~最終話~
「ノルウェイの森」 村上春樹
■登場人物表■
ワタナベ:主人公。大学生。 直子に想いを寄せていたが、いつのまにか緑を大事に想うようになる。
直子:唯一の友達だったキズキの恋人。 20歳の誕生日に様子がおかしくなり、療養所に入る。
突撃隊:ルームメイトだった学生。 地図が好きですぐどもる。 行方不明のまま退寮した。
キズキ:高校時代、唯一の友人だったが自殺してしまう。 直子とは子供の時からの仲だった。
永沢:同じ学生寮に住んでいた2コ上の青年。東大法学部の天才だが、変わり者。 女遊びが激しい。
小林緑:大学で同じ「演劇史Ⅱ」を専攻している、変わった女の子。 ワタナベに興味を示す。
レイコ:直子のいる療養所で同じ部屋で暮らす。 38歳。 音楽が得意。 ヘビースモーカー。
緑の父:脳腫瘍で入院していたが、病院で亡くなる。
ハツミ:永沢の恋人。 素敵な女性。 永沢と3人で食事に行った。
第11章
直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、
誰のせいでもないし、それは雨降りのように誰にも止めることのできないことなのだと言ってくれた。
しかしそれに対して僕は返事を書かなかった。 なんて言えばいいのだ? それにそんなことはどうでもいいことなのだ。 直子はもうこの世界には存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。
8月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕は東京に戻って家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、アルバイト先に行って申し訳ないが当分来ることができないと言った。
そして緑に今は何も言えない、悪いとは思うけれどもう少し待って欲しいという短い手紙を書いた。
それから3日間毎日、映画館をまわって朝から晩まで映画を見た。
リュックに荷物をつめ、新宿駅に行って急行列車に乗った。
僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、あるいは通りかかったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、
眠れそうな場所があればどこにでも寝袋を敷いて眠った。
交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで眠ったこともある。 どこだってかまわなかった。
僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。
金が乏しくなると僕は肉体労働を3,4日やって当座の金を稼いだ。 どこにでも何かしらの仕事はあった。
僕は一度緑に電話をかけてみた。 彼女の声がたまらなく聞きたかったからだ。
「あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ」と緑は言った。「どうするのよ、いったい? あなたこれでもう3週間も音信不通だったのよ。 どこにいて何してるのよ?」
「悪いけど、今は東京に戻れないんだ。 まだ」
「言うことはそれだけなの?」
「だから今は何も言えないんだよ、うまく。 10月になったら―――」
緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。
僕はそのまま旅行を続けた。 時々鏡を見ると僕は本当にひどい顔をしていた。
日焼けのせいで肌はかさかさになり、目がくぼんで、こけた頬にはわけのわからないしみや傷がついていた。
ついさっき暗い穴の底から這い上がってきた人間のように見えたが、よく見るとたしかに僕の顔だった。 僕がその頃歩いていたのは山陰の海岸だった。 ウィスキーを飲み、波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った。
彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。
僕にはその事実がまだどうしても呑みこめなかった。 彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が無に帰してしまったという事実に棒はどうしても順応することができずにいた。
僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。
彼女が僕のペ××をそっと口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えていた。
そのあたたかみや息づかいや、やるせない射×の感触を僕は覚えていた。
それをまるで5分前の出来事のようにはっきり思い出すことができた。
そして隣に直子がいて、手を伸ばせばその体に触れることができるような気がした。
でも彼女はそこにいなかった。 彼女の肉体はもうこの世界のどこにも存在しないのだ。
僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思い出した。
あの雨の朝に黄色い雨合羽を着て鳥小屋を掃除したり、えさの袋を運んでいた光景を思い出した。
半分崩れたバースデーケーキと、あの夜僕のシャツを濡らした直子の涙の感触を思い出した。
そうあの夜も雨が降っていた。
冬には彼女はキャメルのオーバーコートを着て僕の隣りを歩いていた。
彼女はいつも髪留めをつけて、いつもそれを手で触っていた。 そして透き通った目でいつも僕の目を覗き込んでいた。 青いガウンを着てソファーの上で膝を折りその上に顎をのせていた。
そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。 その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。
そこでは直子が生きていて、僕と語り合い、あるいは抱き合うこともできた。
そこでは死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。
直子は死を含んだままそこで生き続けていた。 そして彼女は僕にこう言った。
「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。 気にしないで」と。
そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。 死は死であり、直子は直子だからだった。
そうよ、死ぬのってそんなたいしたことじゃないのよ。 死なんてただの死なんだもの。
それに私はここにいるとすごく楽なんだもの。 暗い波の音のあいまから直子はそう語った。
しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。
僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。 そんなとき僕は一人でよく泣いた。
泣くというよりはまるで汗みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくるのだ。
キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。 我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。
しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。
直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。
どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。 どのような真理も、
どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。
我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学び取ることしかできないし、そしてその学び取った何かも、
次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。
僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えていた。 僕は西へ西へと歩いた。
ある風の強い夕方、僕が廃船の陰で寝袋にくるまって涙を流していると若い漁師がやってきて煙草をすすめてくれた。 どうして泣いているのかと彼は僕に訊いた。
母が死んだからだと僕は殆ど反射的に嘘をついた。 彼は心から同情してくれた。
そして家から一升瓶をグラスをふたつ持ってきてくれた。
風の吹きすさぶ砂浜で、我々は二人で酒を飲んだ。 俺も16で母親を亡くしたをその漁師は言った。
僕はコップ酒を飲みながらぼんやりと彼の話を聞き、適当に相槌を打った。
それはひどく遠い世界の話であるように感じられた。 それがいったいなんだっていうんだと思った。
そして突然この男の首を締めてしまいたいような激しい怒りに駆られた。
お前の母親がなんだっていうんだ? 俺は直子を失ったんだ!
あれほど美しい肉体がこの世界から消え去ってしまったんだぞ!
それなのにどうしてお前はそんな母親の話なんてしているんだ?
でもそんな怒りはすぐに消え失せてしまった。 やがて彼は僕にもう飯は食べたかと訊ねた。
食べてないけれど、リュックの中にパンとチーズとトマトとチョコレートが入っていると答えた。
昼には何を食べたのかと彼が訊いたので、パンとチーズとトマトとチョコレートだと僕は答えた。
すると彼はここで待ってろよと言ってどこかに行ってしまった。
僕は一人でコップ酒を飲んでいた。 砂浜には花火の紙くずが一面に広がり、波はまるで怒り狂ったように轟音を立てて波打ち際で砕けていた。 やせこけた犬が尾を振りながらやってきて何か食べ物はないかと僕の作った小さなたき火のまわりをうろうろしていたが、何もないとわかるとあきらめて去っていった。
30分ほどあとでさっきの若い漁師が寿司折をふたつと新しい一升瓶を持って戻ってきた。
これ食えよ、と彼は言った。 下の方のは海苔巻きと稲荷だから明日のぶんにしろよ、と彼は言った。
僕は礼を言ってたっぷりと二人分はある寿司を食べた。 それからまた二人で酒を飲んだ。
彼は別れ際にポケットから4つに折った5千円札を出して僕のシャツのポケットにつっこみ、これで何か栄養のあるものでも食え、あんたひどい顔してるから、と言った。
これは金じゃなくて俺の気持ちだ、だから余計なこと考えずに持っていけと彼は言った。
礼を言って僕はそれを受け取った。
漁師が行ってしまったあとで、僕は高校3年のとき初めて寝たガールフレンドのことをふと考えた。
そして自分が彼女にどれほどひどいことをしてしまったかを思って、どうしようもなく冷え冷えとした気持ちになった。 彼女が何を思い、どう感じ、どう傷つくかなんて考えもしなかったのだ。
彼女は今何をしているんだろうか、そして僕を許してくれているのだろうか、と僕は思った。
ひどく気分が悪くなって、廃船のわきに僕は嘔吐した。 そろそろ東京に戻ってもいい頃だなと思った。
いつまでもいつまでも永遠にこんなことを続けているわけにはいかないのだ。
僕は寝袋を丸めてリュックにしまい、それをかついで国鉄の駅まで歩き、今から東京に帰りたいのだがどうすればいいだろうと駅員に訊いてみた。 そして僕は切符を買った。
ちょうど1ヶ月旅行を続けていた。 なんとか現実の世界に戻らなくちゃな、と僕は思った。
1ヶ月の旅行は僕の気持ちをひっぱりあげてはくれなかったし、直子の死が僕に与えた打撃もやわらげてもくれなかった。 僕は1か月前とあまり変わりない状態で東京に戻った。
緑に電話をかけることすらできなかった。 彼女にどう切り出していいのかがわからなかった。
なんて言えばいいのだ? 全ては終わったよ、君と二人で幸せになろう―――そう言えばいいのだろうか?
