人生は模倣から始まる。
そう言っても過言ではないかもしれない。
 
ここで模倣するのは型だ。
スポーツであれ、学習であれ、生き方であれ、一定の型に当てはめ、それを真似る事で習得する。
文字通りのフレームワーク。
 
 
若干話は飛ぶが、「歴史的な知」とは、本来その時代に培われた能力・技術によってしか解釈できないものなのだろう。時が経てば、自ずとその時代の水準で再解釈される事になる。
それは解釈の正否とは無関係に、時の流れが漸進的な意味の変化をもたらすと捉える事も可能だ。
 
つまりは、歴史的知の集積も“解釈のフレームワーク”により、自ずと型を形成すると見做せる。
表現を変えるのなら、自覚の有無に関わらず「オリジナル」とは、背後に横臥する「歴史的型」を土台にして初めて成立するものと言えないだろうか?
 
この連続性の強制と永遠性の否定の奇妙な同居は、型がある種のデジタルデータである事に起因するのかもしれない。
型はデータに過ぎない。
だからこそ、データに対する解釈の余地が生まれ、そこにパターンが生じる。
デジタルであれば、型の発展の方向性として、反転や補集合を求める事も容易いだろう。
 
だが、所詮データはデータ。
もし大きな飛躍が生じるとすれば、その本質は型…デジタルデータではなく、型を解釈するアナログ的な智慧の方にこそ望みを見出せないだろうか?
 
 
話を戻そう。
 
型を模倣するのは、それが効率的だからだ。
だが、模倣の目的が消耗品の大量生産でないのなら、真に模倣すべきは型の裏に宿る解釈の歴史なのだろう。
その型の成立へと導いた精神の発露を発見し取り込む事で、初めて到達可能となる本物の境地がある筈だ。
 
 
レプリカに魂は宿らない。
 
 
 
 
 

 


 

 

「ジェラート ピケ カフェ クレープリー」のエシレバターのクレープを模倣してみたの図(*''艸3`):;*。 プッ(爆)
 
 
そして残念ながら、魂だとか解釈云々言う以前に…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雪印バターとエシレバターの違いが分からなかった…(;´Д`)
 
 
(´-`).。oO(一応名誉のために言っておくと、少量を生地に混ぜても分からないというだけだ!
「エシレ・メゾン デュ ブール」の「ガトー・エシレ」をホントに美味しいと思えるだけの舌はある。多分(笑)
 
 
 
#では、ただのコピーにすぎないレプリカを模倣する事に価値はあるだろうか?
#反対に、模倣する事が不可能な唯一無二のオリジナルは、果たして“本物”と言えるのだろうか?