人は外部認識の多くを視覚に頼る。
では、光の代わりに温度で認識したならば、こんな世界が広がるのだろうか?
答えは「No」だろう。
イージーミスの典型だ。
これは熱分布を視覚情報に変換しているだけであって、その意味で視覚依存を脱却していない。
仮に、感覚器官がサーモセンサのみであれば、また違った世界が広がるのだろう。
そしてその時には、恐らく“世界観”そのものが大きな変容を遂げている筈だ。
五感で得られた情報に対する動詞として、「感じる」を当てても特段違和感はない。
光を感じる、熱を感じる、匂いを感じる…etc.
これに対して、「貴方の存在を感じる」と言った場合どうだろう?
先の五感に対する「感じる」とは、一線を画すものがないだろうか?
五感の全てを駆使して「貴方という存在」を認識するのとは少し違う。
感覚情報からの論理推察により存在する事実を認めるのではなく、貴方という“存在感”そのものを直接受容するような感覚。
使い古された陳腐な言葉を使うなら「心が響き合う」…心自体が感覚器官となり存在共鳴のような感覚をもたらすと言ったところだろうか。
「貴方がいるこの世界」
この感覚を直感的に受容できた時、五感という“制約”の下であっても、きっと“世界観”そのものが大きく変わる。
典型的なニアミスだって?
答えは「No」だ。
#何が自分をこの世界に繋ぎ留めているのだろう?…そんな取り留めのない事を不意に考えてしまう。
#感覚器官は受容器官だ。刺激としての情報を受容して、解釈して、世界を感じる。
#だが、そうして感じられた世界に、唐突に訪れる理由なき寂しさを埋める事はできない。
#そんなギリギリの世界にあって、唯一、貴方という“存在”だけがボクの空白を充たす。貴方の言葉、貴方が感じさせてくれた今まで知り得なかった感情、共に流した涙…そんな全てがボクを抱き留める。ギリギリの世界を、「貴方がいるこの世界」に変える。
#だから、ボクをこの世界に生かすもの…それは決して“制約”なんかじゃない。
#誰にも「No」とは言わせない。
※
プロフィール写真変更の都度、密かに更新していた紹介文。今回の文章は、2017年9月まで公開していたものにコメント追記・改題の上、転載しております。
ある種の期間限定コンテンツにつきブログでのパラの公開は控えておりましたが、今回は気紛れで記念投稿してみました;