どんな風に言ったところで、どんな言い方をしたところで、結局語るべき事実はひとつなのだ。
直子は死に、緑は残っているのだ。
直子は白い灰になり、緑は生身の人間として残っているのだ。
僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。
東京に戻っても、部屋に閉じこもって何日かを過ごした。
僕の記憶のほとんどは生者にではなく死者に結びついていた。 僕はキズキのことを思った。
おい、キズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。
まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。 結局そこが彼女の行くべき場所だったのだろう。
この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺なりのベストを尽くしたんだよ。
そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方を打ち立てようと努力したんだよ。
でもいいよ、キズキ。 直子はお前にやるよ。 直子はお前の方を選んだんだものな。
彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子は首をくくったんだ。 お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。 そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。
ときどき俺は自分が博物館の管理人になったような気がするよ。 誰一人訪れることがないがらんとした博物館でね、俺は俺自身のためにそこの管理をしているんだ。
東京に戻って4日目にレイコさんからの手紙が届いた。 手紙の内容は至極簡単なものだった。
あなたとずっと連絡がとれなくてとても心配してる。 電話をかけてほしい。
朝の9時と夜の9時にこの電話番号の前で待っている。
僕は夜の9時にその番号をまわしてみた。 すぐにレイコさんが出た。
「元気?」 「まずまずですね」
「ねえ、あさってにでもあなたに会いに行っていいかしら?」 「会いに来るって、東京に来るんですか?」
「ええ、そうよ。 あなたと二人で一度ゆっくりと話がしたいの」
「じゃあ、そこを出ちゃうんですか、レイコさんは?」 「出なきゃ会いに行けないでしょう」と彼女は言った。
「そろそろ出てもいい頃よ。 だってもう8年もいたんだもの。 これ以上いたら腐っちゃうわよ」
僕はうまく言葉が出てこなくて少し黙っていた。
「あさっての新幹線で3時20分に東京駅に着くから迎えに来てくれる? 私の顔はまだ覚えてる? それとも直子が死んだら私になんて興味なくなっちゃったかしら?」
「まさか。 迎えに行きます」
「すぐにわかるわよ。 ギターケース持った中年女なんてそんなにいないから」
たしかに僕は東京駅ですぐにレイコさんを見つけることができた。
彼女は男物のジャケットに白いズボンをはいて赤い運動靴をはき、靴は相変わらず短くてところどころとびあがり、右手に茶色い革の旅行鞄を持ち、左手に黒いギターケースを下げていた。
彼女は僕を見ると顔のしわをくしゃっと曲げて笑った。 僕も自然に微笑んでしまった。
「ねえワタナベ君、いつからそんなひどい顔してるの? それとも東京ではそういうひどい顔が流行ってるの?」
「しばらく旅行してたせいですよ。 あまりロクなもの食べなかったから。 新幹線はどうでした?」
「あれひどいわね。 窓開かないんだもの。 途中でお弁当買おうと思ってたのにひどい目にあっちゃった」
「中で何か売りに来るでしょう?」
「あのまずくて高いサンドイッチのこと? あんなもの飢え死にしかけた馬だって残すわよ。 私ね、御殿場で鯛めしを買って食べるのが好きだったの」
「8年もたつと風景も違っているものですか?」と僕は訊いた。
「ねえワタナベ君。 私が今どんな気持ちかわかんないでしょう?」 「わかりませんね」
「怖くって怖くって気が狂いそうなのよ。 どうしていいかわかんないのよ。 一人でこんなところに放り出されて」とレイコさんは言った。 「でも<気が狂いそう>って素敵な表現だと思わない?」
僕は笑って彼女の手を握った。
「でも大丈夫ですよ。 レイコさんはもう全然心配ないし、それに自分の力で出てきたんだもの」
「あそこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。 私は直子のいないあの場所に残っていることに耐えられなかったし、東京にきてあなたと一度ゆっくり話し合う必要があったの。 だからあそこを出てきちゃったのよ。 もし何もなければ、私は一生あそこにいることになったんじゃないかしら」
「これから先どうするんですか、レイコさんは?」
「旭川に行くのよ。 ねえ旭川よ!」と彼女は言った。 「音大の時仲のよかった友達が旭川で音楽教室やっててね、手伝わないかって前から誘われてたんだけど断ってたの、寒いから。 あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」
「そんなにひどくないですよ」僕は笑った。 「一度行ったことがあるけれど、悪いくない町ですよ」
「本当? ねえワタナベ君、いつか旭川に遊びに来てくれる?」
「もちろん行きますよ。 でも今すぐ行っちゃうんですか?」
「できたら2,3日ゆっくりしていきたいのよ。 あなたのところに厄介になっていいかしら?」
「全然かまいませんよ。 僕は寝袋に入って押入れで寝ます」 「悪いわね」
「いいですよ。 すごく広い押入れなんです」
「私たぶん体を馴らす必要があるのよ、旭川に行く前に。 まだ外の世界に全然馴染んでないから。 わからないこともいっぱいあるし、緊張もしてるし。 そういうの少し助けてくれる? 私、あなたしか頼れる人いないから」
「僕で良ければいくらでも手伝いますよ」 「私、あなたの邪魔をしてるんじゃないかしら?」
「僕のいったい何を邪魔しているんですか?」 レイコさんは僕の顔を見て、唇の端を曲げて笑った。
彼女と二人で歩いていると僕の心は不思議にやわらぎ、慰められた。
考えてみれば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれとまったく同じ想いをしたのだ。
かつて僕と直子がキズキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。 そう思うと、僕は急に何もしゃべれなくなってしまった。
僕が口をきかないことがわかると彼女も黙って、二人で無言のままバスに乗って僕の部屋まで行った。
秋のはじめの、ちょうど1年前に直子を京都に訪ねたときと同じようにくっきりと光の澄んだ午後だった。
また秋が来たんだな、と僕は思った。 季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。
キズキは17のままだし、直子は21のままなのだ。 永遠に。
「すごく良いところじゃない」と彼女は言った。 「これみんなあなたが作ったの? こういう棚やら机やら」
「そうですよ」僕はお茶を入れながら言った。 「けっこう器用なのね、ワタナベ君。 部屋もきれいだし」
「突撃隊のおかげですね。 彼が僕を清潔好きにしちゃたから。 でもおかげで大家さんは喜んでますよ」
「あ、そうそう。 大家さんに挨拶してくるわね。 お庭の向こうに住んでるんでしょ?」
「挨拶? 挨拶なんてするんですか?」
「当たり前じゃない。 あなたのところに変な中年女が転がり込んでギター弾いてたりしたら大家さんだって何かと思うでしょ? そのために菓子折りだってちゃんと持ってきたんだから」
「ずいぶん気がきくんですねえ」
「年の功よ。 あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくから、ちゃんと話を合わせといてよ」
レイコさんが行ってしまうと20分くらい戻ってこなかった。
僕は縁側に座ってもう一杯お茶を飲み、猫と遊んだ。
「20分も何話してたんですか?」
「そりゃもちろんあなたのことよ。 きちんとしてるし真面目な学生だって感心してたわよ」
それから彼女は僕のギターを手に取り、少し調弦してからカルロス・ジョビンの「デサフィナード」を弾いた。
それは前と同じように僕の心をあたためてくれた。
「ねえ、これ素敵なシャツでしょう?」とレイコさんが言った。
「そうですね」 たしかにとても洒落た柄のシャツだった。
「これ、直子のものなのよ」とレイコさんは言った。 「知ってる? 直子と私って洋服のサイズ殆ど一緒だったのよ。 シャツもズボンも靴も帽子も。 ブラジャーくらいじゃないかしら、サイズが違うのは。 私なんかおっぱいないも同然だから。 だから私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。 というか殆ど二人で共有してたようなものね」
僕はあらためてレイコさんの体を見てみた。
そう言われてみればたしかに彼女の背格好は直子と同じくらいだった。
顔のかたちやひょろりと細い手首なんかのせいで、レイコさんの方が直子よりやせていて小柄だという印象があったのだが、よく見てみると体つきは意外にがっしりとしているようでもあった。
「不思議なのよ。 直子は誰にあてても遺書を書かなかったんだけど、洋服のことだけはちゃんと書き残していったのよ。 メモ用紙に一行だけ走り書きして、それが机の上に置いてあったの。 『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』って。 変な子だと思わない? 自分がこれから死のうと思ってる時にどうして洋服のことなんか考えるのかしらね。 そんなのどうだっていいじゃない。 もっと他に言いたいことは山ほどあったはずなのに」
「何もなかったのかもしれませんよ」
レイコさんは煙草をふかしながらしばらく物思いに耽っていた。
「ねえ、あなた、最初からひとつひとつ話を聞きたいでしょう?」
「話して下さい」と僕は言った。
「病院での検査の結果がわかって、直子の病状は一応今のところ回復しているけれど今のうちに根本的に集中治療しておいた方があとあとのために良いだろうってことになって、直子はもう少し長期的にその大阪の病院に移ることになったの。 そこまでは手紙に書いたわよね」
「その手紙は読みました」
