曾根の殺害が同級生の石岡拓也にバレてしまう。 拓也に恐喝され、絶体絶命の秀一。
秀一はついに第2の殺人を計画する。
私書箱の鍵
を絵の具のチューブの中に隠しました。
「クリムソン・レーキ」と「バーミリオン」は家にあったんですが、「オキサイド・オブ・クロミウム」は見つらず
これの後ろ側の折りたたんでる部分を開けて、ラップにくるんだ鍵を隠し・・・・・
紀子の持っている絵の具とすり替えたってことですね

「青の炎」 貴志祐介
『ハート・トゥー・ハート』には、珍しく、午前2時を過ぎても客がいた。 しかも、3人も。
一人目の、女は店内を30分以上店内をさまよっていた。
ようやくレジに持ってきたのは猫缶が一つとパンティストッキングだった。
2人目、太った男は夜食の上に女児が水着姿でAV女優のようなポーズを決めている雑誌が乗せられていた。
最後までいた痩せた男は漫画をずっと立ち読みしていたが、突然風のように出て行った。
『凪』に突入したようだった。
予定通り3時が過ぎるまでは、いつも通り掃除をしたり商品のチェックをしたりして時間を潰した。
常に監視カメラを意識しつつ、絶対に目線は送らない。 あくまでも自然にいつも通りの動きをする・・・・。
さりげなく腕時計を見る。 ちょうど、3時5分になったところだった。
一気に血圧が上昇する。 拓也もすでに近くでスタンバイしているはずだ。
あとは自分の判断だった。 いつでもスタートの号砲を鳴らすことができる。
どうする。
秀一は雑誌を綺麗に整頓しはじめた。 これ以上、時間をおくのは得策ではない。
今は絶好の瞬間なのだ。
秀一は「よし!」とつぶやいた。 CCTVカメラには音声は記録されない。
外に向けて並べてある、赤っぽい表紙の婦人雑誌を引っ込めた。
代わりにブルーが基調になった『横浜ウォーカー』を選んで手に取り、置こうとする。
その刹那、狂おしいような思いにとらわれた。
これを置くということは、1,2分後には計画通り、拓也を殺すということだ。
本気で、やるつもりなのか。
馬鹿なことはやめろ。
今なら、まだ、中止できる。
手を取り合って真っ暗な谷戸を歩いた記憶が蘇った。 秀一は目をつぶって強く息を吐き出した。
馬鹿馬鹿しい。 ここまで来て、今更、引き返すことはできない。
そのとき、瞼の裏に、静かに燃える青い炎を見たような感じがした。
秀一は目を開けると『横浜ウォーカー』を合図の位置に置いた。 そしてカウンターの後ろに戻る。
まだ来ない。 いらいらした。 だが、合図をしてからまだ1分あまりしか経っていないことを思い出す。
焦るな。 落ち着いて。 イメージ通りにやればいい。
自動ドアの向こうに、ヘルメットをかぶった姿が見えた。
来た。
身構えるな。 普通にしてろ。 きっかけは拓也にまかせよう。
自動ドアが開く。 革のジャケット。 黒いTシャツに、ジーンズ姿。
「いらっしゃいませ」
拓也はヘルメットを脱がずにまっすぐ大股でこちらにやってきた。
「金を出せ!」 拓也がカウンターを飛び越えて、中に入り、ナイフを突きつけた。
打ち合わせ通り、左手でこちらの肩口をつかみ、ナイフを喉元に押し当ててきた。
「ちょっと揉み合おう・・・・」 秀一は口を動かさず、拓也の耳元で囁いた。
拓也はすっかりその気になり、ダミーナイフを突きつけて、ぐいぐいとこちらの体を押してくる。
よし、今だ。
秀一は両手で拓也の両肩をしっかりと掴み、カウンターの下で、膝の下あたりに足払いをかける。
「おい、馬鹿、やめ・・・・・!」
秀一はそのまま相手を引き込んで仰向けに倒れた。 背中を強く打ち、一瞬、息が詰まる。
二人はカメラの視界から消えた。
「なん・・・・・これ、打ち合わせにねえだろ?」
秀一は左腕を拓也の背中に回し、ジャケットを掴んだ。 同時に右手を伸ばしてゴミ箱の後ろに隠しておいたマークⅡを手にする。 拓也はまだ状況が飲み込めず、じたばたと足掻いていた。
マークⅡのブレードを横に寝かせて、黒いTシャツを着た左胸にあてがう。 第四肋骨と第五肋骨の間。
何度も頭の中でリハーサルしたとおりの手順だった。
背筋力で体を弓なりに反らしながら、力いっぱい下から突き上げた。
鋭い切っ先が難なく薄い布と肉を突き破る。 両刃のダガーはほとんど抵抗なく拓也の体内に入っていった。
ブレードは根本まで完全に埋没し、ヒルトと拳が体にぶつかったところで、ようやく止まった。
悲鳴とともに、秀一が左腕で抱えてる拓也の体が、激しく痙攣する。
傷口を塞いでいたナイフがぶれたとたん、大量の血液が噴出してきた。
早く、ナイフを離さなくてはならない。 秀一は右手を開こうとしたが、緊張のあまりか、
鮮血で濡れそぼつ5本の指は、柄に貼り付いてしまったようだった。
左手を使い、親指から順番に、一本ずつ引き剥がしていった。
「お・・・・・お前」
頭を下げた拍子にヘルメットが転げ落ちる。 苦痛に歪んだ、拓也の顔が顕れた。
「なんで・・・・?」
拓也は泣くような声で、辛うじてそれだけ言った。 それからか細い悲鳴が途切れ、ぐったりとなる。
失血のショックから意識を失ったようだ。
秀一は拓也の手からダミーナイフを外し、左胸に刺さった、ナイフの柄に導いて握らせる。
