みんなで渡れば・・・
高校生の履修問題が加熱している。
卒業に必要な必修単位が足りない生徒、履修させていない学校が続出。あの名門校もその名が挙がった。
きっかけは富山の高校だったかと思うが、あっという間に何百もの学校が対象となることがわかった。
政府も問題に絡み、補修を行うなどの救済措置をとるようだが、新聞にも批判されていたように、規則どおり履修していた生徒に不利だ。また一方で受験を控えたこの時期に受験科目外に時間をとられることは受験生にとっては非常にきついはずだ。生徒に非はないだけにかわいそうに思う。
だが、今回のような履修漏れの学校がこれだけ多くなかったら、果たして救済措置はとられただろうか。とったとしても、規則どおり履修させた他校から「なぜあそこだけ」と反発されるのは必至だ。
今回の救済措置に関して、温情論こそあれ反対論がでないのは、把握されている以外にもまだまだこういった学校があるからではないか。進学校のほとんどが対象となる可能性すらある。
しかし今回のように問題が全国規模になると、悪いのは学校ではなく制度にある、ということになる。学校側からすればある種のスケールメリット。「みんなやってるじゃん」ということだ。
これは非常に危険なことではないか。たとえ規則を守らずともみんな守ってないからおとがめなし、ではまじめにやっている人は報われない。
大学生の飲酒問題もそうで、未成年の飲酒は新入生の歓迎会などで公然と行われている。どこもやっているから悪いことだという認識がないのだ。
赤信号はやはりみんなで渡れば怖くないのか。
コンテンツとしてのCM
ユニリーバのダブがYouTubeに広告 を掲載した。バナーなどではなく他の動画と同様に一投稿動画として掲載されている。
CMはさすがユニリーバというできで、アクセス数も相当なものらしい。アメリカではテレビCMの頂点とも言われるスーパーボールに広告を打ったときのアクセス数を上回ったらしい。掲載料無料の媒体への掲載が億の資金を必要とする媒体に勝ったのだ。
一般にテレビCMは、いい番組の途中に放映して番組とともにCMを見てもらうことを期待して放送される。あくまで番組が主で広告は従。その関係がYouTubeによって変わるかもしれない。
虎の威を借る狐のごとく高視聴率番組を狙っていたCMそのものが虎になりうることをユニリーバの広告は証明した。そしてYouTubeがあるからこそそれが可能であることも同時に証明された。
以前インターネットがテレビCMを救うという文を書いた。パソコンのながら利用によってCMスキップが減りパソコンからのアクセスが増えると。
このスタイルは今後間違いなく伸びると思っている。YouTubeのそれとはステージそのものが異なるから、テレビで放映されるCMとYouTubeを利用してのCMは共存しうる。
秀逸なクリエイティブ(今回のダブのような)のCMやナイキやアップルなどの広告は、YouTubeなどの動画サイトをステージに、まさにそれ自体をコンテンツとして、ユーザーがユーザーを呼び、多くのひとの目に触れることになると思う。
そしてその広告は企業イメージや商品ブランドをユーザーに強く伝え、結果として、テレビ番組の途中に放映されるCMや商品の売り上げにも好影響を与えていく。
YouTubeは無料媒体だから、投資効率だけを考えればこちらのみに資金を投下(より注目されるクリエイティブ作りに注力する)のが得策のように思われるがそうではない。
テレビとウェブ(この場合YouTube)は車の両輪のようなもので、どちらもうまく活用することで最高のパフォーマンスにつながる。必ずしもドラマティックな広告ばかりが売り上げにつながるわけではないからだ。
あくまでCMは広告であり、コンテンツとしての認識がすぎると本来の役割を果たせない。CMを広告と認識させるためにはやはりテレビなどで広告らしいことをした上で、ウェブを活用する必要がある。
教育現場のトップにみる現場のゆがみ
報道が報道を呼び、いじめが原因とされる自殺が相次いでいる。
遺書が見つかったり、同級生からいじめの事実が確認できたりしても学校側はいじめの事実を認めない。いったんいじめを認めたにも関わらず一転いじめを否定する会見を開いている。
「いじめが自殺に直接つながるとはいえない」というのが学校側の言い分だが、いじめの事実があったにも関わらず、それが自殺に無関係なんてことがあるだろうか。そもそも学校側の言う「直接的な原因」とはどんなことを言うのだろう。
おそらく学校側は殺人、つまりいじめる側の目の前で命を立った場合のみを「自殺に直結するいじめ」とするのだろう。
