※注
当コンテンツは、小説『丕緒の鳥』の読書感想文らしきものになります。
所謂レビューっぽくないとの評価を多数いただいているので、恐らくネタバレ的な心配は無用かと思いますが、NCNR(ノークレーム・ノーリターン)って文字化け防止のおまじないでしょ?的な感性の方は、ブラウザタブの右端にあるであろう×をタップする事を推奨します(爆)
どーでもいいですが、NSNLと言えば「No Suberi, No Life」の略です(*''艸3`):;*。 プッ(謎)

 
 
  • 原初的自然法では、生という事象に整合的であり生命活動に利すると判断されたものが、生来的に人が守るべきとされる法となるのだろう。
     
  • 生きたいと願うのも、死にたくないと縋るのも感情だ。この感情を調停するために法が求められたとすれば、これを判断し規定するのは感情ではなく、理性であろう。法とは情で動くものではなく、理性を持って決める必要があり、換言すれば情で左右されてはならないものであろう。但し、裁くのも裁かれるのも人であり、連続的な人の営みの中で法が運用されるのであれば、感情を“救済”するための一定の法も必要になろう。情状酌量という言葉があるように、これも理性により法として規定される。運用段階では情の配慮も必要になるが、制定段階では情が介在する余地はないのだろう。
     
  • 戻って、自然法が生に整合的であるという事は、遍く生が等しく平等である事を前提とする。罪に対する罰の狙いとは本来、更生と抑止であろう。では、人が人を死罪と断定する時、これを理性的と呼べるであろうか?死罪を下す判断基準を理性的と呼べるであろうか?ここに理性的なものを見つけようとするなら、死罪の暴力性が与える恐怖がより高い抑止効果をもたらす、或いは更生にかかるコストよりも死罪を適用する方が総合的にパフォーマンスが高いと言ったところであろうか。
     
  • 転じて感情面に目を向けると、罰のもたらす実際的な心への影響として、勧善懲悪的価値観の醸成や正義感の基礎付けが認められるだろうか。死罪の基準としても、人を殺めた残忍な罪人に対しては、同等の報いとして死罪が相応しいと考えるのは感情的にも自然と思われる。法は情で動かない。だが、民は殺せと叫ぶ。民意を抑えるために死罪が適当と判断される、或いは死罪以外の判決が社会秩序の悪化を招く恐れがあるのなら、情を斟酌するのも理性的な営みと言えるのだろうか?
     
  • 相応の罰をクローズアップするのであれば、必ずしも極刑は適切ではない。動機として死刑になるために無差別大量殺人に及ぶケースもある。(無論、犯人が本当に死を望んでいるのか確か得る術はない。刑に服する間に現世への未練・罪の意識から心変わりする事もあろう。罰の相対化を促すなら、極刑を免れるために死を望むように振舞う行為も出てくる事は想像に難くない。)
     
  • 卑劣で残酷な事件を目の前にすれば、誰しもが嫌悪感を覚えるだろう。凶行に及んだ犯人を死刑にしろと異口同音に叫ぶ。勿論非人道的な行いに対する断罪や被害者意識を想像した悲しみもそこにはある。だがそれ以上に、受け入れられない事態を排除したいと願う理性・理屈を超えた直感に依るところが大きいだろうか。そこには、自身が平均的に善良な市民であり、平均的に安定した社会が維持されているという大前提がある筈だ。善良であるという意識が、受け入れがたい悪に対する復讐感情を駆り立てる。
     
  • 法とは理性的に定められ運用されるものである。だからこそ正常な思考力を逸した者については、罪を問えないと考える。では感情による裁定の余地が大きくなった場合何が起こるだろうか?民意を反映して極刑適用の基準が実質下げられる事態にならないだろうか?過去の実績が一つの基準となっている事実を踏まえれば、傾向としては極刑濫用の方向性に向かう可能性はないか?この場合、司法の運用が理性的であると言えるだろうか。
     
  • 犯罪行為の発生を持って罰する原則論の中で、昨今はテロ対策と称し、犯罪準備行為に対しても刑を執行する制度が存在する。社会の変化に対して司法も柔軟であるべきだが、刑罰権が国家に独占されている状況は、謙抑制の適切な解釈を誤る可能性が高まらないか?社会秩序が度を越して重視されると、個を無視した制度運用により、逆に社会に対する不信が高まるのではないか。
     