覆いかぶさった拓也の体を静かに押しのけると、仰向けに床に転がった。
薄い胸からは、にょっきりと、マークⅡの柄が生えている。 その下からは依然として温かい血が湧出していた。
床は文字通り、血の海になっていた。
カメラに見えないようにダミーナイフをズボンに刺した。 ふらつく足で立ち上がる。
手足が震えているのは、決して、演技ではなかった。 顔色もたぶん真っ青に違いない。
床に倒れている拓也を一瞥すると、戦慄が走った。
顔をそむけ、よろめく足取りで事務室に向かう。
ドアを開けて、ようやくCCTVカメラの監視下から逃れる。
これから先は、さらに迅速に事を運ばなければならなかった。
まずは流しで両手を洗った。
血だけでなく、マークⅡに指紋を付けない為に、指と掌に塗っておいた糊もすっかり落とさなければならない。
流れ落ちる水が、真っ赤に染まる。
ダミーナイフも水をかけて血痕を洗い流し、タオルで拭く。
それを用意しておいたクッション封筒に入れ、厳重に封かんした。
べっとりと血のついたスニーカーを脱ぐと、裏口からコンビニを出る。
誰もいないことを確かめ、郵便ポストまで走った。 梅雨の晴れ間の黄色い月が薄い雲の間から見下ろしていた。
封筒を投函すると、駆け足で戻る。 時間にすれば事務室に戻ってから1分ちょっとしか要していないだろう。
事務室の電話に手をかける。 大きく深呼吸すると、まだ震えが止まらない指で110をプッシュする。
「はい。110番」
突然デジャヴのような感覚に襲われた。 前にもこんなことがあったような・・・・・、
何だ、実際に電話してるではないか。 曾根の死体を『発見』した時だ。 あの時は119番だったが。
「もしもし? もしもし?」 「あの・・・・・もしもし」 「はい。110番」
「こちら、『ハート・トゥー・ハート』の鵠沼店なんですけど」 「は? ハート?」
知らないらしい。 こらがセブンイレブンやローソンだったら説明の必要はないだろう。
「コンビニです。 藤沢市、鵠沼にある。 あの、たった今、強盗が入って・・・・・」
「はい。 それで? 強盗は、どうしました?」
「あの、死んだみたいで」 「え? 死んだ?」 相手は信じられないように繰り返した。
「ナイフを持ってて、倒れた時に刺さったみたいで」
秀一はあらかじめ決めておいた通りの内容を説明すると、電話を切った。
受話器にはうっすら赤い指紋がついている。 もう一度丁寧に手を洗った。 胃液が逆流して吐いてしまう。
事務室の電灯を消し、暗闇の中で待った。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。 サイレンが大きくなるにつれ、動悸は狂おしいまでに早くなり
掌や背中には嫌な汗がべっとりと滲み出していた。
・・・・・早く、終わらないかな。
これから警察の事情聴取が待っていることを考えると、ため息が出そうだった。
自動ドアが開いて、警官たちが店内になだれこんできたようだ。
秀一は神妙な表情をして、パイプ椅子に座っていた。
そこは藤沢南署にある刑事課の大部屋だった。 事件の直後だった。
「いや、待たせたね。 ごめん、ごめん」 山本警部補が両手にコーヒーを持って戻ってきた。
「大変だったね。 それにしても、短い間に、二度目だね。 君と、こうして話をするのは」 「はあ・・・・」
「前回は君の昔のお父さん。 そして、今回は同級生なわけだ」 「この前と、今度のことは・・・・」
「ああ、もちろん状況は全然違うんだけどね。 犯人が石岡拓也だとわかったのはいつかな?」
「それは・・・・ヘルメットが脱げた時だと思います」 「そうか」
その後も、山本警部補は拓也について、秀一と拓也との関係について細かく質問した。
「正直に言うとね、君と石岡君が知り合い、それも同級生だということが、上の方じゃ相当引っかかっているみたいなんだよ」
「引っかかってる?」
「偶然にしちゃ、できすぎてるからね。 他にも納得のいかない点があるんだ」
山本警部補はタバコに火をつけた。
「僕は強行犯っていってね、強盗を捕まえるのがいわば本職何だが・・・・・コンビニ強盗の手口も色々見てきてる。 凶器はほとんどの場合、刃物だ。 それもできるだけ見栄えのする派手な方が好まれる。 若い犯人にはサバイバルナイフが人気があるようだ」
山本警部補は、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
「だが、今回は両刃のダガーナイフだ。 それも悪名高い、ガーバーのマークⅡというヤツだ。
なぜ、わざわざこのナイフを選んだのか・・・・・?」
「どういうことですか?」
「数年前、若い男が拳銃を奪おうとして、警官を刺殺した事件があった。 そのとき犯人が使ったのがこのナイフだった。 ガーバーのマークⅡというのは、人を脅すのではなく、確実に刺し殺すためのナイフなんだよ」
山本警部補は灰皿に灰を落とした。
「ある程度ナイフの知識があれば知っているはずだ。 ああやって首筋に当てて脅すんだったら両刃はかえって使いづらい。 簡単に皮膚が切れ、血が流れる。 脅されるほうもパニックに陥りやすい」
「・・・・・それは、つまり、石岡が、最初から、僕を殺そうとしていたということですか?」
