死んじゃってもいいかなあ、もう・・・・・・。
38歳秋。 その夜僕は5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。


ワイン色のオデッセイ。 こんな感じでしょうか。


「流星ワゴン」 重松清


嘘だろう―――と、声にならないつぶやきが漏れた。
ここが俺にとって大切な場所なのか?


僕は昼間の雑踏に立っていた。 新宿だった。
駅前のスクランブル交差点の真ん中で、呆然と立ちつくしていた。
信号が赤に変わる。 発進しかけた車にクラクションをぶつけられた。 足がもつれ、転びそうになった。

嘘だろう―――と、一年前の僕も胸の中でつぶやいた。 去年の夏。 うだるように暑かった午後。
僕は新宿のスクランブル交差点で確かにそうつぶやいて、首を傾げたのだった。

美代子が歩いていた。 一人ではなかった。 男と二人で―――肩を抱かれて。
交差点を渡りきる前に気づいて、すぐに振り向いたが、二人の姿はもう雑踏に紛れていた。
顔を戻して、そんなはずないだろう、と笑った。
そう、僕は美代子とは逆の方角に歩いていったのだ。 すぐに走って追いかけるべきだったのに追いかけなかった。
人違いと決めつけて、美代子から離婚を切り出されるまで、夫婦の関係を微塵も疑っていなかった。

大切な場所だった。 大切な瞬間でもあった。 今ならそれがよくわかる。
引き返せ、追いかけろ、まだ間に合う・・・・何度自分に命じても体は勝手に一年前の僕をなぞっていく。



地下の改札口へ下りる階段にさしかかったとき―――肩を後ろから、ぽんと叩かれた。

「なにしよるんじゃ、一雄」 嗄れた、低い声だった。
「美代子さん、行ってしまうど。 それでええんか」 嘘だろう―――と、僕はまた息を呑む。
「早うせえ。 仕事やらなんやら、どげんでもよかろうが」 振り向くと、父の顔が目の前にあった。

「・・・・・なんで?」
父は答える代わりに駅ビルの外に顎をしゃくった。
「ねえ・・・・・お父さん、なんで?」

いるはずのない人だ。 父は東京に来たことなど一度もなくて、いやその前に、なぜこんなに若いんだ―――?
年格好は僕と変わらない。 37,8歳あたり。 二十数年前の父が、今、ここに立っている。
「お父さんやら呼ばんでええ。 わしら、ここじゃ朋輩じゃけん。 五分と五分の付き合いじゃ。 おまえはカズで、わしは・・・・・そうじゃの、チュウさんでええわ」
父の親しい仲間は、名前の「忠雄」から、チュウさんと呼んでいた。
そう呼ばせるのが、父なりの、相手を自分と対等の男だと認めた証でもあった。

「いっぺん呼んでみいや」
困惑するだけの僕に、父は苛立たしげに「早うせいや」と言う。 昔から短気な人だった。
「カズ、早うせえ」 舌打ち交じりにうながされ、仕方なく「チュウさん」と呼んでみたが、うまく声が出ない。
「聞こえりゃせんぞ。 男じゃろうが、腹から声出してみいや」
「・・・・・チュウさん」 これも、か細く揺れる声になった。
「もういっぺんじゃ」 「チュウ、さん」 「気持ちがこもっとらんわい、アホウ」

「ほいでも、まあ・・・・息子と朋輩になるっちゃあ、おかしなもんじゃのう」
「ねえ、なんで? なんでここに来たわけ?」 「知るか、そげなこと」
「でもおかしいと思わない? お父さんは今63だよ? こんなに若いわけないじゃない」
「お父さんって呼ぶな、言うとろうが」 「だって・・・・・」 「行くど、ついてこい」


僕の足がふわりと動いた。 外に出た。 色をなくした雑踏に、父の背中だけ、くっきりと見える。
ついさっき僕の通ってきた道を引き返して、スクランブル交差点を渡った。 僕は父の少し後ろを歩く。
「なにぐずぐずしよるんな、早う来い」
ふるさとの言葉を大きな声で口にする。 すぐそばを歩いていた若い男がぎょっとして父から遠ざかる。
僕たちの姿は、僕たち以外の人にも見えているようだ。