いじめがあった場合、学校、校長がどんなペナルティを受けるのか知らないが、いじめの事実の否定、自殺との因果関係の否定が何の解決にもならないことにも気づかないのか。
トップのあまりに馬鹿げた対応のせいで、現場で真摯に問題に取り組んでいる教師まで誤解されてしまう。教師を目指す人にも影響があるだろう。結果としてよい人材が集まりにくくなり、あらゆる問題が解決されなくなっていく。
一般企業であれば、これだけ問題が続けば倒産は免れないだろう。しかし学校という特別な環境は、よくも悪くも存続していく。
わたしたちは学校を卒業してから、子供の授業参観に参加しない限り、あるいは教師という職業を選ばない限り現場で何が起こっているのかわからない。
長野県が一般訪問を受け付けたことは有名だし、トリンプのように会議に他社の人間を参加させる企業もある。ぜひ一般人の学校訪問を受け付けてみてはいかがだろうか。旅行代理店を使って「教育現場検証ツアー」なんて企画したら思いのほか集まるかもしれない。
閉鎖された空間には健全な空気は流れない。
日テレ NEWSZEROのうすっぺらさ
「きょうの出来事」が終了し、新たにスタートした「NEWSZERO」。
「52年ぶりに夜が変わる」という触れ込みでスタートした。確かに変わった。良くも悪くも思いっきり軽くなった。
わたしの知っている「きょうの出来事」には櫻井よしこ氏や井田由美氏がメインキャスターを勤めていて、タイトルどおりその日の出来事を斬新な視点から切り込んでいく、まさに一日の締めくくりにふさわしい番組だったように思う。
ところが「ZERO」はバラエティ色が強く、話題のニュースを掘り下げるという感じはない。なによりメインキャスターの村尾氏に歴代キャスターがもっていたある種の重厚感がないのだ。
ライトな感じを狙っての演出、出演者起用であるなら狙い通りの番組になっていると思うが、あまりに軽い。一応話題のニュースにスポットを当てるのだが、斬新な切り口でもなく、確かな意見をいう人もいない。まるでポータルサイトのニュースをチェックしているような感覚さえある。
見終わった後何も残らない。まさにゼロ。視聴率で苦しむ日テレだが巨人ばかりにその責任を取らせるのはきつそうだ。
バナー広告の先
検索連動型広告全盛とはいえ、バナー広告もまだまだ健在で、動画やフローティング広告など種類も豊富だ。
バナー広告はクリック保障(クリックされて始めて課金される)が多いし、そもそもウェブサイトでより詳しい情報を得てもらうことが目的だから、なんとかクリックさせようという工夫が見られる。
例えば、バナー広告上である場面で使用される英会話を問いかけ、答えはクリックをすれば見られる、といったものや、さも特別な商品であるようなコピーでクリックを誘うというような形だ。
しかし、上記の例で言えば英会話のワンフレーズを知りたくてクリックしても、リンク先は英会話学校のHPだったりで、肝心のワンフレーズを知るにはそこからさらにクリックしていかなければならないことが少なくない。
これはバナー広告を制作している会社(ネット広告会社やプロダクション)がクリックさせることを最終目的としているからだ。クライアントへはどれほどバナー広告がクリックされたかを報告するから、クリック率=業務成績となる。だから、クリックした後のことがいい加減になっているのだ。
せっかく優れたコピーやクリエイティブでそのバナーをクリックしても、なかなか目的に到達しないのではユーザーは返ってマイナスのイメージを持ってしまう。なるべく長い時間ウェブサイトを回遊してもらうことを狙っているとしても、まず入り口にバナー広告と関連した情報をおいておかなければユーザーに失礼だ。
先の例なら、ワンフレーズを知った後はすぐに別のサイトへ行ってしまうユーザーもいるだろう。だがそんなユーザーはもともと英会話スクールに興味があるわけではなく、ただそのワンフレーズが気になっただけだ。
英会話に興味があるひとを逃さない工夫は、そのワンフレーズを起点として用意しておけばよい。本当に興味があればワンフレーズを確認したあと、そのサイトをしばらく回遊するはずだ。
わたしの経験では、バナー広告での問いかけの答えが最初のリンク先に表示されることはまだまだ稀だ。目立つだけでなく、捕まえたあとの対応ももっともっと進化する必要がある。
ケータイ戦争に埋もれたケータイ問題