「その可能性も捨てきれないな」 「石岡君が僕を殺そうとするなんて考えられません」
「他にもいくつか謎がある。 例えば持ち運びに関してだが、あの手のナイフには鞘がついている。ところが石岡拓也君の遺体はどこにもナイフの鞘を身につけていなかった」
秀一は舌打ちしたくなった。 拓也は言いつけを破って、ダミーナイフを鞘にいれてこなかったらしい。
「結局どういうことになるんですか?」 「まだわからない。 だが、それに関連してもう一つ謎がある」
「石岡くんの遺体からは凶器となったナイフの鞘は見つからなかったが、尻のポケットから違うものが出てきた」
「・・・・・何ですか」 「別のナイフだよ」
山本警部補は机の引き出しから、透明のビニール袋に入った折り畳みナイフを取り出した。
はっとした。学校に来たとき、脅しのために使ったナイフだ。
「コンビニを襲うときに、2本もナイフを持ってくるっていうのは変だと思わないか?」
「さあ。よく、わかりません。 あいつが、何を考えてたのか・・・・」 「まあ、それはそうだろうな」
この日の事情聴取は終わった。 大部屋を出たところで、母と神崎店長が近づいてきた。
ほっと気が緩んだとたん、自分でも意外だったが、目から涙がこぼれ落ちた。 さらに、2粒、3粒・・・。
母は泣いていた。 秀一の頭をぎゅっと抱きしめる。 言葉が出ないらしかった。 しきりに頷いている。
秀一は自分の涙を山本警部補が見たかどうか、考えていた。
心身ともに深く疲労しているはずなのに、熟睡モードに入ることができない。
うつらうつらしながら、短い周期で、浅い微睡みと覚醒とを繰り返していた。
第九章 豪雨
山本警部補は 目をしばたたいた。 かなり憔悴しているようだ。
「昨晩、というか今朝はよく眠れたかな?」 そういう本人が一睡もしていないような印象があった。
「いいえ。 あまり、ぐっすりとは」 昨晩は『スティンガー』の実行直後で異様な興奮状態にあった。
「あれから、店の防犯カメラのテープを何十回も見たよ。 おかげで目がしょぼしょぼして、かなわん」
一緒に見て欲しいと言い、山本警部補はビデオデッキの再生ボタンを押した。
拓也が入ってきて秀一のところへ向かってきたところで、一時停止ボタンが押された。
「彼は自動ドアが開くとわき目もふらずに君の方へ来ている。 普通はドアが開いたところでいったん立ち止まって、他に客がいないか見回すもんなんだがね」
秀一は唇を舐めた。
「あの時間、お客さんがいないことを前もって知ってたんじゃないでしょうか?」
「ほう? あの時間帯は、いつも客がいないの?」 「ええ・・・・・いないことが多いです」
「そのためには何度か来る必要があるね? それとも従業員と話して小耳に挟んだりすれば、別だが」
更にテープを再生し、一時停止した。
「ここなんだけどね。 僕の目にはどうしても、石岡君が君の喉にナイフを押し当ててるように見えるんだが」
「確かにそういうふうに見えますね」 「でも実際には当たってなかったんだ?」
「たぶん、接触はしてなかったんだと思います」 「はっきりとは覚えてない?」
「だって、もし、押し当てられてれば、切り傷くらい残ってるはずですから」
「ほう。 どうして、そう思う?」 「あのナイフを見れば・・・・・」
そこまで言って、秀一は危険に気づいた。
「山本さんが昨晩僕に言ったんですよ。 あれは両刃のナイフだから喉に落ちつけて脅迫するには向かないって」
「うん。たしかに言った。 よく覚えてるね」 山本警部補はうなずくと、再び再生ボタンを押した。
秀一が拓也の両肩をつかんだ。 一時停止。
「ここで、君は両手で石岡君の肩を持っている。 普通、喉元にナイフを突きつけられたら、そっちが気になるもんだよ。 ナイフと喉の間に手を持ってくるか、ナイフを持った相手の手を掴もうとする。 よくこんな大胆なことができたね?」
「それは全然記憶にありません。 ナイフを突きつけてたことも意識してなかったのかもしれません」
「そんなことがあるかなあ? 相手はその前にはっきりとナイフを見せてるんだけどね・・・・」
山本警部補は再生ボタンを押し、すぐにまた一時停止をかけた。
「さて、ここだ」 揉み合っている二人がバランスを崩しかけたところだった。
「君は柔道の経験はある?」 「ええ。 中学校のとき柔道部にいました。 「段位は?」 「初段です」
「僕はこう見えても三段を持ってる。 大学でも柔道部だった。 今でも時々道場で汗を流してるよ」
「はあ」 動悸がだんだん激しくなってきた。
「ここの部分を見て欲しいんだが」 山本警部補は画面を指さした。
秀一の体は後ろに反り、やや半身の姿勢になって右脚一本で踏ん張ろうとしている。
尻が捻れ、左脚は浮いているようだ。 しかし腿から先の部分は画面からは外れていた。
「僕には、君の左足が石岡君の右脚を、外から内に払っているように見える」 「えっ?」
「でも、足なんか全然映ってませんよ」
「うん。 たしかに肝心の場所は見えない。 だが、このとき君が取っているのは、支えつり込み足の大勢じゃないかな? 上体を捻りながら、左の足で相手の右脚を刈る。 そして・・・・・そのまま、真後ろに倒れながら相手を引き込んでいるように見えるんだ」
