『ルビンの壺』を見た事があるだろうか?
名前を聞いても印象が浮かばない方も、「向き合う人の横顔と壺のシルエット」と言えば直ぐにピンとくるだろう。多くの方が一度は目にした事があるだろう隠し絵…トリックアートの一種だ。
この作品の特徴として、着目する色により認識できるものが変わるという事が挙げられるだろう。
そしてもう一つ。
作品の構成が分かり、顔・壺どちらも自身の意思で自在に認識可能になった後も、両者を“同時”に認識する事は決してできないという事実がある。
カテゴリ違いではあるが、もう一つ騙し絵を挙げるならば、エッシャーの『滝』であろうか。
滝から流れ落ちた水が水路を流れていき、気が付くと再び元の滝に辿り着く永久機関を象徴するようなあの作品だ。
エッシャーの騙し絵は、一見すると何の変哲もないように見えるが、改めて仔細を観察すると明らかに奇妙であると誰もが気付く事ができる。
この奇妙さは何が原因なのか直感的に瞬時に理解できるものもあれば、考える時間が必要になるものもある。
そして、この特徴は同時に、全体俯瞰的にマクロとして見た場合にはその細部にエラーを発見できるが、ミクロとして見た場合には何の違和感も感じない可能性がある事を示唆しているようにも思える。
では問おう。
『ルビンの壺』とエッシャーの『滝』。
現実の世界には、どちらのケースがより多く潜んでいるだろうか?
#真っ白なキャンバスに、黒インクで壺を描いたとしても、全ての人間が壺を認識するわけではない。
#例え人の手による描画であっても黒インクが背景として認識され、向き合う人の顔の方が認識される事もある。
#そして、現実社会という長大なキャンバスに何らかの無限循環が描かれるなら、そこには破綻した無限性を隠すための甘言的錯視も描かれている可能性が高い。
#問題は、どちらも人の手で認識対象がコントロールされている事だろう。