  • 現実には死刑の抑止力について論じるのは非常に難しい。死刑廃止前後の凶悪犯罪発生件数推移、死刑制度有無による国別比較。何れにせよ比較により統計的な有意があるか確かめるしかないと思われるが、現実には社会情勢・治安状況に大きく左右される事は間違いない。では、子供たちに対して「悪い事をしてはいけない」と説明するにあたり、背景事情としてより説得力があるどちらであろうか?残酷さの教育では、悪い事がいけないと了解しても、何故悪い事がいけないのか、その理由から人命尊重の大きな欠落を招く事になるだろう。
     
  • 社会・生い立ち等、当人の意思や努力とは無関係に、生きるために悪である事が半ば強要されるケースもあるのではないか。邪魔なもの・害成すものとして罵られ、実質的に社会から抹殺される。悪である事でしか社会に存在できない悪。秩序の安定運用が理性的営みであるのなら、自身以外の社会の生と不整合な理性も存在する。それは人であると同時に、法の前では法の想定する人間ではなくなるのではないか?
     
  • 社会が生み出す必然悪がある。刑罰権を持つ国家にとって、冤罪という究極の暴力も存在する。社会の振るう暴力の非正当性が暴かれ、平均的な善良さと平均的な安定の“意識”が損なわれれば、信頼欠如の綻びから秩序は徐々に崩れるのではないか。
     
  • 但し日本においては、“和”の意識に準じた社会調和が重んじられる。愛するものを奪った行為に対する理屈を超えた復讐心を無理に抑え込む事は、文化的にも馴染まないようにも思える。死刑の是非については長らく論じられてきたが、一朝一夕で結論を出す事ができない問題だ。少なくともグローバルトレンドやビジネス的な観点から、日本特有の文化・感性を無視して簡単に結論を急ぐ事は控えねばならないのだろう。社会や国家の前では余りにも小さすぎる個という存在から目を背けず、理性と感情の狭間で慎重な判断を下す姿勢を失ってはならない。
 
 
《狩獺さえ取り除かれれば、不安もまた取り除かれます。姉上も民も、ほどほどに世間を信用していられる。そうやって自分の目に見える世界を整えようとするのです》(P148)
《どちらも理ではなく本能に近い。私情と言えば私情に過ぎないが、この根源的な反射は互いに表裏を成しており、これこそが法の根幹にある。殺してはならぬ、民を虐げてはならぬと天綱において定められている一方で、刑辟に殺刑が存在するのは、多分それだからなのだろう。》(P168)
 
死刑が廃止された国で、一人の重罪人に対する死刑適用是非を巡り議論が繰り広げられる。死刑適用が実質の死刑復活である事実を前に司法の葛藤が描かれる。
人が人の命を奪うという一点においては、死刑も殺人も人殺しだ。だが、ここに社会が媒介すれば秩序維持を目的とした正義力の執行に姿を変える。それでも立場を超えて、相応の報いとして死刑を求める声と同時に、死刑を忌避し怯懦する私人としての声も意識の奥、胸の内奥に渦巻く。
「父さまは人殺しになるの?」
判決を下す直前、冒頭で投げかけられた言葉が再び胸に突き刺さる。余りにも個人の存在が、個人の命が軽くなりすぎた現代において、時勢に流される事なく真摯に人と社会に向き合った言葉の一つ一つが重く響く。
 
 
■落照の獄 [短編集:丕緒の鳥より]|小野不由美(新潮文庫)
 
 
 
【著書あとがきという名の言い訳】
先ほどコメント連投する中で、「自由に関する10分連想の内容を気が向いたら公開するかも」と投稿したところですが、いつもの定番ネタとして即アップしようと早速当時の文章を検索する事に;
 
直ぐにヒットして発見できたものの、改めて内容を読み返すと実に稚拙だったので、まぁどうしようと途端に気が向かなくなると(爆)
 
僅か数秒悩んだ末、取り敢えず風呂入って歯を磨くのが面倒になったら代わりにアップしようかとか、ちょっとした数学の証明問題程度の難易度を誇る謎の因果関係的方針を打ち出したところで、別のコメントで触れた「罪」に関する思索もどっかで書いたなぁと思い至り、結果今この文章を書いていると(苦笑)
 
前回のレビューらしきものをアップした時に、基本的にレビューは公開しない方針とか言った手前、舌の根が乾く前に引っこ抜かれそうな状況ですが、その辺は地獄の閻魔様にお任せという事で、天国か地獄か50%の猶予をいただけたらと。
#純粋な運試しの50%だけに、少なくとも人が判断する有罪無罪よりかは、幾分良心的だ(謎)
 
 
【参考】理性の原子
※今回の元ネタ(?)となったエントリ。コメント欄参照の事;
 
【関連】わたしを離さないで
※カテゴリ違いですが、内容的には同じレビュー投稿という事で;