「冗談はやめてください。 そんなこと、できるわけがないでしょう!」 「できない?」
「だって、僕は、あのとき、喉元にナイフを突きつけられてたんですよ? それなのに引き込み技なんか、危なくてかけられるわけがないじゃないですか?」
「君はたった今、ナイフのことは意識がなかったって、言ったと思うけど」 「それは・・・・」
「そうかもしれません。細かいことは覚えてないので。 けど真後ろに倒れて寝技に持ち込むなんておかしいです」
「君が後ろに倒れたのは偶然だということ?」
「ええ。 何かに躓いたか、足が滑ったのか・・・・突然のことで、足下も定まらない状態でしたから」
「そうかな。 君の動作を見ると、落ち着いているように思えるんだが」
まあいい、と言い映像の続きを見た。
二人とも画面から姿が消えていた。 だが、よく見ると、拓也のスニーカーだけがまだ映っていた。
拓也の足はもがくように、画面から出たり引っ込んだりしている。
秀一は心臓を鷲掴みにされているような気分だった。 脂汗が流れ、眩暈がする。
掌に指の爪が食い込んだ。 じっとりとかいた汗をチノパンツの腿の部分で拭う。
山本警部補の視線が、じっと自分に注がれているのがわかる。
拓也の足は、突然、跳ねるように持ち上がった。 それから床に落ち、2,3度痙攣するような動作の後、
ぴくりとも動かなかった。
「ここだ。 君も今見て、変だと思っただろう?」
「・・・・さあ。 どういうことですか?」
「ナイフが石岡君の胸に刺さったのは、てっきり、二人が重なって倒れた瞬間だとばかり思っていた。
ところが、この映像を見ると、その前提が少々怪しくなってくる」
秀一は、無言だった。
「倒れてからの石岡君の足の動きには、断末魔の苦しみを思わせるようなところはない。 単にもがいているだけのようだ。 ところがその数秒後、突然激しい動きを見せると、ずっと弱々しくなり、そのまま終焉を迎えている」
「どういうことですか? 僕が石岡からナイフを奪って刺し殺したとでも・・・・・?」
「かりにそうだとしても、たぶん、正当防衛になる」
「冗談じゃないですよ。 僕は絶対にそんなことはしていません。 わずか数秒の間に相手がしっかり握っているナイフを奪い取り、逆に刺殺するなんて芸当ができますか?」
「君の言うとおりだ。 ただ、どうにも腑に落ちないことが多かったんでね。 実はそのあたりを君が説明してくれるんじゃないかと、ひそかに期待してたんだよ。 決して君に対して何か疑いを抱いていたわけじゃない」
家に帰り着くと、秀一は大きく息を吐いて平静な態度を取り戻そうとした。
警察も聞くべきことはひとと聞いたはずだ。 向こうは真相にきづいてすらいないのだ。 わかるわけがない。
すでに九分九厘、勝ちを手中にしているのだ。 あとは軽挙妄動さえ慎めば何も心配することはない。
友子と遥香が出迎えてくれた。 遥香は涙ぐんでいた。 家に上がると、妹の頭を撫でてくしゃくしゃにしてやった。
「お客さんが待ってるわよ」 「客? 僕に?」 「ええ。とっても可愛い人」 遥香は不機嫌そうに顔を背けた。
応接間に行くと、そこには紀子が鯱張って座っていた。 「・・・・櫛森くん」
早くも事件のことを聞きつけて来たのだった。 友子がティーセットを運んできた。
「あの、櫛森くん? すごくショックだったでしょうね。 気持ちはよくわかるわ」
「わかるわけないだろう?」 秀一は冷ややかな調子で答えた。
「同じ経験をしたことがあるなら、別だけど」 「それは・・・・・もちろん、ないわ」
「想像するだけ・・・・。だから、少しでも櫛森くんも気持ちが軽くなるようにできるんだったら、わたし、どんなことでも」
紀子は赤面し、言葉を中断した。 母親と妹の前で口にするには恥ずかしすぎる台詞だと気づいたんだろう。
「じゃあ、一つ、頼みがある」 秀一は紅茶を一口飲んで、平板な口調で言った。
「うん! 何でも言って?」 紀子は、目を輝かせて、身を乗り出す。
「帰ってくれないか」
「え?」
しばらく、言われた意味が理解できないようだった。
「疲れてるんだ。 昨日はほとんど眠ってないし、さっきまで警察にいたんだ。 そっとしといてほしいんだけどな」
「あ。ごめんなさい。わたし・・・・・」 紀子はしょんぼりしてしまった。
「秀一。 せっかく来てくださったのに、そんな言い方」
「いいえ。 わたしが、無神経だったんです。 ごめんなさい。 帰ります・・・・」 紀子はぺこりとお辞儀した。
秀一はカップの中に視線をやったまま、身じろぎもしなかった。
やがて、玄関のドアがそっと閉められる音がした。
秀一は応接間を出てガレージに行き、101を取ってくると自分の部屋に行った。
ベッドに仰向けに倒れ込んだ。 天井がいつもより遠くに感じられる。 体の奥底から疲労が滲み出てきた。
曾根を『強制終了』した直後は取り返しのつかないことをしたという恐怖を感じた。
拓哉をも殺害した今、強烈に胸に迫っているのは、心に空洞が開いたような底知れぬ喪失感と虚無感だった。
秀一は101をラッパ飲みした。 食道が灼けつくような刺激に噎せて咳き込んだ。
