今回はドラマ化されたこともある、こちらの作品を読んで見ましたよ車
家族がテーマの感動ストーリー。


「流星ワゴン」 重松清


間抜けで哀れな父親がいた。 5年前の話だ。

新聞の社会面に小さな記事が載っていた。



見出しは<初めての家族ドライブ暗転>―――信州の高原をドライブしていた3人家族のワゴン車が、
スピードの出しすぎでカーブを曲がりきれず、対向車線にはみ出してトラックを正面衝突した。
母親は一命をとりとめたものの、父親と息子は即死。
運転していた父親は一週間前に免許を取ったばっかりで、マイカーが納車された翌日の事故だったという。


普段の朝なら読んですぐに忘れるはずのささやかな悲劇が、妙に胸に残った。
最初は「何だよ、この親父」と声をあげて笑い、新聞を閉じてから少し悲しくなった。
事故にあった一家の家族構成と年齢は我が家とそっくり同じだった。


僕は33歳だった。 妻の美代子も同い歳。 一人息子の広樹は8歳、小学2年生。
我が家の黄金時代だった―――いまにして思う。 あの頃が人生のピークだったのかもしれない。


交通事故で亡くなった父親の名前は橋本義明さんという。 息子は健太くん。
橋本さんも健太くんも、事故を起こした5年前と同じ年格好で僕の前に現れた。 二人の世界では時が流れない。
僕たちはドライブをつづけたのだ。 何日間、と数えることのできない、奇妙なドライブだった。
橋本さんの運転するワゴンは滑るように夜の道路を駆けた。
「いまなら、あんな間抜けな事故、起こさないんですけどねえ」 少し悔しそうに橋本さんは言った。

ドライブの途中、橋本さんに訊いたことがある。 「どうして僕を選んだんですか?」
橋本さんは笑いながら「死にたがっていたからですよ、あなたが」 と答えた。
「わかるんだよね、僕らね、そういうのぜんぶ」 助手席に座った健太くんも嬉しそうに言った。


今夜、死んでしまいたい。


もしもあなたがそう思っているなら、あなたが住んでいる街の、最終電車が出たあとの駅前に佇んでみるといい。
暗がりの中に、赤ワインのような色をした古い型のオデッセイが停まっているのを見つけたら、
しばらく待っていてほしい。
橋本さん親子があなたのことを気に入れば―――それはどうやら健太くんに選択権があるようなのだが、
車は静かに動き出して、あなたの前で停まるだろう。
助手席の窓が開く。 顔を出した少年が、健太くんだ。
「遅かったね」 と健太くんは言うはずだ。 ドアロックが解除される。
「早く乗ってよ。 ずっと待ってたんだから」 健太くんは少し生意気な、しかし元気で明るい男の子だ。

あなたはドアを開ける。 自分の意志というより、なにかに吸い寄せられるようにして。
3列シートの2列目に座ってドアを閉めたら、ドライブが始まる。
行き先は尋ねないほうがいい。 訊いても無駄だ。
健太くんはいたずらっぽく笑うだけで何も答えないし、橋本さんは黙って車のスピードをぐんぐん上げていく。
やがて窓の外があかるくなる。
気がつけば、あなたは懐かしい場所―――あなたにとって大切な場所に立っている。


僕がそうだったように。




その夜、僕はひどく疲れていた。
死のう―――と決めるほどの気力もなく、酒のにおいがうっすらと漂う最終電車に揺られながら、
ぼうっとした頭で思った。

死んじゃってもいいかなあ、もう。

鼻の奥を鳴らして笑った。 窓に映る顔は心底つまらなそうだった。
羽田空港に着いたのは夜9時近かったが、浜松町の駅前で焼き鳥屋を探して寄った。
山手線で新宿駅まで出て、私鉄に乗り換える前に、また酒を、今度は売店のワンカップを飲んだ。
ほろ酔いの助けを借りて、さっきまでうたた寝をしていた。 時間にすれば10分足らずだが、深く眠れた。
あのまま目が覚めなければよかった。