「8月24日に直子のお母さんから電話がかかってきて、直子が一度そちらに行きたいと言っているのだが構わないだろうかと言うの。 私の方は全然かまいませんよって言ったの。 私も直子にはすごく会いたかったし、話したかったし。 それで翌日の25日に彼女はお母さんと2人でタクシーに乗ってやってきたの。 そして私たち3人で荷物の整理をしたわけ。 夕方近くになると直子はお母さんにもう帰っていいわよ、あと大丈夫だからって言って、それでお母さんはタクシーを呼んで帰っていったの。 直子はすごく元気そうだったし、私もお母さんもそのときは全然気にもしなかったのよ。 本当はそれまですごく心配してたの、ああいう病院の検査とか治療ってずいぶん消耗するものだってことを私はよく知ってるから。 でも私一目見て、ああこれならいいやって思ったの。 にこにこして冗談なんかも言ってたし、喋り方も前よりずっとまともになってたし、美容院に行ったんだって新しい髪型を自慢してたし。 私この際だから病院できちんと全部なおしちゃおうと思うのっていうから、そうね、それがいいかもしれないわねと私も言ったの。 それで私たち外を散歩していろんなお話をしたの。 彼女こんなことも言ったわ。 2人でここを出られて、一緒に暮らすことができたらいいでしょうねって」
「レイコさんと2人でですか?」
「そうよ。 それで私言ったのよ。 ワタナベ君のことはいいのって。 すると彼女こう言ったの『あの人のことは私きちんとするから』って。それだけ」
僕は冷蔵庫からビールを出して飲んだ。 猫はレイコさんの膝の上でぐっすりと眠り込んでいた。
「あの子もう初めから全部決めていたのよ。 だからきっとあんなに元気でにこにこして健康そうだったのね。 きっと決めちゃって気が楽になってたのよね。 それから部屋の中を整理していらないものをドラム缶に入れて焼いたの。 あなたの手紙もよ。 それで私変だなと思ってどうして焼いちゃうのよって訊いたの。 だってあの子、あなたの手紙はずっと、とても大事に保管してよく読み返してたんだもの。 そしたら『これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わるの』って言うから、ふうん、そういうものかなってわりに単純に納得しちゃったの。 この子も元気になって幸せになれるといいのにな、って思ったの。 だってその日の直子は本当に可愛かったのよ。 あなたに見せたいくらい。
それから私たち夕御飯食べて、お風呂入って、ワインを二人で飲んで、私がギター弾いたの。 例によってビートルズ。 『ノルウェイの森』とか『ミシェル』とか、あの子の好きなやつ。
そして私たち電気消してベッドに寝転んだの。 すごく暑い夜でね、窓を開けても風なんて殆ど入ってきやしないの。 それから急にあなたの話を直子が始めたの。 あなたとのセッ××の話よ。 それもものすごく詳しく話すの。 それまであの子そんなにあからさまに話さなかったんですもの、驚くわよ。
『ただなんとなく話したくなったの』って直子は言ったわ。
『そんなに良かったんならワタナベ君と一緒になって毎日やってればよかったんじゃないの?』って言ったの。
『でも駄目なのよ、レイコさん」って直子は言ったわ。 『私にはそれがわかるの。 それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。 それは二度と戻ってこないのよ。 何かの加減で一生に一度だけ起こったことなの。 そのあとも前も私何も感じないのよ。 やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ』
一度はうまくいったんだもの、心配することはないわよって言ったわ。
『そうじゃないの』と直子は言ったわ。『私何も心配してないのよ、レイコさん。 私はただもう誰にも私の中に入ってほしうないだけなの。 もう誰にも乱されたくないだけなの』」
僕はビールを飲んでしまい、レイコさんは2本目の煙草を吸ってしまった。
「それから直子はしくしく泣き出したの。 抱いて欲しいって直子は言ったの。 こんな暑いのに抱けやしないわよって言ったんだけど、これでもう最後だからって言うんで抱いたの。 体をバスタオルでくるんで、汗がくっつかないようにして、しばらく。 そして寝巻きを着せて寝かしつけたの。 すぐにぐっすり寝ちゃったわ。 あるいは寝たふりかもしれないけど。 それを見てから私も眠ったの、安心して。
6時に目を覚ましたとき彼女はもういなかったの。 寝巻きが脱ぎ捨ててあって、服と運動靴とそれからいつも枕元に置いてある懐中電灯がなくなってたの。 まずいなってそのとき思ったわよ。 念の為に机の上なんかを見てみたら、そのメモ用紙があったのよ。 『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』って。 それで私すぐみんなのところに行って、全員で寮の中からまわりの林までしらみつぶしに探したの。 探し当てるのに5時間かかったわよ。 あの子、自分でちゃんとロープまで要して持ってきていたのよ」
レイコさんはため息をついて、猫の頭を撫でた。 「お茶飲みますか?」 「ありがとう」
僕は湯を沸かしてお茶を入れ、縁側に戻った。
「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。
「すごくひっそりとして、人も少なくて。 家の人は僕が直子の死んだことをどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。 きっとまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。 本当はお葬式なんて行くべきじゃなかったんですよ。 僕はそれですごくひどい気分になっちゃって、すぐ旅行に出ちゃったんです」
「ねえワタナベ君、晩ご飯の買い物にでも行きましょうよ。 私おなか減ってきちゃったわ」
「いいですよ、何か食べたいものありますか?」
「すき焼き」と彼女は言った。 「だって私、鍋物なんて何年も何年も食べてないんだもの」
「それはいいんですけどね、すき焼き鍋ってものがないんですよ、うちには」
「大丈夫よ、私にまかせなさい。 大家さんのところで借りてくるから」
彼女はさっと母屋の方に行って、立派なすき焼き鍋とガスコンロと長いゴムホースを借りてきた。
「どう? たいしたもんでしょう」 「まったく」と僕は感心して言った。
材料を買い揃えて家に帰り、縁側ですき焼きを食べる準備をした。
準備が終わるとレイコさんはギターを取り出し、薄暗くなった縁側に座って、バッハのフーガを弾いた。
ギターを弾いている時のレイコさんは、まるで気に入ったドレスを眺めている17か18の女の子みたいに見えた。
「レイコさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか?」
「行かないわよ、前にも言ったでしょ? あの人たち、もう私とは関わりあわない方がいいのよ。 あの人たちにはあの人たちの新しい生活があるし、私は会えば会ったで辛くなるし。 会わないのが一番よ」
彼女は鞄の中から新しいセブンスターの箱を取り出し、封を切って一本くわえた。 しかし火はつけなかった。
「私はもう終わってしまった人間なのよ。 あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ」
「でも僕は今のレイコさんがとても好きですよ。 残存記憶であろうがなんであろうがね。 そしてレイコさんが直子の服を着てくれていることは僕としてはとても嬉しいですね」
レイコさんはにっこり笑ってライターで煙草に火をつけた。 「あなた年の割に女の人の喜ばせ方をよく知ってるのね」
僕は鍋に油をしいてすき焼きの用意を始めた。
「これ夢じゃないわよね?」とレイコさんはくんくんと匂いをかぎながら言った。
「100%現実のすき焼きですね。 経験的に言って」と僕は言った。
我々はただ黙々とすき焼きをつつき、ビールを飲み、そしてごはんを食べた。
”かもめ”が匂いをかぎつけてやってきたので肉をわけてやった。
僕らは腹一杯になると、二人で縁側の柱にもたれ、月を眺めた。
「もしよかったら教えてほしいんだけど、その緑さんっていう女の子ともう寝たの?」とレイコさんが訊いた。
「してませんよ。 いろんなことがきちんとするまではやらないって決めたんです」
「もうこれできちんとしたんじゃないかしら」
「直子が死んじゃったから物事は落ち着くべきところに落ち着いちゃったってこと?」
「そうじゃないわよ。 だってあなた直子が死ぬ前からもうちゃんと決めてたじゃない、その緑さんという人とは離れるわけにはいかないんだって。 あなたは緑さんを選び、直子は死ぬことを選んだのよ。 あなたもう大人なんだから、自分の選んだものにはきちんと責任持たなくちゃ」
「でも忘れられないんですよ。 僕は直子にずっと君を待っているって言ったんですよ。 でも待てなかった。 結局最後の最後で彼女を放り出しちゃった。 たぶん僕が途中で放り出さなくても結果は同じだったと思います。 直子はやはり死を選んでいただろうと思います。 でもそれとは関係なく、僕は自分自身に許しがたいものを感じるんです。 僕と直子の関係は単純なものではなかったんです。 考えてみれば我々は最初から生死の境目で結びつきあってたんです」
「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生を通してずっと感じ続けなさい。 そして学べるものならそこから何かを学びなさい。 でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。 これ以上彼女を傷つけたりしたら、もう取り返しのつかないことになるわよ。 だから辛いだろうけれど強くなりなさい。 もっと成長して大人になりなさい。 私はあなたにそれを言うためにここまで来たのよ。 はるばるあんな棺桶みたいな電車に乗って」
「レイコさんの言ってることはよくわかりますよ。 でも僕にはまだその準備ができてないんですよ。
ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。 人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」
レイコさんは手を伸ばして僕の頭を撫でた。
「私たちみんないつかそんな風に死ぬのよ。 私もあなたも」
「ワタナベ君、グラスもう1個持ってきてくれない?」 「いいですよ。 でも何するんですか?」
「これから二人で直子のお葬式するのよ」とレイコさんは言った。 「淋しくないやつを」
僕がグラスを持ってくると、レイコさんはなみなみとワインを注ぎ、庭の灯籠の上に置いた。
そして縁側に座り、柱にもたれてギターを抱え、煙草を吸った。
「私が一曲弾いたら、マッチ棒をそこに並べてってくれる? 私今から弾けるだけ弾くから」
彼女はまずヘンリー・マンシーニの「ディア・ハート」をとても綺麗に静かに弾いた。
「このレコードあなたが直子にプレゼントしたんでしょ?」
「そうです。一昨年のクリスマスにね。 あの子はこの曲がとても好きだったから」
「私も好きよ、これ。 とても優しくて美しくて。 ねえ、こういうお葬式だと淋しくなくていいでしょう?」
レイコさんはビートルズに移り、「ノルウェイの森」を弾き、「イエスタデイ」を弾き、「ミシェル」を弾き、「サムシング」を弾き、「ヒア・カムズ・ザ・サン」を唄いながら弾き、「フール・オン・ザ・ヒル」を弾いた。