麻酔が効くように、ゆっくりと頭の中が朦朧となり、やがてすべてが暗転していった。
続く・・・
秀一はついに第2の殺人を計画する。
私書箱の鍵

「クリムソン・レーキ」と「バーミリオン」は家にあったんですが、「オキサイド・オブ・クロミウム」は見つらず

これの後ろ側の折りたたんでる部分を開けて、ラップにくるんだ鍵を隠し・・・・・
紀子の持っている絵の具とすり替えたってことですね


「青の炎」 貴志祐介
『ハート・トゥー・ハート』には、珍しく、午前2時を過ぎても客がいた。 しかも、3人も。
一人目の、女は店内を30分以上店内をさまよっていた。
ようやくレジに持ってきたのは猫缶が一つとパンティストッキングだった。
2人目、太った男は夜食の上に女児が水着姿でAV女優のようなポーズを決めている雑誌が乗せられていた。
最後までいた痩せた男は漫画をずっと立ち読みしていたが、突然風のように出て行った。
『凪』に突入したようだった。
予定通り3時が過ぎるまでは、いつも通り掃除をしたり商品のチェックをしたりして時間を潰した。
常に監視カメラを意識しつつ、絶対に目線は送らない。 あくまでも自然にいつも通りの動きをする・・・・。
さりげなく腕時計を見る。 ちょうど、3時5分になったところだった。
一気に血圧が上昇する。 拓也もすでに近くでスタンバイしているはずだ。
あとは自分の判断だった。 いつでもスタートの号砲を鳴らすことができる。
どうする。
秀一は雑誌を綺麗に整頓しはじめた。 これ以上、時間をおくのは得策ではない。
今は絶好の瞬間なのだ。
秀一は「よし!」とつぶやいた。 CCTVカメラには音声は記録されない。
外に向けて並べてある、赤っぽい表紙の婦人雑誌を引っ込めた。
代わりにブルーが基調になった『横浜ウォーカー』を選んで手に取り、置こうとする。
その刹那、狂おしいような思いにとらわれた。
これを置くということは、1,2分後には計画通り、拓也を殺すということだ。
本気で、やるつもりなのか。
馬鹿なことはやめろ。
今なら、まだ、中止できる。
手を取り合って真っ暗な谷戸を歩いた記憶が蘇った。 秀一は目をつぶって強く息を吐き出した。
馬鹿馬鹿しい。 ここまで来て、今更、引き返すことはできない。
そのとき、瞼の裏に、静かに燃える青い炎を見たような感じがした。
秀一は目を開けると『横浜ウォーカー』を合図の位置に置いた。 そしてカウンターの後ろに戻る。
まだ来ない。 いらいらした。 だが、合図をしてからまだ1分あまりしか経っていないことを思い出す。
焦るな。 落ち着いて。 イメージ通りにやればいい。
自動ドアの向こうに、ヘルメットをかぶった姿が見えた。
来た。
身構えるな。 普通にしてろ。 きっかけは拓也にまかせよう。
自動ドアが開く。 革のジャケット。 黒いTシャツに、ジーンズ姿。
「いらっしゃいませ」
拓也はヘルメットを脱がずにまっすぐ大股でこちらにやってきた。
「金を出せ!」 拓也がカウンターを飛び越えて、中に入り、ナイフを突きつけた。
打ち合わせ通り、左手でこちらの肩口をつかみ、ナイフを喉元に押し当ててきた。
「ちょっと揉み合おう・・・・」 秀一は口を動かさず、拓也の耳元で囁いた。
拓也はすっかりその気になり、ダミーナイフを突きつけて、ぐいぐいとこちらの体を押してくる。
よし、今だ。
秀一は両手で拓也の両肩をしっかりと掴み、カウンターの下で、膝の下あたりに足払いをかける。
「おい、馬鹿、やめ・・・・・!」
秀一はそのまま相手を引き込んで仰向けに倒れた。 背中を強く打ち、一瞬、息が詰まる。
二人はカメラの視界から消えた。
「なん・・・・・これ、打ち合わせにねえだろ?」
秀一は左腕を拓也の背中に回し、ジャケットを掴んだ。 同時に右手を伸ばしてゴミ箱の後ろに隠しておいたマークⅡを手にする。 拓也はまだ状況が飲み込めず、じたばたと足掻いていた。
マークⅡのブレードを横に寝かせて、黒いTシャツを着た左胸にあてがう。 第四肋骨と第五肋骨の間。
何度も頭の中でリハーサルしたとおりの手順だった。
背筋力で体を弓なりに反らしながら、力いっぱい下から突き上げた。
鋭い切っ先が難なく薄い布と肉を突き破る。 両刃のダガーはほとんど抵抗なく拓也の体内に入っていった。
ブレードは根本まで完全に埋没し、ヒルトと拳が体にぶつかったところで、ようやく止まった。
悲鳴とともに、秀一が左腕で抱えてる拓也の体が、激しく痙攣する。
傷口を塞いでいたナイフがぶれたとたん、大量の血液が噴出してきた。
早く、ナイフを離さなくてはならない。 秀一は右手を開こうとしたが、緊張のあまりか、
鮮血で濡れそぼつ5本の指は、柄に貼り付いてしまったようだった。
左手を使い、親指から順番に、一本ずつ引き剥がしていった。
「お・・・・・お前」
頭を下げた拍子にヘルメットが転げ落ちる。 苦痛に歪んだ、拓也の顔が顕れた。
「なんで・・・・?」
拓也は泣くような声で、辛うじてそれだけ言った。 それからか細い悲鳴が途切れ、ぐったりとなる。
失血のショックから意識を失ったようだ。
秀一は拓也の手からダミーナイフを外し、左胸に刺さった、ナイフの柄に導いて握らせる。
覆いかぶさった拓也の体を静かに押しのけると、仰向けに床に転がった。
