現実は遅れて認識される。
認識されるまでの僅かな時間生じるミスマッチ。
落ちてゆく感情。
 
記憶が記録に変わり
感情は溶け出してゆく。
 
 
# 人の死を悲しく思う仕組みではないか。
 
 
 
【22歳 3月25日のキミへ】
ベンジャミン・リベットの名著『マインド・タイム』によれば、意識は遅れて認知される。
曰く、意識の運動指令に対し実際に身体が動くのは約200ミリ秒後であるが、この運動指令の「意図」に先立ち、約350ミリ秒前には脳に「運動準備電位」が現れている。
 
意識よりも前に無意識のスイッチがONになるこの因果関係を持って、脳の生化学反応が意識と呼ばれる現象を結果論として生じさせるという解釈も可能だ。
 
 
外部からの刺激である現実の認知も、現実に対するあらゆる行為も、全ては遅延認知。
では、記憶に対する感情は一体何処へと行くのだろうか?
 
エピソード記憶には感情も含まれるとされるが、感情が独立した記憶系であるかは判明していない。
だが、悲しい記憶も時と共に薄まり、生傷がかさぶたへ変わっていくのも事実だ。
一般化された意味記憶への参照とパッケージ化されていると考えるのも、決して突飛な話でもないだろう。
 
何れにせよ、それがどのような過程を経た結果であろうと、時の流れに希釈された記憶は“イベント”ではなく、もはや“モノローグ”と言えよう。
 
セピアな物語として無関心に話す事もできれば、今の感情で鮮やかに彩色する事も可能だ。
死に代表される衝撃を伴う記憶を語るのには、やはり時間は必要不可欠というところか?
 
 
コマ割りされた映画フィルムの中、全てが過去のカットとして遅延的に活動するのに対し、外部に対する反応そのものは“認知とは無関係”に、今この瞬間に“発露”する。
 
時の流れの完全性に対する、内在化された不完全性。
このズレの中にこそ、感情のミスマッチが潜むのではないだろうか?
 
放つ思いはただ虚空を掴むように、過去と現在の狭間でただ微睡み、憂う。
 
 
#認知におけるズレの問題に、グラマトロジーにおけるパロール批判と似た印象を受ける。
#何れも“ズレ自体”が内在化されていると言えはしまいか。
#だが、ベンジャミン・リベットは、準備電位に対する拒否権を持つ自由意志も認めている。
#時に対しても自由の権利を競おうというのは、愚かと言うものだろうか?