「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさっていうものをよく知っているわね」
”この人たち”というのはもちろんジョン・レノンとポール・マッカートニー、そしてジョージ・ハリソンのことだった。
彼女は一息ついて煙草を消してからまたギターをとって「ペニー・レイン」を弾き、「ブラック・バード」を弾き、「ジュリア」を弾き、「64になったら」を弾き、「ノーホエア・マン」を弾き、「アンド・アイ・ラブ・ハー」を弾き、「ヘイ・ジュード」を弾いた。
「これで何曲になった?」 「14曲目」
ふう、と彼女はため息をついた。 「あなた一曲くらいなにか弾けないの?」
「下手ですよ」 「下手でいいのよ」
僕は自分のギターを持ってきて「アップ・オン・ザ・ルーフ」をたどたどしくではあるけれど弾いた。
僕は弾き終わると彼女はぱちぱちぱちと拍手をした。
それからレイコさんはラヴェルの「死せる王女のためのパヴァーヌ」とドビッシーの「月の光」を丁寧に綺麗に弾いた。 「この2曲は直子が死んだあとでマスターしたのよ」とレイコさんは言った。
「あの子の音楽の好みは最後までセンチメンタリズムという地平を離れなかったわね」
そして彼女はバカラックを何曲か演奏した。 「クロース・トゥーユー」 「雨に濡れても」 「ウォーク・オン・バイ」 「ウェディングベル・ブルーズ」。
「20曲」
「私ってまるで人間ジュークボックスみたいだわ」
彼女はワインをすすり、煙草をふかしながら次から次へと知っている曲を弾いていった。
ボサノヴァを10曲近く弾き、ロジャース=ハートやガーシュインの曲を弾き、ボブ・ディランやらレイ・チャールズやらキャロル・キングやらビーチボーイズやらスティービー・ワンダーやら「上を向いて歩こう」やら「ブルー・ベルベット」やら「グリーン・フィールズ」やら、もうとにかくありとあらゆる曲を弾いた。
ワインがなくなると我々はウィスキーを飲んだ。
僕は庭のグラスの仲のワインを灯籠の上からかけ、そのあとにウィスキーを注いだ。
「今これで何曲かしら?」
「48」
レイコさんは49曲目に「エリナ・リグビー」を弾き、50曲目にもう一度「ノルウェイの森」を弾いた。
「これくらいやれば十分じゃないかしら?」 「十分です。 たいしたもんです」
「いい、ワタナベ君、もう淋しいお葬式のことはきれいさっぱり忘れなさい」とレイコさんは僕の目をじっと見て言った。 「このお葬式のことだけ覚えていなさい。 素敵だったでしょ?」
僕は肯いた。
「おまけ」とレイコさんは言い、51曲目にいつものバッハのフーガを弾いた。
「ねえ、ワタナベ君、私と”あれ”やろうよ」と弾き終わった後でレイコさんが小さな声で言った。
「不思議ですね」と僕は言った。 「僕も同じこと考えてたんです」
カーテンを閉めた暗い部屋の中で僕とレイコさんは本当に当たり前のことのように抱き合い、お互いの体を求めあった。
「ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、19歳年下の男の子にパンツ脱がされることになるとは思いもしなかったわね」
「じゃあ自分で脱ぎますか?」
「いいわよね、脱がせて。 でも私しわだらけだからがっかりしないでよ」
「僕、レイコさんのしわ好きですよ」 「泣けるわね」とレイコさんは小さな声で言った。
僕は彼女のいろんな部分に唇をつけ、しわがあるとそこを舌でなぞった。 そして少女のような薄い乳房に手を当てて、乳首をやわらかく噛み、あたたかく湿ったヴァ××に指をあててゆっくりと動かした。
「それただのしわよ」 「こういうときにも冗談しか言えないんですか?」僕はあきれて言った。
「ごめんなさい。 怖いのよ、私。 もうずっとこれやってないから。 なんだか17の女の子が男の子の下宿に遊びに行ったら裸にされちゃったみたいな気分よ」
「本当に17の女の子を犯してるみたいな気分ですよ」
僕はそのしわの中に指を入れ、首筋から耳にかけて口づけし、乳首をつまんだ。 そして彼女の息づかいが激しくなって喉が小さく震えはじめると僕はそのほっそりとした脚を広げてゆっくりと中に入った。
「ねえ、大丈夫よね、妊娠しないようにしてくれるわよね? この年で妊娠すると恥かしいから」
「大丈夫ですよ。 安心して」
ペ××を奥まで入れると、彼女は体を震わせてため息をついた。
僕は彼女の背中を優しくさするように撫でながらペ××を何度か動かして、そして何の予兆もなく突然射×した。
それは押しとどめようのない激しい射×だった。
僕は彼女にしがみついたまま、そのあたたかみの中に何度も精液を注いだ。
「すみません。 我慢できなかったんです」
「馬鹿ねえ、そんなこと考えなくてもいいの」とレイコさんは僕のお尻を叩きながら言った。
「いつもそんなこと考えながら女の子とやってるの?」 「まあ、そうですね」
「私とやるときはそんなこと考えなくていいのよ。 忘れなさい。 好きな時に好きなだけ出しなさいね。 どう、気持ちよかった?」
「すごく。 だから我慢できなかったんです」 「それでいいのよ。 私もすごく良かったわよ」
「ね、レイコさん」 「なあに?」
「あなたは誰かとまた恋をするべきですよ。 こんなに素晴らしいのにもったいないという気がしますね」
「そうねえ、考えておくわ。 でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」
僕は少しあとでもう一度固くなったペ××を彼女の中に入れた。 レイコさんは僕の下で息を呑み込んで体をよじらせた。 僕は静かにペ××を動かしながら、二人でいろんな話をした。
彼女の中に入ったまま話をするのはとても素敵だった。 僕らは長い間ずっとそのまま抱き合っていた。
「こうしてるのってすごく気持いい」 「動かすのも悪くないですよ」と僕は言った。
「ちょっとやってみて、それ」 僕は彼女の腰を抱き上げてずっと奥まで入ってから体をまわすようにしてその感触を味わい、味わい尽くしたところで射×した。
結局その夜我々は4回交った。
そのあとでレイコさんは僕の腕の中で目を閉じて深いため息をつき、体を何度か小さく震わせていた。
「私もう一生これやんなくていいわよね?」とレイコさんは言った。
「ねえ、そう言ってよ、お願い。 残りの人生のぶんはもう全部やっちゃったから安心しなさいって」
「誰にそんなことわかるんですか?」と僕は言った。
僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが、レイコさんは汽車で行くと主張した。
「私、青函連絡船って好きなのよ。 空なんか飛びたくないわよ」 僕は彼女を上野駅まで送った。
「旭川って本当にそれほど悪くないと思う?」 「良い町です。 そのうちに訪ねていきます」
「本当?」 僕は肯いた。 「手紙書きます」
「あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけど。あんないい手紙だったのにね」
「手紙なんてただの紙です。 燃やしちゃっても心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです」
「正直言って私、すごく怖いのよ。 一人ぼっちで旭川に行くのが。 だから手紙書いてね。 あなたの手紙を読むといつもあなたが隣にいるような気がするの」
「僕の手紙でよければいくらでも書きます。 でも大丈夫です。 レイコさんならどこにいてもきっとうまくやれますよ」
「それから私の中で何かがまだつっかえているような気がするんだけれど、これは錯覚かしら?」
「残存記憶です、それは」と僕は言って笑った。 レイコさんも笑った。
「私のこと忘れないでね」
「忘れませんよ、ずっと」
「あなたと会うことは二度とないかもしれないけれど、私どこに行ってもあなたと直子のこといつまでも覚えているわよ」
僕はレイコさんの目を見た。 彼女は泣いていた。 僕は思わず彼女に口づけをした。
まわりを通り過ぎるひとたちは僕たちのことをじろじろと見ていたけれど、僕にはもうそんなことは気にならなかった。 我々は生きていたし、生き続けることだけを考えなくてはならなかったのだ。
「幸せになりなさい」と別れ際にレイコさんは言った。 「私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから、これ以上もう何も言えないのよ。 幸せになりなさいとしか。 私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」 我々は握手をして別れた。
僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。 話すことがいっぱいある。 話さなくちゃいけないことがいっぱいある。 世界中に君以外に求めるものは何もない。 君と会って話したい。 何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
緑は長い間電話の向うで黙っていた。
まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙が続いた。
僕はその間ガラス窓にずっと額を押し付けて目を閉じていた。 それからやがて緑が口を開いた。
「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見回してみた。
”僕は今どこにいるのだ?” でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。 見当もつかなかった。
いったいここはどこなんだ? 僕の目に映るのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。
僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。
ノーベル文学賞の授賞があって、村上春樹さんの名前をテレビで耳にしますね。
ちょうどタイミング的に一緒になりましたが、たまたま村上春樹さんの本が読みたくて手にとっただけです(^^ゞ
いまさら、1987年の「ノルウェイの森」を読んでみました。
ノルウェイの森といえば、前に(何年前でしたっけ?)映画化したときに、
観に行こうかどうしようかと思っているうちに、見ないまま終わってしまいました。
今にしてみれば、先に本のほうを読んで正解だったかな、という気がします。
上巻を読み終えた時点の感想としては、「ふむふむ。内容はわかった・・・それで?」という感じで一体どういう物語なのか方向性がよくわからなかったんですが、下巻の終わりまで読むと、自分は心に響くものがありました。
本は薄めですが、意外とボリュームがあり、読み応えがあります。
文字はけっこうギッチリ。 長セリフが多くて、レイコさんの7ページにもわたる超長セリフも!