電車は小さな駅にひとつずつ停まり、僕の街へと向かう。 各駅停車だとゆうに1時間半はかかる。
東京の西のはずれ。 車で数分も走れば神奈川県に入る、ニュータウンと呼ぶには規模の大きくない住宅街だ。
我が家まで急な坂を上って徒歩15分。 昼間の仕事でかろうじて残った体力と気力はここで尽きる。
マンションの玄関で「ただいま」を言う僕はいつも抜け殻だったのかもしれない。
家族の笑顔と、遅い夕食と、風呂とベッド。 欲しいのはそれだけで余計なものを背負いたくなかった。
「俺はどっちでもいいよ」 と美代子に数え切れないほど言った。

その報いが今・・・・・と思いかけて、やめようぜ、と薄く目をつぶる。
反省や後悔を始めればきりがないし、もうそんな時期は過ぎた。
なにを言っても、なにを考えても、どうにもならないし、どうにかしようという気も、いまはもう失せた。
夢も希望もない。

なーんかもう、疲れちゃってさあ、ぼく、もうヤなんだよね・・・・。

子どもみたいに心の中でつぶやいて、じゃあ死ねよ、うるせえなあ、とすごんだ声で返した。
多摩川の鉄橋を渡ると、そこを境に気温はぐんと下がって窓が白く曇ってくるだろう。 秋の終わりだ。
ふるさとの父親はたぶん年を越せないだろうと、今日、医者に言われた。


ふるさとに日帰りした。 羽田空港から飛行機で1時間半たらず。 「帰郷」と呼ぶにはあっけない旅だ。
空港からレンタカーで瀬戸内海に面したふるさとの町へ向かう時間のほうが長い。
この半年間、月に2,3度の割合で帰っている。
帰るたびに、父の体は縮んでいく。
夏の頃は母や付添婦さんの助けを借りてベッドに起き上がっていたが、今日は最初から最後まで横になったまま、
落ちくぼんだ目でぼんやりと天井を見つめていた。

告知はしていなくても、本人もさすがに勘づいているだろう、父はガンだ。
肺から始まって、膵臓から腎臓、肝臓へと転移して、脳も冒されつつある。
5月に入院したとき、すでにガンは末期の状態で、夏までもたないだろうと診断された。
だが、父は生きて夏を越した。 医者は父の生命力に驚いていた。


父は裸一貫から事業をおこし、成功させた。 工務店を振り出しに、いくつもの会社を持っていた。
その中でも僕の中学生時代に一番力を入れていたのは、金貸し―――サラ金だった。

事業はうまくいってた時期もあったし、なにをしても悪い方へ転がってしまう時期もあった。
バブルがはじけたあとはずっと下り坂だったが、妹の智子に言わせれば、「お兄ちゃんが跡を継がんことがはっきりしてから、お父ちゃん、がくーって老け込んでしもうたんよ」
本当かどうかは知らない。 父と二人で話したことなど、中学生になってからはほとんどなかった。

父は自分の後継者に娘婿―――智子の夫の伸之を据え、還暦を過ぎてからは少しずつ仕事をまかせてきた。
京都大学法学部出身で商社マンの経験もある伸之は優秀で父も伸之のことを信頼していた。
そんな伸之がいまは病室に出入り禁止になった。
ガンのせいなのか、薬の副作用なのか、夏頃から父は急に疑り深くなったのだ。
僕には父はなにも言わない。 見舞いを喜びもしない代わりに嫌がることもない。 僕も声をかけない。

父は、あとどれくらい生きるのだろう。 なぜ、生きるのだろう。
父が僕に自分から話しかけるのはたいがい、病室をひきあげる時だ。 今日もそうだった。
「仕事はがんばってやっとるんか」 しわがれた、細い声で言う。 「働き盛りじゃけえのう、しっかりやれえ」
そうだね、と僕も薄く笑いを返す。