父はいまの僕と同じ38歳の時に、金貸しの会社を興した。 あの頃の僕はいつも父の後ろ姿ばかり見ていた。
面と向かって話したことなど、ほとんどなかった。
父の言うことはいつでも正しかった。 強い人だった。 あの頃の父の体は大きかった。
いつも胸を張り、肩を持ち上げ、ズボンのポケットに両手をつっこんで歩いていた。
そんな父の歩き方が僕は嫌いだった。
世の中で正しいのは自分だけだ、強いのは自分しかいないと身振りで示しながら歩く父が、大嫌いだった。
だが、雑踏を行く父の後ろ姿は、記憶の中の姿とは微妙に違う。 こんなに小さかったのだろうか。
こんなに肩を落として歩いていただろうか。 父の背丈は僕の顎あたりまでしかなかった。

「お父さん」 「チュウさん、じゃ」
「・・・・・チュウさん」 「なんな?」
「美代子のこと・・・・全部知ってるの?」 「わしにわからんことがあるか、アホウ」
父は―――チュウさんは鼻を鳴らして短く笑い、「女房を寝取られるいうて、ほんまぶさいくな話じゃのう」
と、今度は肩を揺すり、声をあげて笑った。 その笑い方だけは昔とちっとも変わっていなかった。


青信号の点滅する横断歩道を渡った。 大通りから路地に入り、そこを抜けてさらに進む。
道を進むと、ホテルの看板が目につきはじめた。 こめかみを汗が伝い落ちた。 喉が渇く。
チュウさんは歩きながら煙草をスーツのポケットから取り出した。 銘柄はエコー。 安い煙草だ。
今はもう売っているのかどうかわからない。 
事業を興した父は成功してからも煙草は決して高い銘柄には変えなかった。

「ここじゃ」

チュウさんは一軒のホテルの前で立ち止まり、煙草の煙といっしょに言った。
古びたホテルだった。 休憩フリータイム3800円。 宿泊6000円。
看板に誇らしげに謳われている<冷暖房完備・全室TV付>が、場末のみすぼらしさを伝える。

こんなところ、なのか―――。
あいつは、こんなうらぶれたホテルで、男と―――。

「どげんする、カズ」 「・・・・・なにが?」
「部屋はわかっとるけん、踏み込むんなら早いとこ踏み込んじゃれや。 ひとの女房に何手ェ出しとるんなら、いうて」
「そんなことしたら、みっともないだろ。 美代子だって無理やり連れてこられたわけじゃないんだし」
チュウさんは何も答えない。 煙草の煙がしみるのか、目を少し細めただけだった。
「確かめたから、いいんだ。 ほんとに、もう、いいんだ」
ホテルの建物を見上げた。 この中のどこかに美代子はいる。 僕の知らない男に抱かれている。

どうして―――。

予兆など、なにもなかった。 我が家はどこにでもある、当たり前の家族だったはずだ。
平凡でおだやかな日々を続けていたはずだ。 僕は美代子を愛していて、美代子も僕を愛していて、
新婚時代のような熱く燃え上がるものではなくなっていても、いつまでも我が家の暮らしを温めてくれるものだと
信じていた。

「教えてよ、お父さん。 知ってるんだったら教えてよ。 美代子はなんでこんなところにいるんだ・・・・わからないんだよ、なにも・・・・・」 声が震えた。
「チュウさんじゃ言うたろうが」 「どっちでもいいだろ、そんなの」 「朋輩じゃ、わしら」
「・・・・チュウさんなら、どうする? やっぱりホテルの中に入る? 部屋を探して美代子のところに行って、それからどうする? 相手の男ってどんな奴? 美代子はどこでそいつと知り合ったの? なんで・・・・・わからないんだ、なにもかも・・・・・」
うつむいた。 父は弱い人が嫌いだった。 男が涙を見せるのは恥ずかしいことだと、いつも言っていた。
「カズが自分で決めることじゃ。 あと1時間ほどで出てくるで」 「美代子が?」
「おう。 そげんせんと、広樹が学校から帰ってくるけん」 「相手の男のこと、知ってるんでしょ」 「知らん」
昔からそうだった。 父はいつでも僕を試していた。 僕は黙って踵を返した。