でも読みにくいなんてこともなく、さくさく読めます。
全体的に重いテーマですが、緑とレイコさんの明るさがそのへんをふきとばしてくれますね(^-^)
村上春樹が苦手な人に話を聞くと、主人公の気取った言い回しが嫌だとか、登場人物の言動や行動が理解不能なところが苦手だそうですが、私は逆にそんなところが好きなんですよね。
独特な世界観だったり、理解に苦しむところも含めて惹かれます。
村上春樹作品には語らぬ美学みたいなのがある気がします。 読んでいると、「?」と思うようなところがあったり、「あれはどうなったんだろう?」と思う箇所が出てきますが、全てを明かさないところが良いんです。 このノルウェイの森でも意味深なセリフに、あれはこういう意味なんだろうか? それとも・・・・と色々考えてしまいます。
村上春樹さんの小説は芸術作品だよな、と思います。
読んでよかったと思えた一冊でした。 他の作家さんの本も読みつつなので、なかなか進みませんが
全作読みたいです(^^)
「ノルウェイの森」 村上春樹
■登場人物表■
ワタナベ:主人公。大学生。 直子に想いを寄せていたが、いつのまにか緑を大事に想うようになる。
直子:唯一の友達だったキズキの恋人。 20歳の誕生日に様子がおかしくなり、療養所に入る。
突撃隊:ルームメイトだった学生。 地図が好きですぐどもる。 行方不明のまま退寮した。
キズキ:高校時代、唯一の友人だったが自殺してしまう。 直子とは子供の時からの仲だった。
永沢:同じ学生寮に住んでいた2コ上の青年。東大法学部の天才だが、変わり者。 女遊びが激しい。
小林緑:大学で同じ「演劇史Ⅱ」を専攻している、変わった女の子。 ワタナベに興味を示す。
レイコ:直子のいる療養所で同じ部屋で暮らす。 38歳。 音楽が得意。 ヘビースモーカー。
緑の父:脳腫瘍で入院していたが、病院で亡くなる。
ハツミ:永沢の恋人。 素敵な女性。 永沢と3人で食事に行った。
第11章
直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、
誰のせいでもないし、それは雨降りのように誰にも止めることのできないことなのだと言ってくれた。
しかしそれに対して僕は返事を書かなかった。 なんて言えばいいのだ? それにそんなことはどうでもいいことなのだ。 直子はもうこの世界には存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。
8月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕は東京に戻って家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、アルバイト先に行って申し訳ないが当分来ることができないと言った。
そして緑に今は何も言えない、悪いとは思うけれどもう少し待って欲しいという短い手紙を書いた。
それから3日間毎日、映画館をまわって朝から晩まで映画を見た。
リュックに荷物をつめ、新宿駅に行って急行列車に乗った。
僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、あるいは通りかかったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、
眠れそうな場所があればどこにでも寝袋を敷いて眠った。
交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで眠ったこともある。 どこだってかまわなかった。
僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。
金が乏しくなると僕は肉体労働を3,4日やって当座の金を稼いだ。 どこにでも何かしらの仕事はあった。
僕は一度緑に電話をかけてみた。 彼女の声がたまらなく聞きたかったからだ。
「あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ」と緑は言った。「どうするのよ、いったい? あなたこれでもう3週間も音信不通だったのよ。 どこにいて何してるのよ?」
「悪いけど、今は東京に戻れないんだ。 まだ」
「言うことはそれだけなの?」
「だから今は何も言えないんだよ、うまく。 10月になったら―――」
緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。
僕はそのまま旅行を続けた。 時々鏡を見ると僕は本当にひどい顔をしていた。
日焼けのせいで肌はかさかさになり、目がくぼんで、こけた頬にはわけのわからないしみや傷がついていた。
ついさっき暗い穴の底から這い上がってきた人間のように見えたが、よく見るとたしかに僕の顔だった。 僕がその頃歩いていたのは山陰の海岸だった。 ウィスキーを飲み、波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った。
彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。
僕にはその事実がまだどうしても呑みこめなかった。 彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が無に帰してしまったという事実に棒はどうしても順応することができずにいた。
僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。
彼女が僕のペ××をそっと口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えていた。
そのあたたかみや息づかいや、やるせない射×の感触を僕は覚えていた。
それをまるで5分前の出来事のようにはっきり思い出すことができた。
そして隣に直子がいて、手を伸ばせばその体に触れることができるような気がした。
でも彼女はそこにいなかった。 彼女の肉体はもうこの世界のどこにも存在しないのだ。
僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思い出した。
あの雨の朝に黄色い雨合羽を着て鳥小屋を掃除したり、えさの袋を運んでいた光景を思い出した。
半分崩れたバースデーケーキと、あの夜僕のシャツを濡らした直子の涙の感触を思い出した。
そうあの夜も雨が降っていた。
冬には彼女はキャメルのオーバーコートを着て僕の隣りを歩いていた。
彼女はいつも髪留めをつけて、いつもそれを手で触っていた。 そして透き通った目でいつも僕の目を覗き込んでいた。 青いガウンを着てソファーの上で膝を折りその上に顎をのせていた。
そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。 その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。
そこでは直子が生きていて、僕と語り合い、あるいは抱き合うこともできた。
そこでは死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。
直子は死を含んだままそこで生き続けていた。 そして彼女は僕にこう言った。
「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。 気にしないで」と。
そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。 死は死であり、直子は直子だからだった。
そうよ、死ぬのってそんなたいしたことじゃないのよ。 死なんてただの死なんだもの。
それに私はここにいるとすごく楽なんだもの。 暗い波の音のあいまから直子はそう語った。
しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。
僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。 そんなとき僕は一人でよく泣いた。
泣くというよりはまるで汗みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくるのだ。
キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。 我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。
しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。
直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。
どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。 どのような真理も、
どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。
我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学び取ることしかできないし、そしてその学び取った何かも、
次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。
僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えていた。 僕は西へ西へと歩いた。
ある風の強い夕方、僕が廃船の陰で寝袋にくるまって涙を流していると若い漁師がやってきて煙草をすすめてくれた。 どうして泣いているのかと彼は僕に訊いた。
母が死んだからだと僕は殆ど反射的に嘘をついた。 彼は心から同情してくれた。
そして家から一升瓶をグラスをふたつ持ってきてくれた。
風の吹きすさぶ砂浜で、我々は二人で酒を飲んだ。 俺も16で母親を亡くしたをその漁師は言った。
僕はコップ酒を飲みながらぼんやりと彼の話を聞き、適当に相槌を打った。
それはひどく遠い世界の話であるように感じられた。 それがいったいなんだっていうんだと思った。
そして突然この男の首を締めてしまいたいような激しい怒りに駆られた。
お前の母親がなんだっていうんだ? 俺は直子を失ったんだ!
あれほど美しい肉体がこの世界から消え去ってしまったんだぞ!
それなのにどうしてお前はそんな母親の話なんてしているんだ?
でもそんな怒りはすぐに消え失せてしまった。 やがて彼は僕にもう飯は食べたかと訊ねた。
食べてないけれど、リュックの中にパンとチーズとトマトとチョコレートが入っていると答えた。
昼には何を食べたのかと彼が訊いたので、パンとチーズとトマトとチョコレートだと僕は答えた。
すると彼はここで待ってろよと言ってどこかに行ってしまった。
僕は一人でコップ酒を飲んでいた。 砂浜には花火の紙くずが一面に広がり、波はまるで怒り狂ったように轟音を立てて波打ち際で砕けていた。 やせこけた犬が尾を振りながらやってきて何か食べ物はないかと僕の作った小さなたき火のまわりをうろうろしていたが、何もないとわかるとあきらめて去っていった。
30分ほどあとでさっきの若い漁師が寿司折をふたつと新しい一升瓶を持って戻ってきた。
これ食えよ、と彼は言った。 下の方のは海苔巻きと稲荷だから明日のぶんにしろよ、と彼は言った。
僕は礼を言ってたっぷりと二人分はある寿司を食べた。 それからまた二人で酒を飲んだ。
彼は別れ際にポケットから4つに折った5千円札を出して僕のシャツのポケットにつっこみ、これで何か栄養のあるものでも食え、あんたひどい顔してるから、と言った。
これは金じゃなくて俺の気持ちだ、だから余計なこと考えずに持っていけと彼は言った。
礼を言って僕はそれを受け取った。
漁師が行ってしまったあとで、僕は高校3年のとき初めて寝たガールフレンドのことをふと考えた。
そして自分が彼女にどれほどひどいことをしてしまったかを思って、どうしようもなく冷え冷えとした気持ちになった。 彼女が何を思い、どう感じ、どう傷つくかなんて考えもしなかったのだ。
彼女は今何をしているんだろうか、そして僕を許してくれているのだろうか、と僕は思った。
ひどく気分が悪くなって、廃船のわきに僕は嘔吐した。 そろそろ東京に戻ってもいい頃だなと思った。
いつまでもいつまでも永遠にこんなことを続けているわけにはいかないのだ。
僕は寝袋を丸めてリュックにしまい、それをかついで国鉄の駅まで歩き、今から東京に帰りたいのだがどうすればいいだろうと駅員に訊いてみた。 そして僕は切符を買った。
ちょうど1ヶ月旅行を続けていた。 なんとか現実の世界に戻らなくちゃな、と僕は思った。
1ヶ月の旅行は僕の気持ちをひっぱりあげてはくれなかったし、直子の死が僕に与えた打撃もやわらげてもくれなかった。 僕は1か月前とあまり変わりない状態で東京に戻った。
緑に電話をかけることすらできなかった。 彼女にどう切り出していいのかがわからなかった。
なんて言えばいいのだ? 全ては終わったよ、君と二人で幸せになろう―――そう言えばいいのだろうか?