ナンバーポータビリティ(番号持ち運び)制度がスタートして、各社顧客の流出阻止、新規顧客獲得に向けてサービス、広告合戦が激しい。auが最も恩恵を受けるといわれるが実際はふたを開けてみないとわからない。だからこそ各社必死なのだろう。
料金や端末の性能ばかり騒がれるが、一方で忘れられていることがある。かつて騒がれていた、電磁波の人体やペースペーカーへの影響だ。
脳や生殖活動に悪影響だとか騒がれたのも遠い過去のよう。安全はまったく保障されていないのに。
実際に使っている現在、悪い影響が見られないから大丈夫だ、と言えなくもない。が、検証してみる価値はあるはずだ。なのにマスコミはほとんどこのことについて触れない。
それはマスコミが広告に頼った収益構造であるからであり、大量の広告を出稿してくれるケータイ関連会社に悪いことは書けないからだ。真実は広告のある媒体には載らない。
わたしもケータイは毎日使うし、ケータイなしの生活は考えられない。ケータイを悪く言うつもりはないが、これからますます力をつけていくであろうケ ータイおよびケータイ関連会社をたたく媒体なり人もきっと必要だと思う。
ちょっと前にはケータイに問題提起する情報を目にしたが、最近まるで見なくなってしまったので、逆に不安に思う今日この頃なのだ。
仕事、好き。
日経新聞の広告のメインコピーに「仕事、好き。」というフレーズが使用されている。
駅張りのポスターにも大きく表示されているし、テレビCMでも「なぜ働くか」という問いかけに対する答えとして、CMの軸となっている。
他人事ながら、わたしはこの広告展開がどうもしっくりこない。
以前の日経新聞のコピーは「ニュースをチャンスに。」。
これは同社の新聞社としての姿勢をよく表していて、非常に好きだった。ビジネス活動における必要な情報は任せてください、ニュース次第でビジネスの成功は決まりますよ、だからわが新聞をどうぞ、という意識が伝わってきた。
しかし、現在のコピーは、同社にマッチしているとは思えない。
この広告が同社のものだと知ったのは実は最近だ。ずっと同社の広告に登場している女性が同じく起用されているにも関わらず、だ。
ずっと人材派遣会社、もしくは転職斡旋会社の広告だと思っていた。そのほうがしっくりきていたからだ。
広告は人を惹きつけることはもちろんだが、企業広告であればメッセージ・姿勢、商品であれば特徴・効果を端的に表現しているのが理想だ。
かつてのユニクロのテレビCMは、そのトーン&マナーで企業ロゴを見ずともユニクロだとわかったし、日産の広告もそのカラーがはっきりしていた。
ユーザーはCMから伝わってくる情報からその企業の姿勢や商品の特徴に興味を持ち、より深く関わっていこうとする。商品であれば購入という行為につながる。
つまりCMの目的はユーザーに共感してもらうこと。いわばCMはユーザーに用意した玄関であり、それをあけてもらった後は広告主の役割となる。
現在の日経新聞の広告では、玄関とその中に大きな違和感を感じてしまう。同社の社員が仕事を好きではないといっているのではもちろんない。
先の玄関の例で言えば、玄関を開けたらいきなり壁があるようなもので、「仕事、好き」といわれても、こちらとしては「で?」といった感じなのだ。これが人材派遣会社ならば玄関をあけた先にはいくつもの部屋があることがイメージできる。
新聞会社のメッセージとして、今回のそれはあまりにかけ離れているように思う。メッセージに共感することはあっても、同社の利益につながるとは考えにくい。次の展開が非常に気になる。
エビちゃんバブルにみるマスコミの弱体化
右も左もエビちゃんである。
ファッション誌はもちろんCM、ドラマと大活躍だ。
確かにものすごく美人だから、ファッション誌で着用した服が飛ぶように売れるのも理解できる。しかしちょっとその加熱ぶりは度が過ぎていないか。
マスコミは世間が注目するものを起用するから、エビちゃんを起用することがもっとも世間を集めると判断されているのだろう。
株式市場が、あるときを境に急上昇するように、芸能人人気(正確にはマスコミへの露出)もあるときを境に急に増える。境とはこのタレントを使えば間違いないと判断されるときだ。
最近では長澤まさみもそう。
邦画が公開されれば2本に1本が出演作のような印象さえ受ける。確かに魅力的だから人気もあるし、実力もあると思う。しかし、あまりに多くの露出が映画作品の新鮮さを失わせている気がしてならない。
CMでも注意を惹くために人気タレントを起用しているのに、あまりに出演CMが増えすぎて逆に埋もれてしまうことがある。そうなると、商品の広告でなく、タレントの広告になっている。