「どこ行くんか」 「帰るんだよ」 「逃げるんか」
歩き出す。 立ち止まらず、振り向きもせず。 大通りに入って最初に見つけたレストランに入り、
ビールを中ジョッキで注文した。 「中生、お2つでよろしいですか?」 「1つだよ」
「でも・・・・」 ウエイトレスは僕の後ろに目をやった。
そういうことかよ、と僕はしかめっ面で指を2本立てた。
「まあ、とりあえずは酒じゃろうの」
チュウさんは背後から向かいの席に回って、おかしそうに笑った。


中ジョッキを一息で半分ほど空けると、ようやく、人心地がついた。
「酒が強いんじゃのう、カズ」 チュウさんは意外そうに言った。 「べつに、人並みだよ」
「ほいでも、いつじゃったかのう、正月に酒を飲んでひっくり返ったことがあったろうが」
「小学生の頃だろ、それ。 一年生か二年生のガキの頃だよ」
「カズが酒を飲むか・・・・どうもピンと来んのう」 「酒くらい飲むよ、もう大人なんだから」
「わしの知っとるカズは、中学校に入ったばあじゃけえ」
25年前―――頭の中でとっさに計算して、今の父の歳から引くと、チュウさんは38歳だった。

「・・・・・同い歳だ、僕と」
つぶやくと、チュウさんは照れくさそうに「わしは最初っから知っとったで」と言った。
「どういうこと?」 「ようわからん」
「そげなことより、のう、どげんするんか。 美代子さんのこと、このままでええんか」
「・・・・・お父さんには関係ないだろ」 「チュウさんじゃ、言うとろうが」
不意に、その顔が頼りなげになって、「ほいでも・・・・なしてカズが東京におるんな」と言う。
「わしの会社継いだんじゃないんか?」 全てを知ってるというわけではないのだろう。

25年前の春。 父は38歳で僕は中学一年生で、僕たちの仲はまだおかしくなっていなかった。
学校の連中に「サラ金」とあだ名を付けられたことを知ったのは、夏の初め。
秋にはもう僕は父の仕事を嫌いになっていて、やがて父そのものが嫌いになっていった。

「カズ、一つ教えてくれや。 わしはなんぼで死んだんな」 「あのさ、死んでなんかないよ」
「ほんまに生きとるんか」 「うん、生きてる」 「ほんまか、おい、還暦過ぎまで生きとるんか」
チュウさんはビールを美味そうに飲んだ。
確かにチュウさんはこれから先、25年間を生きることになる。
だが、63歳の父は、チュウさんが想像しているような姿ではない。
全身にチューブを差し込まれ、骨と皮だけになって、混濁した意識の中、ただ生きているというだけで・・・・
もうすぐ、その命も尽きる。 花火のような人生にはならない。 強いままでは死ねない。


「カズが東京におるいうことは、東京に支店でもかまえたか。 東京支社じゃったらこりゃあ大企業じゃあ」
チュウさんは上機嫌に笑い、ビールをさらに美味そうに飲んだ。
「カズ、おまえも早う飲め。 さっさと出て、嫁のことはもうよかろうが、会社を見せてくれ」
「・・・・東京に支店なんか、ない」 チュウさんはきょとんとして僕を見た。
「跡を継いでないんだ、僕は。 東京の大学に入って、そのまま東京で就職した。 おとうさんとはなんの関係もない小さな部品メーカーで今は営業をやってる。 美代子ともそこで知り合って結婚したんだけど、お父さんは結婚式に来てくれなかったんだよ」