薄い胸からは、にょっきりと、マークⅡの柄が生えている。 その下からは依然として温かい血が湧出していた。
床は文字通り、血の海になっていた。
カメラに見えないようにダミーナイフをズボンに刺した。 ふらつく足で立ち上がる。
手足が震えているのは、決して、演技ではなかった。 顔色もたぶん真っ青に違いない。
床に倒れている拓也を一瞥すると、戦慄が走った。
顔をそむけ、よろめく足取りで事務室に向かう。
ドアを開けて、ようやくCCTVカメラの監視下から逃れる。
これから先は、さらに迅速に事を運ばなければならなかった。
まずは流しで両手を洗った。
血だけでなく、マークⅡに指紋を付けない為に、指と掌に塗っておいた糊もすっかり落とさなければならない。
流れ落ちる水が、真っ赤に染まる。
ダミーナイフも水をかけて血痕を洗い流し、タオルで拭く。
それを用意しておいたクッション封筒に入れ、厳重に封かんした。
べっとりと血のついたスニーカーを脱ぐと、裏口からコンビニを出る。
誰もいないことを確かめ、郵便ポストまで走った。 梅雨の晴れ間の黄色い月が薄い雲の間から見下ろしていた。
封筒を投函すると、駆け足で戻る。 時間にすれば事務室に戻ってから1分ちょっとしか要していないだろう。
事務室の電話に手をかける。 大きく深呼吸すると、まだ震えが止まらない指で110をプッシュする。
「はい。110番」
突然デジャヴのような感覚に襲われた。 前にもこんなことがあったような・・・・・、
何だ、実際に電話してるではないか。 曾根の死体を『発見』した時だ。 あの時は119番だったが。
「もしもし? もしもし?」 「あの・・・・・もしもし」 「はい。110番」
「こちら、『ハート・トゥー・ハート』の鵠沼店なんですけど」 「は? ハート?」
知らないらしい。 こらがセブンイレブンやローソンだったら説明の必要はないだろう。
「コンビニです。 藤沢市、鵠沼にある。 あの、たった今、強盗が入って・・・・・」
「はい。 それで? 強盗は、どうしました?」
「あの、死んだみたいで」 「え? 死んだ?」 相手は信じられないように繰り返した。
「ナイフを持ってて、倒れた時に刺さったみたいで」
秀一はあらかじめ決めておいた通りの内容を説明すると、電話を切った。
受話器にはうっすら赤い指紋がついている。 もう一度丁寧に手を洗った。 胃液が逆流して吐いてしまう。
事務室の電灯を消し、暗闇の中で待った。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。 サイレンが大きくなるにつれ、動悸は狂おしいまでに早くなり
掌や背中には嫌な汗がべっとりと滲み出していた。
・・・・・早く、終わらないかな。
これから警察の事情聴取が待っていることを考えると、ため息が出そうだった。
自動ドアが開いて、警官たちが店内になだれこんできたようだ。
秀一は神妙な表情をして、パイプ椅子に座っていた。
そこは藤沢南署にある刑事課の大部屋だった。 事件の直後だった。
「いや、待たせたね。 ごめん、ごめん」 山本警部補が両手にコーヒーを持って戻ってきた。
「大変だったね。 それにしても、短い間に、二度目だね。 君と、こうして話をするのは」 「はあ・・・・」
「前回は君の昔のお父さん。 そして、今回は同級生なわけだ」 「この前と、今度のことは・・・・」
「ああ、もちろん状況は全然違うんだけどね。 犯人が石岡拓也だとわかったのはいつかな?」
「それは・・・・ヘルメットが脱げた時だと思います」 「そうか」
その後も、山本警部補は拓也について、秀一と拓也との関係について細かく質問した。
「正直に言うとね、君と石岡君が知り合い、それも同級生だということが、上の方じゃ相当引っかかっているみたいなんだよ」
「引っかかってる?」
「偶然にしちゃ、できすぎてるからね。 他にも納得のいかない点があるんだ」
山本警部補はタバコに火をつけた。
「僕は強行犯っていってね、強盗を捕まえるのがいわば本職何だが・・・・・コンビニ強盗の手口も色々見てきてる。 凶器はほとんどの場合、刃物だ。 それもできるだけ見栄えのする派手な方が好まれる。 若い犯人にはサバイバルナイフが人気があるようだ」
山本警部補は、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
「だが、今回は両刃のダガーナイフだ。 それも悪名高い、ガーバーのマークⅡというヤツだ。
なぜ、わざわざこのナイフを選んだのか・・・・・?」
「どういうことですか?」
「数年前、若い男が拳銃を奪おうとして、警官を刺殺した事件があった。 そのとき犯人が使ったのがこのナイフだった。 ガーバーのマークⅡというのは、人を脅すのではなく、確実に刺し殺すためのナイフなんだよ」
山本警部補は灰皿に灰を落とした。
「ある程度ナイフの知識があれば知っているはずだ。 ああやって首筋に当てて脅すんだったら両刃はかえって使いづらい。 簡単に皮膚が切れ、血が流れる。 脅されるほうもパニックに陥りやすい」
「・・・・・それは、つまり、石岡が、最初から、僕を殺そうとしていたということですか?」