テレビ番組の視聴率が全体的に低迷しているといわれているから、人気タレントや人気コンテンツにぶら下がる傾向がさらに最近強まっている。
エビちゃん、長澤まさみ、踊る大走査線シリーズ、24・・・
コンテンツビジネスは放送局のメインビジネスだから、ヒット作で稼げるだけ稼ぐのは理解できるが、最近のエビちゃんや長澤頼みにはちょっと不安になる。まるで二人がたらすくもの糸にマスコミが群がるようだ。
最近特にマスコミの弱体化を感じたのはフジテレビはかつての「古畑任三郎」を再放送したときだ。リメイクでもスペシャルエディションでもなく全くの再放送。しかも21時というゴールデン枠。
現在のようなテレビの無料放送垂れ流しシステムはもうきしみ始めている。無理にコンテンツを作ろうとするからそうなるのだ。
コンテンツ供給側が自信を持って提供できるものをオンデマンドで提供していくようになるのに時間はかからないだろう。それがコンテンツ供給側、ユーザー双方にとってベストな方法だからだ。
テレビを救うインターネット
最近のテレビCMでは最後のシーンで「○○で検索」とか「続きはウェブで」といったカットを入れるものが多くなった。
当然ながらCMで伝えきれない情報をウェブサイトで伝えようとしてのこと。実際にそんなCMをみた3割もの人が指定の言葉を検索してウェブサイトを訪れているという。
ウェブサイトに触れるひとが増えることでテレビなどマスメディアの価値が問われている。特にテレビCMには価値がないのではないか、これからはインターネットやSPがマーケティングの主役になるのではないか、と。
しかし、インターネットの普及により、テレビCMが息を吹き返しつつある。
というのも、常時接続のインターネットの普及により、常にPCをONにしているひとが増えていて、そんな人たちはテレビをつけながらPCもONにして、チャンネルスイッチの機会であったCM時にPCでインターネットを楽しんでいることが多いからだ。
つまり、PCを眺めながらも気になるCMには目を向けることになり、さらに興味があれば目の前のPCから検索してより詳しい情報を得ているのだ。
インターネットは単独でもその情報発信力 、広告としての価値を高めながら、他媒体も活かしている。
ネットは既存のマス媒体を駆逐しない。ただ、メディアの中心になるだけだ。
これからの教育界
今に始まったことではないが、いじめが原因と思われる自殺が相次ぎ、学校の管理責任が問われている。
もともといじめは教師などの管理者の目が届かないところで行われるので、学校側のコメントは決まって「いじめの事実には気がつきませんでした」となる。
他校の事例を全く自校に活かせない。おそらく今回のような事件を受けて集会を行った学校は多いだろうが、どの学校でも「いじめをやめましょう」、「いじめを受けたら担任の先生にすぐに報告しましょう」といったことをいうのみだろう。
仮にいじめの事実を教師に報告したところで、いじめを行っていると思われる生徒に事実を問いただし、結局その生徒からのいじめの事実報告はなく、結果いじめはエスカレートするということになる。それをわかっているからいじめにあう生徒は誰にも相談できず被害が拡大するのだ。
中学校や高校では、自我の確立にともない、自分の価値観にあわない人間、特に自分より弱いと思われる人間に対して攻撃的になるように思われる。それを監督するのが教師のはずだが、それができる教師は少ない。価値観が多様であるということを生徒に伝えることができないのだ。
単に国語や数学を教えるだけが教師ではない。人生とは、人間とは、を伝える、考えさせる役割が教師にはある。文部科学省の決めたカリキュラムだけ伝えればよいわけではない。学力よりも人間性が教師には求められる。
だから、本来教師、特に担任は、生徒側に選ばせるべきだと思う。面談でもウェブサイトでの情報でも、何かしら教師の情報を生徒側(もちろん保護者も含めて)に提供し、それを元に教師を選ぶシステムを導入すべきだ。
どんな教師にわが子を預けているのかわからない状態では、もはや教師が聖職者とは呼べない現代で不安で仕方がない。
また、合わないと思えば担任や教科担当者をかえてもよいではないか。
おそらくそういった提案に対して学校側は「前例がない」と拒否するだろう。のうのうと現状を変えようとしない学校側には、この提案は学校側に何のメリットもないからだ。ほっといても生徒は入ってくる。だからこそ必要な制度なのだ。公立がやらずともいずれ私立は導入するだろう。きっとせざるを得なくなる。
保守的業界の代表のような教育界だが、いよいよ構造改革の時期だ。