チュウさんの顔は見る間にこわばり、険しい目つきで僕をにらんだ。

「でも跡継ぎはちゃんといるから。 智子のダンナだよ。 伸之っていう奴で京大の法学部を出て、今は専務だ。 伸之が経営陣に入ってくれたから、こんな不況でも会社がうまくいってるんだ」
「・・・・・嘘をつくな。 なして娘婿が跡継ぎになるんな、なして長男がそげん勝手なことしよるんな」
濁った、低い、腹の底から絞り出すような声だった。
「嘘じゃないよ。 お父さんの作った会社はうまくいってる。 でも、僕はいない」
「言うてええ冗談といけん冗談があるんど、世の中」 「ほんとのことだから」
「ほいたら、のう、訊くけど、なしてそげんぶさいくなことになったんな。 おう? カズは跡継ぎやろうが、こまい頃からそれは決まっとることやったん違うか?」

「逃げたんだよ、僕が」 「なしてや」
「お父さんの会社も、それから・・・・・お父さんのことも、嫌いだったから」 「アホか!」
チュウさんは拳でテーブルを叩いた。 店内に響き渡る音に数組の客が一斉に振り向いた。
店長がやってきて、「お願いしますよ。ここは静かに食事を楽しんでいただく店なんですから・・・・兄弟喧嘩なら、外でやってくださいよ」 と言った。
兄弟―――に見えるのだ、僕たちは。 兄弟で朋輩でどうしようもないくらいひび割れた親子なのだ。

「息子に裏切られたわけじゃの」 言い返したいことはあったが、黙って受け止めた。
「63の親父の代わりに、わしが言うちゃる。 カズ、おまえは親不孝者じゃ。 女房を寝取られるんも、その報いじゃ思うとけ」 チュウさんは出口に向かう。
「どこ行くんだよ」 「親不孝者と酒やら飲めるか」
勘定を済ませ、外にでた。 あたりを見回したが、チュウさんの姿はなかった。

腕時計を見た。チュウさんの言葉を信じるなら、美代子はまだあの古びたホテルで男と一緒にいる。
そろそろ出てくる。 ホテル街に引き返した。


美代子と結婚したのは24歳の時だった。 社会人になってまだ2年目。
世間一般の感覚では少し早い結婚となるだろう。 初任給に毛の生えた程度の給料をやりくりして、
結婚式の費用を工面し、新婚旅行で香港に出掛け、その旅先で授かったのが、一人息子の広樹だ。
狭いアパード暮らしが何年も続いた。 裕福ではなかったが、幸福ではあった。 そうだよな―――。

33歳の時、いま住んでいるマンションを買った。 小学2年の広樹はすぐ新しい街や学校に馴染んだ。
明るくて、少しのんきで、友達の多い男の子だ。
5年生の秋頃から「中学は私立に行きたい」と言い出した広樹は、塾の夏期講習に毎日通う。
意外とあいつは頑張る奴なんだな、と親バカ半分で関心していた。
夫婦で顔を見交わして、勉強中の広樹の邪魔をしないよう、声をひそめて笑い合う。
幸せだったのだ、本当に。 美代子は違ったのだろうか。

美代子が離婚を切り出したのは、今年の―――だから、「いま」の翌年の秋の初めだった。
広樹が学校を休みがちになったのと前後して、なんの前触れもなく離婚届を僕に見せたのだ。
「もう限界だから」と美代子は言った。
「これ以上あなたといたら、頭がおかしくなっちゃって、自殺しちゃうかもしれない」と涙を浮かべて言った。
ただ、もう僕と一緒に暮らしたくない―――いや、違う、正確には「暮らせない」と言ったのだ。
何日もかけて美代子は僕に離婚を求めた。 ひたすら懇願するだけで、理由は教えてくれなかった。
「落ち着けよ。 少し時間をおいて、冷静になってまた考えればいいんだから」 美代子も受け入れた。

だが、その頃から広樹は一日中閉じこもるようになり、たまに顔を出すと激しく暴れるようになった。
10月の半ばあたりから美代子は外出することが増えた。 僕が帰ってくる前に家を出る。
帰宅は深夜。 11月には朝まで帰らない日も何日か。


答えはここにあったんだな、と僕はホテルの玄関を見つめる。
橋本さんの言った、「あなたにとって大切なところ」の意味がやっとわかった。
僕はあの日―――「いま」、スクランブル交差点を引き返すべきだったのだ。
走って二人を追いかけて、呼び止めて、そうすればなにかが変わってくれただろうか―――?

