生きる力じゃない。
死にたいと思う力だ。
 
 
# それに抗う為の力は多分ある。
 
 
 
===> (Reverse ∧ Rebirth)
 
不定期に精神的に非常に不安定な状態になる時期がある。
今が丁度その時のようだ。
徐々にではない,突然足を踏み外すかの如く
その瞬間は訪れる。
 
そんな時は自分を客観的に見てみる。
大抵は落ち着く事が出来る。
 
(Re: Verse ^ Re: Birth) <===
 
 
 
【22歳 3月17日のキミへ】
死を意識しない漠然と消費するだけの生は、没個性的な“世人”の枠に自身を押し込める。
その事自体に疑問を覚えず、ただ流される生はある意味楽かも知れない。
 
然しこの世人は、特定個人を指し示す固有名詞でなければ、恐らく個人の集合を意味する集団概念としての性質すらも持ちえていないのではなかろうか。
無自覚的に自らを世人と位置づける事で、自己の中で創り出した平均的一般モデルが共有されているという錯覚。
「皆やってるから、まぁ、いいか?」
ここでいう皆という共通モデルに実体はなく、こうして“責任免除”の心理的仕組みが完成する。
 
 
対極的に漠然とこんな事を考えた経験はないだろうか。
「どうして私は生まれてきたのだろう?」
「私が生きている意味ってなんなんだろう?」
 
私という存在に疑問を抱く思考。
私がそこにあるという意味に疑惑を放つ思考。
この延長線上に、必然的に死に対する考察が生まれるように思える。
 
死と向き合い、死を見つめる先にこそ捉える事ができる地平的風景がある。
死を受け入れる事で炙り出される、消去法とは異なる生の輝きがある。
されど、死そのものも、恐らくは概念すらも超克する事はできない。
それでも、死に至る病を経て辿り着ける境地がある。
 
「私は投げられた」
 
そこから脱出するには、指向性が生み出す“力”が必要なのだろう。
果たしてその放物線の着地点は?
 
 
#自覚の契機を持って浮き彫りになるものがある。
#まさに逆説的にして、その力は反力だ。
#生も死も、本来は意識や精神に先立つ先見的な概念なのだろう。