「その可能性も捨てきれないな」 「石岡君が僕を殺そうとするなんて考えられません」
「他にもいくつか謎がある。 例えば持ち運びに関してだが、あの手のナイフには鞘がついている。ところが石岡拓也君の遺体はどこにもナイフの鞘を身につけていなかった」
秀一は舌打ちしたくなった。 拓也は言いつけを破って、ダミーナイフを鞘にいれてこなかったらしい。
「結局どういうことになるんですか?」 「まだわからない。 だが、それに関連してもう一つ謎がある」
「石岡くんの遺体からは凶器となったナイフの鞘は見つからなかったが、尻のポケットから違うものが出てきた」
「・・・・・何ですか」 「別のナイフだよ」
山本警部補は机の引き出しから、透明のビニール袋に入った折り畳みナイフを取り出した。
はっとした。学校に来たとき、脅しのために使ったナイフだ。
「コンビニを襲うときに、2本もナイフを持ってくるっていうのは変だと思わないか?」
「さあ。よく、わかりません。 あいつが、何を考えてたのか・・・・」 「まあ、それはそうだろうな」
この日の事情聴取は終わった。 大部屋を出たところで、母と神崎店長が近づいてきた。
ほっと気が緩んだとたん、自分でも意外だったが、目から涙がこぼれ落ちた。 さらに、2粒、3粒・・・。
母は泣いていた。 秀一の頭をぎゅっと抱きしめる。 言葉が出ないらしかった。 しきりに頷いている。
秀一は自分の涙を山本警部補が見たかどうか、考えていた。
心身ともに深く疲労しているはずなのに、熟睡モードに入ることができない。
うつらうつらしながら、短い周期で、浅い微睡みと覚醒とを繰り返していた。
第九章 豪雨
山本警部補は 目をしばたたいた。 かなり憔悴しているようだ。
「昨晩、というか今朝はよく眠れたかな?」 そういう本人が一睡もしていないような印象があった。
「いいえ。 あまり、ぐっすりとは」 昨晩は『スティンガー』の実行直後で異様な興奮状態にあった。
「あれから、店の防犯カメラのテープを何十回も見たよ。 おかげで目がしょぼしょぼして、かなわん」
一緒に見て欲しいと言い、山本警部補はビデオデッキの再生ボタンを押した。
拓也が入ってきて秀一のところへ向かってきたところで、一時停止ボタンが押された。
「彼は自動ドアが開くとわき目もふらずに君の方へ来ている。 普通はドアが開いたところでいったん立ち止まって、他に客がいないか見回すもんなんだがね」
秀一は唇を舐めた。
「あの時間、お客さんがいないことを前もって知ってたんじゃないでしょうか?」
「ほう? あの時間帯は、いつも客がいないの?」 「ええ・・・・・いないことが多いです」
「そのためには何度か来る必要があるね? それとも従業員と話して小耳に挟んだりすれば、別だが」
更にテープを再生し、一時停止した。
「ここなんだけどね。 僕の目にはどうしても、石岡君が君の喉にナイフを押し当ててるように見えるんだが」
「確かにそういうふうに見えますね」 「でも実際には当たってなかったんだ?」
「たぶん、接触はしてなかったんだと思います」 「はっきりとは覚えてない?」
「だって、もし、押し当てられてれば、切り傷くらい残ってるはずですから」
「ほう。 どうして、そう思う?」 「あのナイフを見れば・・・・・」
そこまで言って、秀一は危険に気づいた。
「山本さんが昨晩僕に言ったんですよ。 あれは両刃のナイフだから喉に落ちつけて脅迫するには向かないって」
「うん。たしかに言った。 よく覚えてるね」 山本警部補はうなずくと、再び再生ボタンを押した。
秀一が拓也の両肩をつかんだ。 一時停止。
「ここで、君は両手で石岡君の肩を持っている。 普通、喉元にナイフを突きつけられたら、そっちが気になるもんだよ。 ナイフと喉の間に手を持ってくるか、ナイフを持った相手の手を掴もうとする。 よくこんな大胆なことができたね?」
「それは全然記憶にありません。 ナイフを突きつけてたことも意識してなかったのかもしれません」
「そんなことがあるかなあ? 相手はその前にはっきりとナイフを見せてるんだけどね・・・・」
山本警部補は再生ボタンを押し、すぐにまた一時停止をかけた。
「さて、ここだ」 揉み合っている二人がバランスを崩しかけたところだった。
「君は柔道の経験はある?」 「ええ。 中学校のとき柔道部にいました。 「段位は?」 「初段です」
「僕はこう見えても三段を持ってる。 大学でも柔道部だった。 今でも時々道場で汗を流してるよ」
「はあ」 動悸がだんだん激しくなってきた。
「ここの部分を見て欲しいんだが」 山本警部補は画面を指さした。
秀一の体は後ろに反り、やや半身の姿勢になって右脚一本で踏ん張ろうとしている。
尻が捻れ、左脚は浮いているようだ。 しかし腿から先の部分は画面からは外れていた。
「僕には、君の左足が石岡君の右脚を、外から内に払っているように見える」 「えっ?」
「でも、足なんか全然映ってませんよ」
「うん。 たしかに肝心の場所は見えない。 だが、このとき君が取っているのは、支えつり込み足の大勢じゃないかな? 上体を捻りながら、左の足で相手の右脚を刈る。 そして・・・・・そのまま、真後ろに倒れながら相手を引き込んでいるように見えるんだ」
