物そのものではなく、誰がつくったか、あるいは本物とされているものの仕様でつくられているかになる。


今回の盗作疑惑の絵にしたって、素人がみればやはり立派な絵である。が、それが誰かの作品を真似したものだとわかったとたん全く価値のないものとなってしまうのはどうも解せない。


もちろん盗作はほめられたものではないが、一つの絵としての価値が全くないわけではないのではないか。


わたしなんか絵のど素人だから、作品の判断基準なんて知らないけど、誰かがそれで感動すればそれは立派な名画であり、例えそれが誰かの作品をまねたものだとしても名画じゃないかと考える。オリジナルの曲よりカヴァー曲のほうがよかったりするのと同じ理論で。


芥川賞とか直木賞とか、専門家によって選ばれる賞のほかに、本屋が選ぶ本大賞というものがあるが、これは一般のひとの目線で選ばれるから価値がある。わたしはこの賞に賛成だ。そもそも本は専門家のものではなく広く一般のものだからだ。


しかし、誰かの決めた基準にしたがってよいもの、そうでないものを判断するのは不健康だ。だれがどう言おうが自分でものを見極める価値基準を持つべきだし、自分も持ちたいと、今回の件で強く思った。


英語は学校にいらない?

英語の早期教育についての議論を最近よく目にする。


小学校から必須科目として扱うべきだとか、なかには小学校以前からやるべきだという声もあるようだ。


わたしは英語に限らず言語教育はなるべく早く始めるべきだと思っている。早ければ早いほどそれは教育ではなく日常生活の一部となるため、習得しやすいと考えるからだ。


現在主流である中学校からの英語教育では、非日常の言語として英語に触れることになり、ましてそれに点数をつけていたのでは、それに拒否反応を示す人も少なくない。


国語や数学など他の科目と同列で英語を扱う限り、英語はやらされるものであり、学力を測る手段となってしまう。だから、英語を勉強する側も、点数を稼ぐことが目的となり、テストが終わる、あるいは学校を卒業したらすべて忘れてしまうということになる。


日本の英語教育は文法から入るから身につかないとよくいわれるが、そうではなく、英語学習のそもそもの目的が日常生活で使うことではないから身につかないのだ。


だから、ほんとに国が英語の習得を必要と考えているのなら、現在のように学校教育に組み込むのではなく、学校での日常言語として組み込むべきだと思う。当然試験などしない。そしてそれがもっともスムーズにできるのが小学校以前の乳児あるいは幼児教育の現場だと思うのだ。


もっとも小学校入学以前に英語になれた児童が入学する小学校でまったく英語を使う環境になければ意味がないので、教員の方々は担当教科同様に英語に取り組む必要がある。そんなとき頼るのは、英語担当の教師より駅前の英語学校だと思うのはわたしだけではないだろう。

SNS

だいぶ前から誘われてはいたんだけどなんとなくやる気にならなかったSNS。ちょっと前にフットサル専用のそれには登録したんだけど、最大手のあれには手を出していなかった。


だけど昨今の流れにはやはり逆らえず、職業柄やらないのもどうかなということで、ついに登録しました。


ブログと似て非なるSNSだけど大きな違いは紹介制か否かってこと。SNSおもしろいよ~って言われても登録しないと見れないから、ブームに簡単に乗りたくない自分と、流行の実態を探りたい自分とが最近は葛藤してた。


結局後者の自分が勝ったんだけど、SNSの魅力はすぐにはわかりそうにない。面白そうだとは思うけど。


とりあえず今思うことは、自分にはSNSよりブログがあってるかなということ。


というのも、ご存知の通りブログは不特定多数の人たちに向けた、基本的に匿名で書くメッセージあるいは日記だから、自分の思い通りに表現できる。対してSNSは友人あるいはその友人に向けた、基本的に誰が誰に向けたメッセージなのかがわかりやすいものだから自分には非常に書きにくい。