「美代子さんと、広樹は、元気でやりよるんか」 「元気だよ」
「よろしゅう言うといてくれえ」 「うん・・・・わかった」
椅子から腰を浮かせると、父は母に「おい」と声をかけ、ベッド横の戸棚を目で示す。
これもいつものことだ。 夏までは自分で歩いて戸棚の抽斗を開けていた。 秋の半ばまでは指差すこともできた。
母は戸棚から社名入りの茶封筒を出した。
『丸忠コーポレーション』―――父の名前は忠雄、「忠」を丸で囲めば、社章になる。
封筒には「お車代」と表書きがしてある。 中に入っているのは1万円札が5枚。
僕はそれを黙って受け取る。 その後は妙にそそくさと別れの挨拶もそこそこに病室を出て行く。

父は訝しく思ってはいないのだろうか。 半年間、美代子も広樹も一度も見舞いに来ていない。
これからも―――葬儀にも顔を出さないだろう。


我が家は壊れた。
かけらを貼り合わせることもできないほど、粉々に砕けた。

そして、僕は父からの「お車代」がなければふるさとに帰ることすらできない。
もっと正直に言おう。 「お車代」が欲しくて、僕は足繁く帰郷しているのだ。
7月に職を失った。
中高年社員を対象としたリストラに、自分が中高年なんだという自覚もないうちに、ひっかかってしまった。
再就職先の目処はたっていない。 ハローワークに通いつめても最終面接まで漕ぎ着けた会社すら一つもない。



切り通しの底につくられた駅のホームに降り立つと、足元から這いのぼってくる寒さに身震いした。
改札を抜けた。 目の前にひと気のない駅前ロータリーが広がる。 もう、日付は月曜日に変わった。
明かりが煌々と灯っているのは、駅前通りに面したコンビニエンスストアだけだ。
ガラス張りの店内も閑散としている。 ウイスキーのポケット瓶とおにぎりを2つ買った。
無愛想な若い店員が金額を告げる。 ジャケットのポケットから「お車代」の封筒を出した。
「一万円で悪いけど・・・・」
返事はなかった。 そっけない仕草でレジにしまわれる一万円札を見ていると、胸がちくりと痛む。

袋を提げてロータリーに戻り、バス乗り場のベンチに座った。 ウイスキーを一口啜って、おにぎりをかじる。
いま、オヤジ狩りに遭ったら一発でアウトだな。 ふと思ったが別に怖いとは感じなかった。
それでもいいかあ、と晴れた夜空を見上げて、口の中のおにぎりを呑み込んだ。
来るなら来ればいい。 やるなら、やれ。 どうでもいい。 僕は本当に疲れきっていて、
夢も希望もなくしていて・・・・・・もう死んだっていいや。

ふーう、と息をつき、なにげなくロータリーに目をやった。
中央の植え込みの向こうに、車が一台停まっていた。
ワゴン―――ワインカラーのオデッセイ。
ヘッドライトは点いてないし、エンジンも消えている。 僕は見逃していたのだろうか。
いや、しかし、さっきはあの位置からバス乗り場が見渡せたはずなのだが・・・・・・。

怪訝に思っていると、オデッセイは静かに動き出した。
ひとが乗っていたのか?
さらに困惑しているうちに、オデッセイはバス乗り場の前まで来て、停まった。
助手席の窓が開く。 男の子が顔を出して、にこにこ笑いながら言った。

「遅かったね」

ドアロックを解除する音が、かすかに聞こえる。 「早く乗ってよ。 ずっと待ってたんだから」

それが、橋本さん親子との出会いだった。



車の中は暖かかった。 頬だけが火照り、足元が冷え冷えとするカーエアコンの暖気ではない。
もっと当たりがやわらかで、おだやかな温もりだった。

2列目のシートに座り、ドアを閉めると、オデッセイはゆっくりと動き出した。
エンジン音はほとんど―――まったく、聞こえない。 発進もなめらかだった。
我が家とは逆の道に、ハンドルを握る橋本さんはごくあたりまえのようにウインカーを出した。
考えがまとまらない。 今自分がなにをしているのか、どうしてこうなったのか。
ウイスキーとおにぎりはどこにいったのか、筋道を立てる前に言葉がばらばらになってしまう。

