迷いを持たない人間はいないであろう。
では,何故人は迷うのであろうか。
何を測りにかけているのであろうか。
そこには単純で純粋で完全な方程式は成り立つであろうか。
 
意思の強さと弱さ。
何とも短絡的な考えだ。単調な言葉は空疎な響きを持つ。
高尚な理論などどこにも存在しない。
 
然し窮極の選択肢なら明白だ。
生きるか,死ぬか。
 
 
# どちらも心のわだかまりが残り,
# どちらも心のつっかかえが取れない。
 
 
 
【22歳 3月24日のキミへ】
迷うのは恐らく、自身の内と外とのギャップに原因があるのではないか。
 
ここで言うギャップは、自己像と第三者による客観評価との不一致のようなケースもあれば、願望と現実との相克のようなケースも考えられよう。
そして、安定状態を得るために、第三者との係わりや現実における不確定性を排除する事は絶望的に困難である。
こう考えると、迷いを取り除く事は不可能であるとも言えよう。
 
では、どうすればよいか?
 
 
月並みではあるが、まずは、外に対して過剰な期待や不安を抱く事を止め、自分にとっての小さな喜びを探すよう努めるというのはどうだろう。
 
安定選好の結果、リスクを抑える代わりに幸福という名のリターンも最小化されてるだけじゃないかって?
 
ごもっともだ。
だが、現実にはリスクとリターンの因果は一定ではなく、最適選好マッチングなど到底望めない上、判断を誤らせる誘導的なバイアスが至る所に潜んでいる。
 
迷いを前に天秤にかける1つが内なる願望や期待だとして、それが外部のメディアに流布された稀有な成功例や幸福の在り方に、影響を受けていないと断言できるだろうか?
一攫千金を実現し浮世離れした豪奢な生活を送る日々…安っぽいTV番組にありがちな極端な例を挙げたが、期待の裏側にこれと似た刷り込まれた羨望が潜むのであれば、それは既に“現実”における選択ではないのかもしれない。
現実と夢を秤にかけたのであればまだいい。
だが実際には、夢ですらない荒唐無稽な夢物語なのかもしれない。
 
統計的に一般化不可能な限られた事例から刺激を受ける事は、決して悪い事ではない。
だが、気付かぬうちに一足飛びになっているなら問題だ。
ギャンブルは、ハイリスク・ハイリターンである程、迷い、そして悩む。
 
 
果たしてそれは、本当に自らが望んだ生活か?人生か?
一旦外部に対する意識をリセットする事で、自身の内にあるものが、本当に自らが望んだものなのか見えてくる筈だ。
 
未知なる選好を前に、リスクとリターンを迷うのは、それからでも遅くはない。
 
 
#イタリア人は、美味しいチーズにワイン、一切れのバゲットがあれば幸せだと言う。
#対して日本人が消費している「パルミジャーノ・レッジャーノ」は、大抵がイタリアの伝統的製法に合致しない大量生産品だ。
#本物を一度口にすれば、類似品を購入する意欲がなくなる事がある。
#外なる世界を冷静に見つめてみれば、ボクたちが抱える迷いや不安も、案外その程度で晴れるものなのかもしれない。