「冗談はやめてください。 そんなこと、できるわけがないでしょう!」 「できない?」
「だって、僕は、あのとき、喉元にナイフを突きつけられてたんですよ? それなのに引き込み技なんか、危なくてかけられるわけがないじゃないですか?」
「君はたった今、ナイフのことは意識がなかったって、言ったと思うけど」 「それは・・・・」
「そうかもしれません。細かいことは覚えてないので。 けど真後ろに倒れて寝技に持ち込むなんておかしいです」
「君が後ろに倒れたのは偶然だということ?」
「ええ。 何かに躓いたか、足が滑ったのか・・・・突然のことで、足下も定まらない状態でしたから」
「そうかな。 君の動作を見ると、落ち着いているように思えるんだが」
まあいい、と言い映像の続きを見た。
二人とも画面から姿が消えていた。 だが、よく見ると、拓也のスニーカーだけがまだ映っていた。
拓也の足はもがくように、画面から出たり引っ込んだりしている。
秀一は心臓を鷲掴みにされているような気分だった。 脂汗が流れ、眩暈がする。
掌に指の爪が食い込んだ。 じっとりとかいた汗をチノパンツの腿の部分で拭う。
山本警部補の視線が、じっと自分に注がれているのがわかる。
拓也の足は、突然、跳ねるように持ち上がった。 それから床に落ち、2,3度痙攣するような動作の後、
ぴくりとも動かなかった。
「ここだ。 君も今見て、変だと思っただろう?」
「・・・・さあ。 どういうことですか?」
「ナイフが石岡君の胸に刺さったのは、てっきり、二人が重なって倒れた瞬間だとばかり思っていた。
ところが、この映像を見ると、その前提が少々怪しくなってくる」
秀一は、無言だった。
「倒れてからの石岡君の足の動きには、断末魔の苦しみを思わせるようなところはない。 単にもがいているだけのようだ。 ところがその数秒後、突然激しい動きを見せると、ずっと弱々しくなり、そのまま終焉を迎えている」
「どういうことですか? 僕が石岡からナイフを奪って刺し殺したとでも・・・・・?」
「かりにそうだとしても、たぶん、正当防衛になる」
「冗談じゃないですよ。 僕は絶対にそんなことはしていません。 わずか数秒の間に相手がしっかり握っているナイフを奪い取り、逆に刺殺するなんて芸当ができますか?」
「君の言うとおりだ。 ただ、どうにも腑に落ちないことが多かったんでね。 実はそのあたりを君が説明してくれるんじゃないかと、ひそかに期待してたんだよ。 決して君に対して何か疑いを抱いていたわけじゃない」
家に帰り着くと、秀一は大きく息を吐いて平静な態度を取り戻そうとした。
警察も聞くべきことはひとと聞いたはずだ。 向こうは真相にきづいてすらいないのだ。 わかるわけがない。
すでに九分九厘、勝ちを手中にしているのだ。 あとは軽挙妄動さえ慎めば何も心配することはない。
友子と遥香が出迎えてくれた。 遥香は涙ぐんでいた。 家に上がると、妹の頭を撫でてくしゃくしゃにしてやった。
「お客さんが待ってるわよ」 「客? 僕に?」 「ええ。とっても可愛い人」 遥香は不機嫌そうに顔を背けた。
応接間に行くと、そこには紀子が鯱張って座っていた。 「・・・・櫛森くん」
早くも事件のことを聞きつけて来たのだった。 友子がティーセットを運んできた。
「あの、櫛森くん? すごくショックだったでしょうね。 気持ちはよくわかるわ」
「わかるわけないだろう?」 秀一は冷ややかな調子で答えた。
「同じ経験をしたことがあるなら、別だけど」 「それは・・・・・もちろん、ないわ」
「想像するだけ・・・・。だから、少しでも櫛森くんも気持ちが軽くなるようにできるんだったら、わたし、どんなことでも」
紀子は赤面し、言葉を中断した。 母親と妹の前で口にするには恥ずかしすぎる台詞だと気づいたんだろう。
「じゃあ、一つ、頼みがある」 秀一は紅茶を一口飲んで、平板な口調で言った。
「うん! 何でも言って?」 紀子は、目を輝かせて、身を乗り出す。
「帰ってくれないか」
「え?」
しばらく、言われた意味が理解できないようだった。
「疲れてるんだ。 昨日はほとんど眠ってないし、さっきまで警察にいたんだ。 そっとしといてほしいんだけどな」
「あ。ごめんなさい。わたし・・・・・」 紀子はしょんぼりしてしまった。
「秀一。 せっかく来てくださったのに、そんな言い方」
「いいえ。 わたしが、無神経だったんです。 ごめんなさい。 帰ります・・・・」 紀子はぺこりとお辞儀した。
秀一はカップの中に視線をやったまま、身じろぎもしなかった。
やがて、玄関のドアがそっと閉められる音がした。
秀一は応接間を出てガレージに行き、101を取ってくると自分の部屋に行った。
ベッドに仰向けに倒れ込んだ。 天井がいつもより遠くに感じられる。 体の奥底から疲労が滲み出てきた。
曾根を『強制終了』した直後は取り返しのつかないことをしたという恐怖を感じた。
拓哉をも殺害した今、強烈に胸に迫っているのは、心に空洞が開いたような底知れぬ喪失感と虚無感だった。
秀一は101をラッパ飲みした。 食道が灼けつくような刺激に噎せて咳き込んだ。
麻酔が効くように、ゆっくりと頭の中が朦朧となり、やがてすべてが暗転していった。
続く・・・