橋本さんは僕より少し若い、30代前半の年格好のひとだった。 痩せていて、髪が薄い。
頭のてっぺんの後ろ側の地肌は透けるというより、髪で覆われている部分の方が少ない。
健太くんは小学2,3年生というところだろうか。 スポーツ刈りの後ろだけかなり伸ばしていた。

エンジン音はあいかわらず聞こえない。 風を切る音もない。 父が乗っていたセルシオよりも静かだ。
最初の信号は青。 次の信号も青。 その次も、さらにその次も、信号は青だった。
前を走る車は見えない。 すれ違う車もない。
さすがにぞっとした。 酔ったあげく、ベンチで寝込んで夢でも見ているのだろうか。
シートから背中を浮かせたとき、助手席の健太くんが僕を振り向いた。

「夜のうちにね、遠くまで行かなきゃだめなんだ」 「・・・・はあ?」
「おじさん、どこまで行きたい?」
「田舎のお父さん、あと4,5日というところですね。 よく頑張ったんですが、いよいよ、です」
「あの・・・・・すみません、失礼ですが、同じマンションかなにかでしたっけ、ちょっと酔っ払ってるんで」
健太くんが笑った。 橋本さんも軽く肩をすくめた。

「おじさん、死にたいと思ったでしょ、さっき」 と健太くんが言うと、橋本さんが「違う違う」と打ち消した。
「死んでもいいと思ってたんだ。 そうですよね?」
「ほんとにどこかで・・・・」 「会ってません、初対面です」
「初対面なんだけど、おじさんは僕たちのこと全然知らないってわけじゃないんだよ」
「朝に知り合って夕方には忘れられちゃったんですけど」
「いつですか、それ?」 「5年前ですかね」
「どこでお目にかかったんですか」 「お宅のダイニングキッチン」
「違うよ、いっとう最初はトイレの中だったんだ」 健太くんが訂正。

頭がくらっとした。 背もたれに体を預けた。
しばらく話が途切れた。 沈黙の間もオデッセイは走り続ける。 窓の外は真っ暗な闇になっていた。
信号は青、青、青、青、青、青、青・・・・高速道路の照明のようにどこまでも。
橋本さんがまた口を開いた。 「初めてのドライブだったんです」

「私ね、もともと子供の頃から不器用だったんですよ。 自転車だって5年生になるまで乗れなかったし、スキーも中学生のときに学校で、スキー合宿っていうんですか、生まれて初めて滑って、その日のうちに転んで臑を骨折しちゃってね、なにをやらせてもだめなんです」
「僕の工作の宿題だってさあ、パパが手伝うと、よけい下手になっちゃうんだよね」
「なに言ってるんだ、味を出したんだよ、素朴な味」 「で、パパ、サランラップだってうまく切れないじゃん」
「うるさいなあ・・・ま、そういうわけでしてね。 車の運転なんて端っから自分が出来ると思ってなかったんですよ」
「ねえ、おじさん、おじさんは何歳で免許を取ったの?」
不意に話を振られて言葉に詰まったら、橋本さんが「19歳の時ですよね」と言った。
正解。 大学2年の夏休みだ。 でも、どうして―――?

「それでね、東京で暮らして就職先も銀行でしたから、車の免許なんて必要ないと思ってたんです。 いざとなれば女房が免許持ってますからね。 そんなぐあいでずっとやってきたんです」
なるほど、と僕はうなずいた。
「でもねえ・・・・・それじゃ、だめなんですよねえ」

父親―――という言葉を少し強い響きで口にして、続ける。
「父親なんですもん、私。 デパートに買い物くらいだったらいいですけど、遠出のドライブはね、やっぱり、父親がのんきに助手席に座ってたんじゃ格好つかないでしょう」
橋本さんの口調に迷いはなかった。
「がんばりましたよ。たまたま雑誌見てたらアウトドアの特集でしてね、それを見て決めたんです、私。息子と・・・・・健太と二人でドライブに行くぞ、女房抜きで、男同士、いろんな話をして・・・・」
「単純なんだよね」 健太くんが口を挟んだ。
「純粋なんだよ、なに言ってるんだ」 「ま、いいけどさ」
「でも・・・・やっぱり、単純なんですよね。 単純っていうか、不器用なんですよ、とにかく。 息子とうまくやっていきたくて、ほかに方法も見つからなくて、とにかくドライブだって」
「息子さんと仲いいじゃないですか」 と言ってみた。 だが橋本さんも健太くんもそれには応えなかった。