どちらがよくてどちらが悪いとかではなく、それは両者の特徴であり、ひとそれぞれの好みで選べばいい。


ケータイの普及で好きなときに好きなように会話が出来る世の中になりながら、人はどこかで文字によるコミュニケーションを求めているものだと最近強く思う。


ケータイは基本的に話す道具であるんにも関わらずメール機能なしにケータイは語れない。対マスに発信するブログ、SNSも基本的に文字情報によるものだ。


テレビ電話がその技術の発達、普及運動に反してそれほどもりあがらないのも無関係ではないだろう。


形に残るもの、目で見えるものを人は信じ、共感できるのかもしれない。


と同時に人は双方向なコミュニケーションを強く望んでいることになる。映像よりも文字のそれを望む人が多いのは文字の方がより深くコミュニケートできると考えているからではないか。


リアルな世界の自分とブログ上、SNS上の自分がいてもおかしくない時代。


他人とコミュニケートしているバーチャルな世界では、一方で別の自分との対話もしているのかも。


なんて昨今のブログやSNSの盛り上がりをみて思う今日この頃なのだ。

一億総商品企画部

ネットでものを買うことに抵抗がなくなってきているといわれるが、その際に多くのひとが利用するのがネット上での情報である。


商品の価格比較や使用した感想、本であれば読後の感想など、情報はまさに無尽蔵である。


中でも商品を使用した感想を集めた口コミサイトは商品購入のヒントとしてではなく、新商品開発のヒントとされることが少なくないようだ。


わたしは以前から、マーケティングを突き詰めればどの会社も似たような商品を出すようになるとおもっているのだが、ネットの普及により、その思いはさらに強くなっている。


新商品の開発に当たって、サンプルを使用した感想をその後の開発に反映させることでより多くの人たちに受けられるような商品をつくっていくのだが、それはいわゆる世間の最大公約数の商品につながっていく。


どの企業も消費者の声を聞けば聞くほど似たようなものをつくることになる。スポーツ飲料に青を基調にしたものが増えたり、あるいは最近のケータイ市場にデザイン主義が横行したりするのはそのあらわれではないだろうか。


誰でも「こんな商品があればいいのに」と思うものだが、自分では思いもよらない商品をみることはほんとに楽しい。


企業が消費者の声を集めることを否定するつもりはない。


消費者の声を100%商品に反映されればある程度の売上は上げられるだろうが、ある程度の裏切りを消費者は期待しているのもまた事実だと思う。


消費者が見える未来の一歩先を企業こそ強い。昨今のネット偏重の商品開発は、個の時代に逆行するように見えてならない。


逆ギレ

先日あるスポーツ紙の見出しに「野村逆ギレ」とあった。


移籍先の球団と交渉していた石井投手が古巣復帰を決めたことに対しての楽天監督の様子を表現したものらしい。


新聞とは情報を正しく伝える媒体であると同時に、正しい言葉でそれを遂行していくべきものだと思っている。


今回の「逆ギレ」の使い方は果たして正しいか。


わたしは、「逆ギレ」とはそもそもキレられる対象のひと(怒らせた人)が、キレている人に対してキレること(怒ること)をいうものだと考えている。


この考えが正しければ、スポーツ紙の見出しの「逆ギレ」は正しい使い方ではない。


なぜなら、野村氏がキレた際、石井投手は特にキレていないのだ。単に石井投手の行動に対して野村氏が不満をもっているに過ぎない。つまり、今回のケースでは「野村激怒」あるいは、「野村キレた」が正しい。


「逆ギレ」に限らず最近は「逆に~」という言い回しをよく耳にする。果たしてそれはほんとに逆なのか。


便利な言葉、言い回しの流行は大いに結構だが、論理的に考える作業を奪ってしまう便利さは困る。


言葉は時代とともに生まれ、変化し、進化していくものだが、場合によっては人間の思考を「逆に」退化させる場合もありうるように思う。