どんな風に言ったところで、どんな言い方をしたところで、結局語るべき事実はひとつなのだ。
直子は死に、緑は残っているのだ。
直子は白い灰になり、緑は生身の人間として残っているのだ。
僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。
東京に戻っても、部屋に閉じこもって何日かを過ごした。
僕の記憶のほとんどは生者にではなく死者に結びついていた。 僕はキズキのことを思った。
おい、キズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。
まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。 結局そこが彼女の行くべき場所だったのだろう。
この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺なりのベストを尽くしたんだよ。
そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方を打ち立てようと努力したんだよ。
でもいいよ、キズキ。 直子はお前にやるよ。 直子はお前の方を選んだんだものな。
彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子は首をくくったんだ。 お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。 そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。
ときどき俺は自分が博物館の管理人になったような気がするよ。 誰一人訪れることがないがらんとした博物館でね、俺は俺自身のためにそこの管理をしているんだ。
東京に戻って4日目にレイコさんからの手紙が届いた。 手紙の内容は至極簡単なものだった。
あなたとずっと連絡がとれなくてとても心配してる。 電話をかけてほしい。
朝の9時と夜の9時にこの電話番号の前で待っている。
僕は夜の9時にその番号をまわしてみた。 すぐにレイコさんが出た。
「元気?」 「まずまずですね」
「ねえ、あさってにでもあなたに会いに行っていいかしら?」 「会いに来るって、東京に来るんですか?」
「ええ、そうよ。 あなたと二人で一度ゆっくりと話がしたいの」
「じゃあ、そこを出ちゃうんですか、レイコさんは?」 「出なきゃ会いに行けないでしょう」と彼女は言った。
「そろそろ出てもいい頃よ。 だってもう8年もいたんだもの。 これ以上いたら腐っちゃうわよ」
僕はうまく言葉が出てこなくて少し黙っていた。
「あさっての新幹線で3時20分に東京駅に着くから迎えに来てくれる? 私の顔はまだ覚えてる? それとも直子が死んだら私になんて興味なくなっちゃったかしら?」
「まさか。 迎えに行きます」
「すぐにわかるわよ。 ギターケース持った中年女なんてそんなにいないから」
たしかに僕は東京駅ですぐにレイコさんを見つけることができた。
彼女は男物のジャケットに白いズボンをはいて赤い運動靴をはき、靴は相変わらず短くてところどころとびあがり、右手に茶色い革の旅行鞄を持ち、左手に黒いギターケースを下げていた。
彼女は僕を見ると顔のしわをくしゃっと曲げて笑った。 僕も自然に微笑んでしまった。
「ねえワタナベ君、いつからそんなひどい顔してるの? それとも東京ではそういうひどい顔が流行ってるの?」
「しばらく旅行してたせいですよ。 あまりロクなもの食べなかったから。 新幹線はどうでした?」
「あれひどいわね。 窓開かないんだもの。 途中でお弁当買おうと思ってたのにひどい目にあっちゃった」
「中で何か売りに来るでしょう?」
「あのまずくて高いサンドイッチのこと? あんなもの飢え死にしかけた馬だって残すわよ。 私ね、御殿場で鯛めしを買って食べるのが好きだったの」
「8年もたつと風景も違っているものですか?」と僕は訊いた。
「ねえワタナベ君。 私が今どんな気持ちかわかんないでしょう?」 「わかりませんね」
「怖くって怖くって気が狂いそうなのよ。 どうしていいかわかんないのよ。 一人でこんなところに放り出されて」とレイコさんは言った。 「でも<気が狂いそう>って素敵な表現だと思わない?」
僕は笑って彼女の手を握った。
「でも大丈夫ですよ。 レイコさんはもう全然心配ないし、それに自分の力で出てきたんだもの」
「あそこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。 私は直子のいないあの場所に残っていることに耐えられなかったし、東京にきてあなたと一度ゆっくり話し合う必要があったの。 だからあそこを出てきちゃったのよ。 もし何もなければ、私は一生あそこにいることになったんじゃないかしら」
「これから先どうするんですか、レイコさんは?」
「旭川に行くのよ。 ねえ旭川よ!」と彼女は言った。 「音大の時仲のよかった友達が旭川で音楽教室やっててね、手伝わないかって前から誘われてたんだけど断ってたの、寒いから。 あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」
「そんなにひどくないですよ」僕は笑った。 「一度行ったことがあるけれど、悪いくない町ですよ」
「本当? ねえワタナベ君、いつか旭川に遊びに来てくれる?」
「もちろん行きますよ。 でも今すぐ行っちゃうんですか?」
「できたら2,3日ゆっくりしていきたいのよ。 あなたのところに厄介になっていいかしら?」
「全然かまいませんよ。 僕は寝袋に入って押入れで寝ます」 「悪いわね」
「いいですよ。 すごく広い押入れなんです」
「私たぶん体を馴らす必要があるのよ、旭川に行く前に。 まだ外の世界に全然馴染んでないから。 わからないこともいっぱいあるし、緊張もしてるし。 そういうの少し助けてくれる? 私、あなたしか頼れる人いないから」
「僕で良ければいくらでも手伝いますよ」 「私、あなたの邪魔をしてるんじゃないかしら?」
「僕のいったい何を邪魔しているんですか?」 レイコさんは僕の顔を見て、唇の端を曲げて笑った。
彼女と二人で歩いていると僕の心は不思議にやわらぎ、慰められた。
考えてみれば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれとまったく同じ想いをしたのだ。
かつて僕と直子がキズキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。 そう思うと、僕は急に何もしゃべれなくなってしまった。
僕が口をきかないことがわかると彼女も黙って、二人で無言のままバスに乗って僕の部屋まで行った。
秋のはじめの、ちょうど1年前に直子を京都に訪ねたときと同じようにくっきりと光の澄んだ午後だった。
また秋が来たんだな、と僕は思った。 季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。
キズキは17のままだし、直子は21のままなのだ。 永遠に。
「すごく良いところじゃない」と彼女は言った。 「これみんなあなたが作ったの? こういう棚やら机やら」
「そうですよ」僕はお茶を入れながら言った。 「けっこう器用なのね、ワタナベ君。 部屋もきれいだし」
「突撃隊のおかげですね。 彼が僕を清潔好きにしちゃたから。 でもおかげで大家さんは喜んでますよ」
「あ、そうそう。 大家さんに挨拶してくるわね。 お庭の向こうに住んでるんでしょ?」
「挨拶? 挨拶なんてするんですか?」
「当たり前じゃない。 あなたのところに変な中年女が転がり込んでギター弾いてたりしたら大家さんだって何かと思うでしょ? そのために菓子折りだってちゃんと持ってきたんだから」
「ずいぶん気がきくんですねえ」
「年の功よ。 あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくから、ちゃんと話を合わせといてよ」
レイコさんが行ってしまうと20分くらい戻ってこなかった。
僕は縁側に座ってもう一杯お茶を飲み、猫と遊んだ。
「20分も何話してたんですか?」
「そりゃもちろんあなたのことよ。 きちんとしてるし真面目な学生だって感心してたわよ」
それから彼女は僕のギターを手に取り、少し調弦してからカルロス・ジョビンの「デサフィナード」を弾いた。
それは前と同じように僕の心をあたためてくれた。
「ねえ、これ素敵なシャツでしょう?」とレイコさんが言った。
「そうですね」 たしかにとても洒落た柄のシャツだった。
「これ、直子のものなのよ」とレイコさんは言った。 「知ってる? 直子と私って洋服のサイズ殆ど一緒だったのよ。 シャツもズボンも靴も帽子も。 ブラジャーくらいじゃないかしら、サイズが違うのは。 私なんかおっぱいないも同然だから。 だから私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。 というか殆ど二人で共有してたようなものね」
僕はあらためてレイコさんの体を見てみた。
そう言われてみればたしかに彼女の背格好は直子と同じくらいだった。
顔のかたちやひょろりと細い手首なんかのせいで、レイコさんの方が直子よりやせていて小柄だという印象があったのだが、よく見てみると体つきは意外にがっしりとしているようでもあった。
「不思議なのよ。 直子は誰にあてても遺書を書かなかったんだけど、洋服のことだけはちゃんと書き残していったのよ。 メモ用紙に一行だけ走り書きして、それが机の上に置いてあったの。 『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』って。 変な子だと思わない? 自分がこれから死のうと思ってる時にどうして洋服のことなんか考えるのかしらね。 そんなのどうだっていいじゃない。 もっと他に言いたいことは山ほどあったはずなのに」
「何もなかったのかもしれませんよ」
レイコさんは煙草をふかしながらしばらく物思いに耽っていた。
「ねえ、あなた、最初からひとつひとつ話を聞きたいでしょう?」
「話して下さい」と僕は言った。
「病院での検査の結果がわかって、直子の病状は一応今のところ回復しているけれど今のうちに根本的に集中治療しておいた方があとあとのために良いだろうってことになって、直子はもう少し長期的にその大阪の病院に移ることになったの。 そこまでは手紙に書いたわよね」
「その手紙は読みました」
「8月24日に直子のお母さんから電話がかかってきて、直子が一度そちらに行きたいと言っているのだが構わないだろうかと言うの。 私の方は全然かまいませんよって言ったの。 私も直子にはすごく会いたかったし、話したかったし。 それで翌日の25日に彼女はお母さんと2人でタクシーに乗ってやってきたの。 そして私たち3人で荷物の整理をしたわけ。 夕方近くになると直子はお母さんにもう帰っていいわよ、あと大丈夫だからって言って、それでお母さんはタクシーを呼んで帰っていったの。 直子はすごく元気そうだったし、私もお母さんもそのときは全然気にもしなかったのよ。 本当はそれまですごく心配してたの、ああいう病院の検査とか治療ってずいぶん消耗するものだってことを私はよく知ってるから。 でも私一目見て、ああこれならいいやって思ったの。 にこにこして冗談なんかも言ってたし、喋り方も前よりずっとまともになってたし、美容院に行ったんだって新しい髪型を自慢してたし。 私この際だから病院できちんと全部なおしちゃおうと思うのっていうから、そうね、それがいいかもしれないわねと私も言ったの。 それで私たち外を散歩していろんなお話をしたの。 彼女こんなことも言ったわ。 2人でここを出られて、一緒に暮らすことができたらいいでしょうねって」