「自動車学校に通いました。 33歳にして、一念発起ってうやつです」
「すっごい時間とお金かかったんだよね。 仮免の試験、何回落ちたんだっけ」
「3回。 卒業検定が4回。 教習所の新記録でした」
「自動車学校の先生もね、もし卒業試験にあと1回落ちたら、いままでのお金全部返すから運転はあきらめたほうがいいってパパに言うつもりだったんだって。 けっこう良心的な学校だよね」
「それでも、5回目の卒業検定に受かって、幸か不幸か・・・・」
「不幸だよ」 健太くんはぴしゃりと言った。 橋本さんも、まあそうだな、とうなずいた。

「とにかく免許を取ったんですよ。 嬉しくってねえ。 鮫洲の試験場で免許証をもらってその足で車を買いに行ったんですよ」
「なにを買うか決めてたんですか?」
「僕もママも、ちっちゃな車のほうが運転しやすいよって言ったんだけどさ」
「オデッセイが欲しかったんです。 なんというか、すごく家族の車っていう感じがして。 デザインも気に入ったし、装備も充実してたし、ご存知ですか? 『オデッセイ』 の意味」

「冒険、でしたっけ」

「そう、長い冒険旅行。 古代ギリシアのの叙事詩に『オデュッセイア』というのがあるんですが、それがそもそもの語源なんです。 いいですよね、そういうの。 名前だけでもわくわくしちゃうでしょう」
「ウチのパパ、松本零士のコミックスぜんぶ持ってるんだよ」
「ジュール・ヴェルヌ」も好きだったんですよ。 『海底2万里』なんて何十回読み返したか」
「それでオデッセイをお買いになったんですか?」
「やっぱり最終的には名前でしたね。 買ったんです、オデッセイ。 36回のローン組んで、任意保険も大きいのに入って。 納車までのあいだ、子供みたいにどきどきしちゃって」

僕はあらためて車内を見回した。 オデッセイに乗るのは初めてだった。 
我が家の車はウイングロード。 だが、最近はほとんど乗っていない。

「金曜日の夕方に納車されて、土曜日の朝にドライブに出かけたんです」
「マンションの駐車場から出るときに、いきなり向かいの家の塀にこすりそうになったんだけどね」 健太くんが笑う。
「秋晴れの、いい天気でした。 絶好のドライブ日和って感じで」
健太くんは「子供を助手席に乗せるのって非常識だと思わなかったの?」と言ったが、その声はすり抜けていった。
広樹と最後にドライブに出かけたのはいつだっただろう。

僕の反応が鈍かったのが不満なのか、健太くんはもう一度言った。
「ふつう、子供は後ろの席だよね。 おじさんちもそうでしょ?」 「息子が小学生の頃はそうだったかな」
「それが常識だよね。 エアバッグついてても危ないんだよ。 だから僕最初に言ったんだ、 ママが2列目で僕が3列目に座ればいいんじゃないのって」
「3列目だと追突されたら危ないだろう。 2列に2人並ぶと窮屈だし」

「窮屈でも、死ぬよりましだよ」

一瞬、間が空いた。 いくら子供の冗談でもタチが悪いんじゃないかと思ったそのときだった。
「ほんとだよなあ」 と橋本さんはおかしそうに笑った。
「でしょう?」 と健太くんも、まいっちゃうよ、というふうに笑う。 そして橋本さんは笑顔のまま言った。
「やっちゃったんですよ、私」 「はあ?」
「事故です。 蓼科のほうのビーナスラインってあるでしょ、あそこを走っててつい景色に見とれちゃいましてね、カーブでセンターラインからはみ出して、トラックにドカーン、でした」
「サイテーだよね」
「息子に申し訳がたたなくってねえ、可哀想なことをしました」
「いや、あの・・・・・・でも、いまは、ほら、元気に・・・・・・」