塀の向こうで人影が動いた。男が先に一人で外に出た。 中年のサラリーマンだった。
腹の出た体型も、肩の線がくずれた背広も、地味なネクタイも、人妻と不倫をするような男のイメージからは程遠い。
ホテトルかアジア系の娼婦を買ったか、そんなところだろう。 男は左右を見渡し、女を手招いた。
女が出てきた。


不意打ち―――だった。
美代子の姿は、僕の目をすり抜けて、胸にじかに刺さった。


二人はホテルの前で、短い言葉を交わしただけで別れた。 密会の別れ際というふうには見えなかった。
僕はタイミングを計って路地から出て男を追う。 怒りも悔しさも嫉妬も湧いてこなかった。
ただ、むなしさだけがある。
男の後頭部は髪が薄くなって、歩き方もくたびれて、皺の寄ったズボンは何日もアイロンをあててないのだろう。

こんな男が美代子を抱いた。 美代子はこんな男に抱かれていた。
なぜ―――? それを考えると、もっとむなしくなってしまう。

呼び止めるなら、いまのうちだ。 だが、呼び止めて、なんになる? 土下座させたら気が済むのか。
足元に目を落とした。 帰ろう、と自分に言った。 回れ右だ。


逃げるんか―――。


低い声が聞こえた。 チュウさんが僕を追い越し、男の肩を掴んで胸倉をねじり上げる。

男は声を裏返した。 それが悲鳴に変わる前に男の頬を分厚い掌で張った。
右手で男の腹を殴りつけた。 1発、2発、3発目。 男の体は「く」の字に折れ曲がった。
「やめろよ、死んじゃうよ」 「大げさなこと言うな」 「あんたには関係ないだろ!」
背中を羽交い締めにするとチュウさんは男を離し、最後にもう一発右の拳を下からえぐってみぞおちに入れた。
チュウさんは僕を背負ったまま、倒れた男の頭を踏みつけた。

「のう、さっきの女とはどげな関係か言うてみいや」 「・・・・関係って、そういうんじゃないんです」
「アホか、わりゃ、行きずりの女と乳繰り合うた言うんかい。カバチも休み休みたれんと、ほんまにぶち殺されるど」
チュウさんは男を蹴りつける真似をした。 男は涙声で「でも、ほんとなんです」と返す。
「ひょっとしたら、テレクラかなにか、ですか」僕は言った。 男は痙攣したように何度もうなずいた。
「・・・・・・テレクラで知り合ったんですか。 いつ知り合ったんですか」
「さっきです。 電話がかかってきて新宿で会う事になって・・・・だから私名前もしらないし、何も知らないんです」

呆然としてなにも言えなかった。 気が付くと、僕はふらふらとした足取りで歩き出していた。
「カズ、どこ行くんな。 ちょっと待て、こら」
スクランブル交差点を渡って、電車に乗った。 遠くから僕を呼ぶチュウさんの声が聞こえていたが、それも消えた。


「いやあどうも、お待たせしやって」担当の佐藤部長がやってきた。 「助かるよ、永田さん、時間に几帳面だから」
僕は一年前と同じく、得意先のオフィスに来ていた。 だが一年前とそっくり同じではない。
佐藤部長が冗談をとばした。 まいっちゃいますねぇ、と頭を掻いて笑う。
ジョークと酒の好きだった佐藤部長が、秋の終わりに脳梗塞で倒れて半身不随になってしまうことも知っている。



