幸福の原価
この世には、金で買う事ができない価値あるものがある。これに異論を唱える者は少ないだろう。だが、具体的にどれ程の価値があるかと問われると、答えに窮するのではないだろうか。これは、金で買えないものが「金で買えるものの消去法」に当たる性質と、価値判断自体が何らかの比較から逃れられない事に起因するように思える。言葉に変換すると、多くの場合その背後に、アフォーダブルな対象との比較が存在している事に気付く。判断指標として、あらかじめ価格付けされたものと比較する行為自体は妥当だ。だが同時に、何らかの形でプライスレスな価値を表現する事は、例え本人に自覚がなくとも、その価値観を金銭で測る…値札を付ける行為そのものに相当するとも言えるのだろう。若干話が飛ぶが、幸福に関わる研究は数多く存在する。ここで言う「価値」は、自身や第三者の生を充実させ喜びを覚える度合い…つまりは「幸福度」と読み替える事も可能だろうか。では、幸福度の金銭への換算に当てはめた時、何を読み取る事ができるだろう?幸福と年収の相関に関わる研究では、年収が1,000万程度に達すると幸福の伸び率が横ばいになるというデータがある。つまりは、1,000万でも1,500万でも、体感できる幸福の度合いに大差はないという事だ。※金額については諸説ある上、年収の増加に伴い失うものもあるため逆に幸福度は下がるという見解もあるが、ここでは割愛する;これは、体験可能性の問題に置き換える事ができるだろうか?つまりは、ロマネ・コンティを買えるだけの経済的余裕がない中で、1,000円と1,500円のワインを飲み比べても、幸福の度合いに大差はないという事だ(笑)この意味では、幸福量と金銭は必ずしも比例関係にならないと言える。そしてもう一つ。幸福の限界効率を論じる際に具体的な金額が登場したように、幸福体験に一定の評価を下す上で、金で買えるものの価値を相対的に知っておく事はやはり重要なのだろう。金で買える体験を繰り返す中で、金で買えないものの価値を測る技術を磨く。その差分に体験可能性を乗じたものが、幸福のプライスである!それは既にプライスレスとはかけ離れたものかもしれないけど、世界でたった一つ自分にとってのプライス(価値観)…そんな割り切り方も悪くないでしょ?と、結論っぽいものが出たところで…この漱石さん二人で、ワインでも買ってきなさい(爆)つか、いきなりロマネ・コンティなんて飲んでも「渋い」って言うだけでしょ?(*''艸3`):;*。 プッ2017年は太陽のヴィンテージ!11月16日(木)2017年ボジョレー・ヌーヴォー解禁!#漱石さん二人に半人前くらい足せば、それなりのヴィラージュも買う事ができよう。#だが、自分の嗜好では、割安のボジョレーを冷やして、フレッシュさとパワフルさを堪能する方が総じて幸福度は高い。#残念な舌を嘆く代わりに、小さな喜びに満たされる幸福に感謝する。#そこに比較など無用だ。手にした幸せをただ感じる…それこそが兌換なき幸福の原価なのだろう。