「死んじゃいました」 さらりと言った。

「二人とも、即死」 健太くんの口調も軽かった。


「そういう交通事故があったの、あなたも覚えてるでしょ? 5年前ですよ。 間抜けな父親の哀れな交通事故」
思い出した―――と同時に、息が詰まり、唇がわなないた。
「日本中のひとに笑われましたよ」 と橋本さんは言った。
「僕は日本中の人に同情されたけどね。 人生これからだったのに」
「申し訳ないことしたと思ってます。 父親失格ですよね」
「パパはすごく後悔してて、僕はめっちゃ悔しくて、だからいつまでたっても成仏できないの」
「おかげで運転はすっかりうまくなりましたけどね・・・・さあ、もうちょっと急ぎましょうか」
「夜のうちに遠くまで行かなくちゃね」

沈黙の中、オデッセイは滑るように飛ぶように夜を駆けていく。 橋本さんも健太くんも黙り込んだ。
最初の驚きが消えると、あとは自分でも意外なほど冷静だった。 どうだっていいや、と醒めていた。
僕は死んでいるのかもしれない。 それでも、いい。 僕が死んだら、家族はどう思うだろう。
窓の外は深い闇だった。 ああ、俺はひとりぼっちなんだな、と思った。


父のことを思い出す。 父は強い人だった。 怖い人で、冷たい人でひとりぼっちのひとだった。
あのひとだったら、理不尽なリストラ人事を会社から突きつけられたらどうしただろう。
あのひとだったら、我が家から心の離れてしまった妻の背中にどんな言葉をかけるだろう。
あのひとだったら、笑わなくなった一人息子の肩をどんなふうに叩くだろう。
あのひとだったら、かつて憎んでいた父親が枯れ枝のように衰えていくのをどんな眼差しで見つめるだろう。

「泣いてるんですか?」 橋本さんが言った。 僕は黙っていた。
「ちょっと休憩しませんか。 外の風にあたりましょうよ」 「いま、どこなんですか?」
橋本さんは僕の質問には答えず、「40年近く生きてると、人間、色々ありますよね」と笑った。

「もうすぐ夜が明けますよ」

そんなに長い時間乗っていた―――?
訝しむ僕をよそに橋本さんは車から降りた。 車内に流れ込む風には潮のにおいが溶けていた。

懐かしい、ふるさとのにおいだった。


車は胸の高さほどの防波堤の前に停まっていた。
瀬戸内海―――間違いない。 ここは、僕のふるさとの海だ。
橋本さんは防波堤の上にのぼり、気持ちよさそうに伸びをした。 「いいところですねえ、のんびりしてて」
僕は車の横に立ち尽くしたまま、海を見つめる。
一番手前の大きな島とこちら側とに橋が架かっている。 
5,6年前に開通した時は税金の無駄遣いだと散々批判された有料道路の通る橋だ。
僕たちがいる場所は父が入院している病院の建つ丘の真下だった。

「いま、お父さん、ひどく苦しまれてますよ。 意識も混濁してきて、鎮静剤を打って・・・・」
「わかるんですか、そういうの」 「ええ、大体はね」 「・・・・・まいっちゃうな」
助手席の中を覗き込むと、健太くんは口を半開きにして、眠っていた。
「やっぱり眠るんですね」 「なにがですか?」 「いや、だから、健太くん・・・・」
「寝てるんじゃなくて、死んでるんですけどね」 笑っていいのか、よくわからない。
「でもこの2、3年ですよ、健太がぐっすり寝てくれるようになったのって。 寝てくれるようになってからもしばらくのうちは大変でした。 うとうとすると、すぐにうなされてしまいには絶叫するんですよ。 事故の瞬間のこと、あいつ見てますからね。 全部」