夜10時前に帰宅した僕を、美代子はいつもどおりの笑顔で迎えた。

「今日、すごく暑かったでしょ。 今年最高の暑さで、都心で34度もあったんだって」
「外を歩いているとそんなものじゃなかったぞ」と言う。―――言ってしまう。
「お風呂どうする?」 「先に飯だな」 台本通りの台詞が出てくる。
鶏とピーマンの炒め物と、冷奴と焼きナスとサラダ。 何の変哲もない食卓だ。
だが、一年後の未来を知っている僕は、今夜は手間のかからないものばかりだな、と思う。

ダイニングとキッチンを行き来する美代子を、僕はじっと見つめる。
僕の妻でも広樹の母親でもなく、女なんだ―――と思う。 37歳の女がいる。
テレクラで知り合った行きずりの男に抱かれた女が、今、僕のために焼きナスの皮を剥いている。

「熱いっ!」 美代子がキッチンで短く叫び、すぐに水道の音が聞こえた。 「どうした?」
「うん・・・・指、ナスの皮が熱くて火傷しそうになっちゃった」

それからどうしたんだ―――1年前のおまえは。

1年前の僕は、テーブルの夕刊を見つけ、テレビ欄を見るために立ち止まったのだ。
それからどうすればいいんだ。 指先に息を吹きかけながら笑う美代子の背後を通って冷蔵庫を開けた。
「ニンニク、食うよ」
しゃべるのと同時に、嘘だろう? と叫びたくなった。 冷蔵庫にはいつもニンニクの醤油漬けが入っている。
食べるのは疲れがたまったと感じた朝と、それから―――。

美代子の真後ろにまわって、Tシャツの背中に透けるブラジャーのストラップを指でなぞった。
「やだもう。 ナスの皮、剥けないじゃない」 僕は笑いながら声にならないうめきを漏らす。
こんな日に、俺は美代子を抱こうとしたのか―――。

抱けるのか、おまえは、あの女を―――。
ビールを飲む。 みぞおちが痛くなる。 ニンニクをもう一つ、スプーンですくう。
抱けるんだな、おまえは―――。
パンツの中ではすでに堅く、熱くなっている。 何も知らないんだから、仕方ないよな―――。
狭いユニットバスの洗い場で、愚かで哀れな一年前の僕が、にやついた顔で股間を念入りに洗う。
なぜ訊かなかった―――。 新宿のスクランブル交差点で美代子らしい女性を見かけた、それだけでいいのに。
もちろん美代子はとぼけて誤魔化すだろうが、もしかしたらその一言で何かが―――全てが変わってくれたかもしれないのに。
何も知らない僕は鼻歌交じりに髪を洗う。 何も知らない僕は何も知らないから、笑える。


脱衣所で髪を乾かしていたら、広樹が入ってきた。 「お父さんごめん、ちょっと顔洗わせて」
「もう寝るのか」 「ううん、あと『予習シリーズ』を2ページやってから」
「12時くらいになっちゃうんじゃないか」 「大丈夫だよ、いまノッてるし」

中学受験のことなど考えてもいなかった去年の夏は「ぼく、お笑いタレントになるからね」と真顔で言っていた。
そんな広樹が驚く程一生懸命勉強している。 朝から夕方まで塾の夏期講習。
あれほど好きだったTVゲームにも見向きもせず、毎晩日付が変わる頃まで問題集を解く。
受験をしない同級生からの誘いをきっぱりと、時にはビクッとするほど強い口調で断る。
この努力が報われてほしいと祈って・・・・・僕はそれが結局報われなかったことも知っている。
広樹が最後に見せた笑顔は少し寂しそうだった。 今なら、わかる。
だが、1年前の僕は、広樹の笑顔の翳りを見逃した。

「いま」が広樹のピークだった。 秋からは成績は落ちていく。 模試を受ける度に偏差値が下がる。
本番の受験では、志望校を夏より2ランクも落とした。
それでも―――だめだった。 第一志望の学校も、第二志望の学校も、
そして次の週に三次にわたって入試のあった滑り止めの学校にさえ、受からなかった。