「レイコさんと2人でですか?」
「そうよ。 それで私言ったのよ。 ワタナベ君のことはいいのって。 すると彼女こう言ったの『あの人のことは私きちんとするから』って。それだけ」
僕は冷蔵庫からビールを出して飲んだ。 猫はレイコさんの膝の上でぐっすりと眠り込んでいた。
「あの子もう初めから全部決めていたのよ。 だからきっとあんなに元気でにこにこして健康そうだったのね。 きっと決めちゃって気が楽になってたのよね。 それから部屋の中を整理していらないものをドラム缶に入れて焼いたの。 あなたの手紙もよ。 それで私変だなと思ってどうして焼いちゃうのよって訊いたの。 だってあの子、あなたの手紙はずっと、とても大事に保管してよく読み返してたんだもの。 そしたら『これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わるの』って言うから、ふうん、そういうものかなってわりに単純に納得しちゃったの。 この子も元気になって幸せになれるといいのにな、って思ったの。 だってその日の直子は本当に可愛かったのよ。 あなたに見せたいくらい。
それから私たち夕御飯食べて、お風呂入って、ワインを二人で飲んで、私がギター弾いたの。 例によってビートルズ。 『ノルウェイの森』とか『ミシェル』とか、あの子の好きなやつ。
そして私たち電気消してベッドに寝転んだの。 すごく暑い夜でね、窓を開けても風なんて殆ど入ってきやしないの。 それから急にあなたの話を直子が始めたの。 あなたとのセッ××の話よ。 それもものすごく詳しく話すの。 それまであの子そんなにあからさまに話さなかったんですもの、驚くわよ。
『ただなんとなく話したくなったの』って直子は言ったわ。
『そんなに良かったんならワタナベ君と一緒になって毎日やってればよかったんじゃないの?』って言ったの。
『でも駄目なのよ、レイコさん」って直子は言ったわ。 『私にはそれがわかるの。 それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。 それは二度と戻ってこないのよ。 何かの加減で一生に一度だけ起こったことなの。 そのあとも前も私何も感じないのよ。 やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ』
一度はうまくいったんだもの、心配することはないわよって言ったわ。
『そうじゃないの』と直子は言ったわ。『私何も心配してないのよ、レイコさん。 私はただもう誰にも私の中に入ってほしうないだけなの。 もう誰にも乱されたくないだけなの』」
僕はビールを飲んでしまい、レイコさんは2本目の煙草を吸ってしまった。
「それから直子はしくしく泣き出したの。 抱いて欲しいって直子は言ったの。 こんな暑いのに抱けやしないわよって言ったんだけど、これでもう最後だからって言うんで抱いたの。 体をバスタオルでくるんで、汗がくっつかないようにして、しばらく。 そして寝巻きを着せて寝かしつけたの。 すぐにぐっすり寝ちゃったわ。 あるいは寝たふりかもしれないけど。 それを見てから私も眠ったの、安心して。
6時に目を覚ましたとき彼女はもういなかったの。 寝巻きが脱ぎ捨ててあって、服と運動靴とそれからいつも枕元に置いてある懐中電灯がなくなってたの。 まずいなってそのとき思ったわよ。 念の為に机の上なんかを見てみたら、そのメモ用紙があったのよ。 『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』って。 それで私すぐみんなのところに行って、全員で寮の中からまわりの林までしらみつぶしに探したの。 探し当てるのに5時間かかったわよ。 あの子、自分でちゃんとロープまで要して持ってきていたのよ」
レイコさんはため息をついて、猫の頭を撫でた。 「お茶飲みますか?」 「ありがとう」
僕は湯を沸かしてお茶を入れ、縁側に戻った。
「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。
「すごくひっそりとして、人も少なくて。 家の人は僕が直子の死んだことをどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。 きっとまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。 本当はお葬式なんて行くべきじゃなかったんですよ。 僕はそれですごくひどい気分になっちゃって、すぐ旅行に出ちゃったんです」
「ねえワタナベ君、晩ご飯の買い物にでも行きましょうよ。 私おなか減ってきちゃったわ」
「いいですよ、何か食べたいものありますか?」
「すき焼き」と彼女は言った。 「だって私、鍋物なんて何年も何年も食べてないんだもの」
「それはいいんですけどね、すき焼き鍋ってものがないんですよ、うちには」
「大丈夫よ、私にまかせなさい。 大家さんのところで借りてくるから」
彼女はさっと母屋の方に行って、立派なすき焼き鍋とガスコンロと長いゴムホースを借りてきた。
「どう? たいしたもんでしょう」 「まったく」と僕は感心して言った。
材料を買い揃えて家に帰り、縁側ですき焼きを食べる準備をした。
準備が終わるとレイコさんはギターを取り出し、薄暗くなった縁側に座って、バッハのフーガを弾いた。
ギターを弾いている時のレイコさんは、まるで気に入ったドレスを眺めている17か18の女の子みたいに見えた。
「レイコさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか?」
「行かないわよ、前にも言ったでしょ? あの人たち、もう私とは関わりあわない方がいいのよ。 あの人たちにはあの人たちの新しい生活があるし、私は会えば会ったで辛くなるし。 会わないのが一番よ」
彼女は鞄の中から新しいセブンスターの箱を取り出し、封を切って一本くわえた。 しかし火はつけなかった。
「私はもう終わってしまった人間なのよ。 あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ」
「でも僕は今のレイコさんがとても好きですよ。 残存記憶であろうがなんであろうがね。 そしてレイコさんが直子の服を着てくれていることは僕としてはとても嬉しいですね」
レイコさんはにっこり笑ってライターで煙草に火をつけた。 「あなた年の割に女の人の喜ばせ方をよく知ってるのね」
僕は鍋に油をしいてすき焼きの用意を始めた。
「これ夢じゃないわよね?」とレイコさんはくんくんと匂いをかぎながら言った。
「100%現実のすき焼きですね。 経験的に言って」と僕は言った。
我々はただ黙々とすき焼きをつつき、ビールを飲み、そしてごはんを食べた。
”かもめ”が匂いをかぎつけてやってきたので肉をわけてやった。
僕らは腹一杯になると、二人で縁側の柱にもたれ、月を眺めた。
「もしよかったら教えてほしいんだけど、その緑さんっていう女の子ともう寝たの?」とレイコさんが訊いた。
「してませんよ。 いろんなことがきちんとするまではやらないって決めたんです」
「もうこれできちんとしたんじゃないかしら」
「直子が死んじゃったから物事は落ち着くべきところに落ち着いちゃったってこと?」
「そうじゃないわよ。 だってあなた直子が死ぬ前からもうちゃんと決めてたじゃない、その緑さんという人とは離れるわけにはいかないんだって。 あなたは緑さんを選び、直子は死ぬことを選んだのよ。 あなたもう大人なんだから、自分の選んだものにはきちんと責任持たなくちゃ」
「でも忘れられないんですよ。 僕は直子にずっと君を待っているって言ったんですよ。 でも待てなかった。 結局最後の最後で彼女を放り出しちゃった。 たぶん僕が途中で放り出さなくても結果は同じだったと思います。 直子はやはり死を選んでいただろうと思います。 でもそれとは関係なく、僕は自分自身に許しがたいものを感じるんです。 僕と直子の関係は単純なものではなかったんです。 考えてみれば我々は最初から生死の境目で結びつきあってたんです」
「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生を通してずっと感じ続けなさい。 そして学べるものならそこから何かを学びなさい。 でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。 これ以上彼女を傷つけたりしたら、もう取り返しのつかないことになるわよ。 だから辛いだろうけれど強くなりなさい。 もっと成長して大人になりなさい。 私はあなたにそれを言うためにここまで来たのよ。 はるばるあんな棺桶みたいな電車に乗って」
「レイコさんの言ってることはよくわかりますよ。 でも僕にはまだその準備ができてないんですよ。
ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。 人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」
レイコさんは手を伸ばして僕の頭を撫でた。
「私たちみんないつかそんな風に死ぬのよ。 私もあなたも」
「ワタナベ君、グラスもう1個持ってきてくれない?」 「いいですよ。 でも何するんですか?」
「これから二人で直子のお葬式するのよ」とレイコさんは言った。 「淋しくないやつを」
僕がグラスを持ってくると、レイコさんはなみなみとワインを注ぎ、庭の灯籠の上に置いた。
そして縁側に座り、柱にもたれてギターを抱え、煙草を吸った。
「私が一曲弾いたら、マッチ棒をそこに並べてってくれる? 私今から弾けるだけ弾くから」
彼女はまずヘンリー・マンシーニの「ディア・ハート」をとても綺麗に静かに弾いた。
「このレコードあなたが直子にプレゼントしたんでしょ?」
「そうです。一昨年のクリスマスにね。 あの子はこの曲がとても好きだったから」
「私も好きよ、これ。 とても優しくて美しくて。 ねえ、こういうお葬式だと淋しくなくていいでしょう?」
レイコさんはビートルズに移り、「ノルウェイの森」を弾き、「イエスタデイ」を弾き、「ミシェル」を弾き、「サムシング」を弾き、「ヒア・カムズ・ザ・サン」を唄いながら弾き、「フール・オン・ザ・ヒル」を弾いた。
「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさっていうものをよく知っているわね」
”この人たち”というのはもちろんジョン・レノンとポール・マッカートニー、そしてジョージ・ハリソンのことだった。
彼女は一息ついて煙草を消してからまたギターをとって「ペニー・レイン」を弾き、「ブラック・バード」を弾き、「ジュリア」を弾き、「64になったら」を弾き、「ノーホエア・マン」を弾き、「アンド・アイ・ラブ・ハー」を弾き、「ヘイ・ジュード」を弾いた。