僕は黙って橋本さんの隣に座った。 橋本さんは海を眺めていた。 寂しそうな横顔だった。

「でもね、もっと悲しくなるときがあるんですよ。 健太が寝言を言うんですよね、ママ、ママって」
「奥さんは、いまは・・・・」 「わかりません」 「見えないんですか」
「この世に未練の残りそうなものはだめなんですよ。 これでなかなか厳しくってね、思い通りにはならないんです」
「一つ教えてもらえますか」 「ええ、どうぞ」

「僕は、もう死んでるんですか?」 答えは返ってこなかった。
「死んでるんですよね? いいんです、もう覚悟してますから。 本当のこと教えてください」
少し間を置いて、「どっちがいいんですか?」 と逆に訊かれた。
「そりゃあ、まあ、死んでるよりは・・・・」 「生きてる方がいい?」
「じゃあ生きてるんですよ」 と言われた。 そっけない、突き放すような口調だった。


どのくらい沈黙がつづいただろう。 あたりの空気が少しずつ重くなってきた。

「私も健太も、死にたくなかった」
橋本さんは海を見つめたまま、つぶやくように、噛みしめるように言った。
「あなたはさっき、どうして、生きているほうがいいに決まってるだろう、と答えなかったんですか? そんなこと訊いた私のほうが恥ずかしくなるくらい、きっぱりと答えてくれなかったんですか?」

「もう嫌だったんですよ、家に帰るのも、明日になるのも。 先に進みたくなかった・・・・・どこにも行きたくなかったし、 なにかをする気にもならなかったし・・・・」
「わかりますよ」
「絶望してるわけじゃないんです。 でも、この先に、希望がないっていうか、なんのためにこれから何十年も生きていくのかわからなくなったっていうか。 情けないけど、どうしようもないんです」
「わかりますよ、すごく」
「・・・・・・わかったふりしないでくれませんか」

橋本さんの家族は幸せだったはずだ。 事故の直前までの一家の幸せが僕の胸に滲みる。
うらやましい、と思った。 家族で交通事故―――我が家は、もうそれすらできない。
家族でドライブに出かけた最後はいつだったろう。
「5年前はね、ウチの息子も・・・・広樹も、健太くんみたいだったんですよ。 お父さんお父さんって、勉強はそこそこだったけど、明るくて元気のいい子でね・・・・・」
橋本さんは「違うでしょう」と笑い返した。 「5年前じゃなくて、この春までは、でしょう?」

「わかったふりしないでほしいんですよ、とにかく」 と吐き捨てる。
「でも、知ってますから、おたくの事情は」 「どこまで知ってるんですか。 全部ですか?」
「息子さん、ずっと学校に行ってないですよね」 「・・・・・あとは」
「あなたや奥さんに、暴力も」 淡々とした口調だった。
「じゃあ、女房のことも、知ってるんですね」 「ええ。離婚届のしまってある場所も」
すごいな、とため息をついた。 薄笑いが浮かぶ。
「それから、奥さんが・・・・」 「もういいです」とさえぎった。 聞きたくなかった。

「どうですか、橋本さんだって、家族がこんなになっちゃったら、死んでもいいっていう気持ちになるでしょ、なりませんか?」
橋本さんは黙っていた。
「教えてください、お願いします。 僕は死んでるんですか? まだ生きて夢を見てるんですか?」
今度もまた答えてもらえなかった。 橋本さんはさて、と立ち上がる。
「そろそろ行きましょうか」 「・・・・・どこにですか」
「私にもわかりません。 でも夜が明けたときには、あなたにとって大切などこかに着いてるはずです」


オデッセイは再び走り出した。 僕は涙の名残で火照った瞼をゆっくりと上下させて窓の外の深い闇を見つめる。
「朝になったら私たちは消えます」 橋本さんが言った。
「・・・・そうですか」 「でも、また夜に会えますから」
僕にとって大切な場所―――どこだ? そこは。

「ねえパパ、そろそろなんじゃない?」 「ああ、そろそろだ」 車のスピードが一気に上がる。

「じゃあ、おじさん、夜になったらまたね」


健太くんの声が聞こえるのと同時に、目のくらむようなまばゆい光が車を包み込んだ。



続く・・・