公立の第二中学に入学した広樹は、6年生の頃のようにおどけなくなった。 口数も減った。
僕と美代子は受験に落ちたのを引きずっているんだと思った。 何もわかっていなかったのだ。
広樹は2学期から学校に行きたがらなくなり、登校してもすぐに腹痛や頭痛で保健室に向かうようになった。
いじめの標的になっているとわかったときには、広樹はもう僕や美代子にも心を開かなくなっていた。
いじめの中心にいるのは小学校の頃に仲のよかった、受験勉強中、遊びの誘いを断り続けた連中だった。
いじめグループが謝罪をして、反省の言葉を並べた作文を持ってきても、広樹は学校には戻れなかった。
夜中に家で暴れるようになって、やがて壁を殴りつけていた拳は僕や美代子に向き始めたのだった。


「一戸建てに買い換えたいよね。 受験が終わったら、私も勤めに出てもいいし」
そうか、そんなことも美代子は言っていたのか。 美代子は我が家の外に出たがっていたのだ。
「何を言ってるんだ。 大学出ても就職できない奴がごろごろいるのに、37歳のおばさんに出来る仕事なんてそんなにあるわけないだろ」
「37なんて、まだオバサンじゃないわよ。 ちゃーんとお化粧していい服着ちゃえばビシッと決まるんだから」
「甘い甘い、いまどきの若い子なんて、もう骨格が違うんだぞ。 脚なんか、もう・・・・」
僕は、本当に愚かで間抜けな男だったのだ。


逃げ出したい。 助けてくれ、と叫びたい。


ナイトスタンドの明かりに僕を裏切った女の裸体が浮かび上がる。 僕は美代子の胸を揉む。
堅くとがってきた乳首を指でつまみ、撫でる。
美代子は、僕のものをそっと掌で包み込む。 昼間のあの男と比べているのか。
あの男のはどんなふうに猛っていたのか。 あいつは僕よりもうまく美代子の体を扱っていたのだろうか。
冴えない風体だったが、意外とああいう男のほうが女の悦ばせ方に長けているのかもしれない。
美代子はいつも僕にしてくれることを、あいつにもしたのか。 求められなくても、してやったのか。
あんな男に。 あんな男が。 あんな男なのに。 あんな男のほうが僕よりも。 なぜだ。 どこで負けた・・・・。

助けてくれ、助けてくれ、と心の中で叫びながら、赤ん坊のように乳首を吸い、獣のように四つん這いにさせる。
チュウさん―――。 あんた、いま、どこにいる。
美代子の尻に舌を這わせる僕の肩を後ろからつかんで、引き剥がし、ベッドから転げ落としてくれ。
頭がどうにかなりそうだ。
美代子が僕のものを口に含む。 僕は美代子の髪を指で梳く。
チュウさん、どうして姿を見せてくれないんだ。 どうしてたすけてくれないんだ。

美代子の脚を広げ、顔を埋める。 あの男を迎え入れた部分を、僕はいとおしく唇と舌で愛撫する。
美代子はタオルケットの縁を口に入れて、声が外に漏れないようにする。
新宿の古びたホテルを思い出す。 あのホテルではどうだった。 思い切り声をあげられたのか。

愛してる、と僕は言う。 私も、と美代子はタオルケットでふさがった口を動かす。
もうやめてくれ。 チュウさん、助けてくれ。

僕はゆっくりと美代子の中に入っていく。
やめろ。
美代子が僕の背中に手を回す。
やめろ。
僕は美代子に口づけをする。
やめてくれ、頼むから・・・・・。

美代子は自分のベッドに戻ると、すぐに寝入ってしまった。 どうなるんだ、これから。
このまま、僕は我が家の壊れていく日々をただ見つめるだけなのか―――。

美代子が寝返りをうって、寝顔がこっちを向いた。
僕は美代子に微笑みかける。

僕は泣く。

泣きつづける。

泣き疲れて、眠る。



続く・・・