「これで何曲になった?」 「14曲目」
ふう、と彼女はため息をついた。 「あなた一曲くらいなにか弾けないの?」
「下手ですよ」 「下手でいいのよ」
僕は自分のギターを持ってきて「アップ・オン・ザ・ルーフ」をたどたどしくではあるけれど弾いた。
僕は弾き終わると彼女はぱちぱちぱちと拍手をした。
それからレイコさんはラヴェルの「死せる王女のためのパヴァーヌ」とドビッシーの「月の光」を丁寧に綺麗に弾いた。 「この2曲は直子が死んだあとでマスターしたのよ」とレイコさんは言った。
「あの子の音楽の好みは最後までセンチメンタリズムという地平を離れなかったわね」
そして彼女はバカラックを何曲か演奏した。 「クロース・トゥーユー」 「雨に濡れても」 「ウォーク・オン・バイ」 「ウェディングベル・ブルーズ」。
「20曲」
「私ってまるで人間ジュークボックスみたいだわ」
彼女はワインをすすり、煙草をふかしながら次から次へと知っている曲を弾いていった。
ボサノヴァを10曲近く弾き、ロジャース=ハートやガーシュインの曲を弾き、ボブ・ディランやらレイ・チャールズやらキャロル・キングやらビーチボーイズやらスティービー・ワンダーやら「上を向いて歩こう」やら「ブルー・ベルベット」やら「グリーン・フィールズ」やら、もうとにかくありとあらゆる曲を弾いた。
ワインがなくなると我々はウィスキーを飲んだ。
僕は庭のグラスの仲のワインを灯籠の上からかけ、そのあとにウィスキーを注いだ。
「今これで何曲かしら?」
「48」
レイコさんは49曲目に「エリナ・リグビー」を弾き、50曲目にもう一度「ノルウェイの森」を弾いた。
「これくらいやれば十分じゃないかしら?」 「十分です。 たいしたもんです」
「いい、ワタナベ君、もう淋しいお葬式のことはきれいさっぱり忘れなさい」とレイコさんは僕の目をじっと見て言った。 「このお葬式のことだけ覚えていなさい。 素敵だったでしょ?」
僕は肯いた。
「おまけ」とレイコさんは言い、51曲目にいつものバッハのフーガを弾いた。
「ねえ、ワタナベ君、私と”あれ”やろうよ」と弾き終わった後でレイコさんが小さな声で言った。
「不思議ですね」と僕は言った。 「僕も同じこと考えてたんです」
カーテンを閉めた暗い部屋の中で僕とレイコさんは本当に当たり前のことのように抱き合い、お互いの体を求めあった。
「ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、19歳年下の男の子にパンツ脱がされることになるとは思いもしなかったわね」
「じゃあ自分で脱ぎますか?」
「いいわよね、脱がせて。 でも私しわだらけだからがっかりしないでよ」
「僕、レイコさんのしわ好きですよ」 「泣けるわね」とレイコさんは小さな声で言った。
僕は彼女のいろんな部分に唇をつけ、しわがあるとそこを舌でなぞった。 そして少女のような薄い乳房に手を当てて、乳首をやわらかく噛み、あたたかく湿ったヴァ××に指をあててゆっくりと動かした。
「それただのしわよ」 「こういうときにも冗談しか言えないんですか?」僕はあきれて言った。
「ごめんなさい。 怖いのよ、私。 もうずっとこれやってないから。 なんだか17の女の子が男の子の下宿に遊びに行ったら裸にされちゃったみたいな気分よ」
「本当に17の女の子を犯してるみたいな気分ですよ」
僕はそのしわの中に指を入れ、首筋から耳にかけて口づけし、乳首をつまんだ。 そして彼女の息づかいが激しくなって喉が小さく震えはじめると僕はそのほっそりとした脚を広げてゆっくりと中に入った。
「ねえ、大丈夫よね、妊娠しないようにしてくれるわよね? この年で妊娠すると恥かしいから」
「大丈夫ですよ。 安心して」
ペ××を奥まで入れると、彼女は体を震わせてため息をついた。
僕は彼女の背中を優しくさするように撫でながらペ××を何度か動かして、そして何の予兆もなく突然射×した。
それは押しとどめようのない激しい射×だった。
僕は彼女にしがみついたまま、そのあたたかみの中に何度も精液を注いだ。
「すみません。 我慢できなかったんです」
「馬鹿ねえ、そんなこと考えなくてもいいの」とレイコさんは僕のお尻を叩きながら言った。
「いつもそんなこと考えながら女の子とやってるの?」 「まあ、そうですね」
「私とやるときはそんなこと考えなくていいのよ。 忘れなさい。 好きな時に好きなだけ出しなさいね。 どう、気持ちよかった?」
「すごく。 だから我慢できなかったんです」 「それでいいのよ。 私もすごく良かったわよ」
「ね、レイコさん」 「なあに?」
「あなたは誰かとまた恋をするべきですよ。 こんなに素晴らしいのにもったいないという気がしますね」
「そうねえ、考えておくわ。 でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」
僕は少しあとでもう一度固くなったペ××を彼女の中に入れた。 レイコさんは僕の下で息を呑み込んで体をよじらせた。 僕は静かにペ××を動かしながら、二人でいろんな話をした。
彼女の中に入ったまま話をするのはとても素敵だった。 僕らは長い間ずっとそのまま抱き合っていた。
「こうしてるのってすごく気持いい」 「動かすのも悪くないですよ」と僕は言った。
「ちょっとやってみて、それ」 僕は彼女の腰を抱き上げてずっと奥まで入ってから体をまわすようにしてその感触を味わい、味わい尽くしたところで射×した。
結局その夜我々は4回交った。
そのあとでレイコさんは僕の腕の中で目を閉じて深いため息をつき、体を何度か小さく震わせていた。
「私もう一生これやんなくていいわよね?」とレイコさんは言った。
「ねえ、そう言ってよ、お願い。 残りの人生のぶんはもう全部やっちゃったから安心しなさいって」
「誰にそんなことわかるんですか?」と僕は言った。
僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが、レイコさんは汽車で行くと主張した。
「私、青函連絡船って好きなのよ。 空なんか飛びたくないわよ」 僕は彼女を上野駅まで送った。
「旭川って本当にそれほど悪くないと思う?」 「良い町です。 そのうちに訪ねていきます」
「本当?」 僕は肯いた。 「手紙書きます」
「あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけど。あんないい手紙だったのにね」
「手紙なんてただの紙です。 燃やしちゃっても心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです」
「正直言って私、すごく怖いのよ。 一人ぼっちで旭川に行くのが。 だから手紙書いてね。 あなたの手紙を読むといつもあなたが隣にいるような気がするの」
「僕の手紙でよければいくらでも書きます。 でも大丈夫です。 レイコさんならどこにいてもきっとうまくやれますよ」
「それから私の中で何かがまだつっかえているような気がするんだけれど、これは錯覚かしら?」
「残存記憶です、それは」と僕は言って笑った。 レイコさんも笑った。
「私のこと忘れないでね」
「忘れませんよ、ずっと」
「あなたと会うことは二度とないかもしれないけれど、私どこに行ってもあなたと直子のこといつまでも覚えているわよ」
僕はレイコさんの目を見た。 彼女は泣いていた。 僕は思わず彼女に口づけをした。
まわりを通り過ぎるひとたちは僕たちのことをじろじろと見ていたけれど、僕にはもうそんなことは気にならなかった。 我々は生きていたし、生き続けることだけを考えなくてはならなかったのだ。
「幸せになりなさい」と別れ際にレイコさんは言った。 「私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから、これ以上もう何も言えないのよ。 幸せになりなさいとしか。 私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」 我々は握手をして別れた。
僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。 話すことがいっぱいある。 話さなくちゃいけないことがいっぱいある。 世界中に君以外に求めるものは何もない。 君と会って話したい。 何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
緑は長い間電話の向うで黙っていた。
まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙が続いた。
僕はその間ガラス窓にずっと額を押し付けて目を閉じていた。 それからやがて緑が口を開いた。
「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見回してみた。
”僕は今どこにいるのだ?” でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。 見当もつかなかった。
いったいここはどこなんだ? 僕の目に映るのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。
僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。
ノーベル文学賞の授賞があって、村上春樹さんの名前をテレビで耳にしますね。
ちょうどタイミング的に一緒になりましたが、たまたま村上春樹さんの本が読みたくて手にとっただけです(^^ゞ
いまさら、1987年の「ノルウェイの森」を読んでみました。
ノルウェイの森といえば、前に(何年前でしたっけ?)映画化したときに、
観に行こうかどうしようかと思っているうちに、見ないまま終わってしまいました。
今にしてみれば、先に本のほうを読んで正解だったかな、という気がします。
上巻を読み終えた時点の感想としては、「ふむふむ。内容はわかった・・・それで?」という感じで一体どういう物語なのか方向性がよくわからなかったんですが、下巻の終わりまで読むと、自分は心に響くものがありました。
本は薄めですが、意外とボリュームがあり、読み応えがあります。
文字はけっこうギッチリ。 長セリフが多くて、レイコさんの7ページにもわたる超長セリフも!
でも読みにくいなんてこともなく、さくさく読めます。
全体的に重いテーマですが、緑とレイコさんの明るさがそのへんをふきとばしてくれますね(^-^)
村上春樹が苦手な人に話を聞くと、主人公の気取った言い回しが嫌だとか、登場人物の言動や行動が理解不能なところが苦手だそうですが、私は逆にそんなところが好きなんですよね。
独特な世界観だったり、理解に苦しむところも含めて惹かれます。
村上春樹作品には語らぬ美学みたいなのがある気がします。 読んでいると、「?」と思うようなところがあったり、「あれはどうなったんだろう?」と思う箇所が出てきますが、全てを明かさないところが良いんです。 このノルウェイの森でも意味深なセリフに、あれはこういう意味なんだろうか? それとも・・・・と色々考えてしまいます。
村上春樹さんの小説は芸術作品だよな、と思います。
読んでよかったと思えた一冊でした。 他の作家さんの本も読みつつなので、なかなか進みませんが
全作読みたいです(^^)