平成24年tw
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「ば…番場よ!!エースがKOされなくても…命をかけたマウンドを…ゆずるときもある!!い…いけっ、さあそこで戦えっ!!巨人のために勝て!!」「ウフフフ…巨人の先輩!!」「ウフフフ…巨人の後輩!!」【堀内恒夫,番場蛮『侍ジャイアンツ』】 ⚾#kajiwara⚾
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「まあしいていえば高校時代に甲子園に憧れながら運がなくついに出場できなかった。それだけに…速水よりも甲子園で華やかにもてはやされた星や伴に…闘志が燃えるのは当然でしょう」【堀内恒夫『巨人の星』】 #kajiwara
【巨人のエースだった堀内投手は甲子園に出場できなかったのですか? - 巨人V9... - Yahoo!知恵袋】
この入団テスト以外、「巨人の星」では堀内の台詞はほとんどなかった。「侍ジャイアンツ」では台詞があったようだ。
平成25年tw
1938年に川上が巨人に入った時、藤本定義は巨人の監督だった。藤本定義は30年後の1968年には阪神の監督として花形満を星飛雄馬にぶつけ、大リーグボール1号を打倒させた。
原作第1話では星一徹は右投げ左打ち。昭和17年(1942年)と昭和23年(1948年)に登録されているが公式戦の記録なし。
返信先:@npbOP_bot 原辰徳と中畑清は今では関東の2球団の監督として敵味方になっている。星飛雄馬は川上監督から背番号16をもらい、長嶋監督から背番号3を譲り受けたが、もし飛雄馬がもっと遅く生まれて藤田監督の時に巨人に入団していたら、果たして18番を背負えたのかどうか、時々考える。
1967年秋、飛雄馬(16歳)が巨人の入団テストを受けた時、テストに参加していた速水譲次は1968年メキシコ五輪の陸上候補だった。これはアニメでは1972年のミュンヘン五輪候補になっている。
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「今おれが踏み締めている甲子園の土…過ぎし日川上監督も踏み、王さんも踏み、この土から巨人の星座へ駆け登った!おれも…おれもやるぞ!」【星飛雄馬『巨人の星』】 #kajiwara
返信先:@kajiwara_bot💻
川上哲治は星飛雄馬に現役時代の背番号16を譲ったが川上は投手として長く続かず、一塁に転向して打撃の神様となった。その意味で川上の真の後継者は背番号1の王貞治だった。アニメでは川上は飛雄馬に自分の果たせなかった投手の夢を託したことになっていた。
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川上哲治監督追悼鑑賞その2 巨人の星 #52 栄光の背番号16。 川上監督と一徹が北条時頼の鉢の木のエピソードを語る名場面。こういう逸話をストーリーに織り交ぜるのが梶原イズム!
返信先:@BON_SUGAHARA/
川上監督は飛雄馬に背番号16を与えましたが豊福きこう氏が指摘したように川上氏自身は投手として挫折し打者に転向した選手でした。アニメでは川上監督が投手の夢を飛雄馬に託したことになっています。
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返信先:@kyojitsurekishi/
上手く言えないのですが、梶原先生にとってエースナンバーは(特にプロ野球の世界では)特別な価値を見いだしていないように思います。もっと大きなもの、巨人軍のなかでの象徴たるものを飛雄馬には背負わせたかったのでしょうね。 #Kajiwara
返信先:@npbOP_bot 1953年当時、川上哲治は33歳。ネットやコンビニ本にある「星一徹33歳」はこの時期か?星飛雄馬が巨人の入団テストを受けた1967年で16歳とすると1953年当時は2歳。第1話で長嶋に魔送球を投げつけた飛雄馬は1958年当時で7歳。原作に2歳の時の描写はない
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「花形の特訓を知りながら口をつぐみ、むざむざ巨人に不利益をもたらすとは…すぐクビ…処分しますか?」「しなくてよかろう。ふふふ…なぜなら速水は今初めて大巨人の一員になったのだからな。そら感激に泣いとるわ。まあとうぶん二軍で絞るさ」【牧野茂,川上哲治『巨人の星』 #kajiwara
1968年メキシコ五輪。原作「巨人の星」で速水譲次が陸上から野球に転向しなければ出ていたはずの大会。アニメでは1972年ミュンヘン大会に変更。「侍ジャイアンツ」の番場蛮もウルフ・チーフも野球でなく陸上競技か格闘技なら五輪でメダルを狙えただろう。
返信先:@npbOP_bot 1967年、清原和博誕生。この年のシーズン末期、星飛雄馬が巨人にテスト入団。このテストは走力、遠投、打撃の順で、失格者は次のテストを受けられなかった。もし「ドカベン」の山田太郎がこのテストを受けていたら鈍足で脱落し、得意の強肩も打棒も披露できなかっただろう。
平成26年tw
メキシコ(アニメでミュンヘン五輪)陸上候補だった速水譲次が巨人に入ったのは「五輪選手より野球選手の方が人気者だから」。その後、野球はサッカーの後を追いかけて五輪の競技に入れてもらおうと懸命。番場蛮など今なら野球以外のスポーツで五輪に出場していただろう。
平成30年tw
#左利きの日(8月13日)
右投げ左打ち
#巨人の星 の速水譲次(遠投テストでは右投げだったが、打撃テストでは一塁に近い方がいいと判断して左打席に立ち、持ち前の俊足を活用した)
#新巨人の星 の星飛雄馬(旧 #巨人の星 では左投げ左打ち)
#ドカベン の山田太郎
/#巨人の星/
伴宙太は巨人の入団テストを受けた時、100メートル11秒9という自己最高記録で合格。捕手の本領發揮であったはずの遠投テストでは力んでしまったか合格ギリギリの80メートル。豊福きこう氏によるとこの距離では、実際の入団テストでは落第になっていたとのこと。
令和2年tw
最初が走力テストだったので、『ドカベン』の山田太郎がもしこのテストを受けていたら、得意の遠投や打撃を披露する前に鈍足で不合格になっていただろう。ドラフトで指名されてよかったわけだ。
【『巨人の星』で星飛雄馬が受けた入団テスト | 虚実歴史のブログ (ameblo.jp)】
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『巨人の星』で星飛雄馬が受けた入団テストに関する話の続き。 『ドカベン』のキャラクターでは、明訓の殿馬はバントヒットの名人なので足も少しは速いだろう。いわき東高校の足利速太(あしかがはやた)と巨人学園の真田一球は俊足で合格しただろう。
この俊足の足利は、のちに緒方勉とともに東京スーパースターズに入団し、山田太郎たちとチームメートになった。真田一球は『大甲子園』では三塁ゴロを俊足でヒットにして明訓時代の里中・山田を驚かせ、『ドカベン スーパースターズ編』では呉九郎とともに楽天に入団。野村克也監督の指揮下に入った。
このテストは走力、遠投、打撃の順で、走力テストで失格だった人は遠投テストを受けられず、遠投テストで失格すると打撃テストを受けられなかった。『ドカベン』の山田太郎はこの方式のテストでは入団できなかったわけだ。
【『巨人の星』で星飛雄馬が受けた入団テスト | 虚実歴史のブログ (ameblo.jp)】
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水島新司は梶原野球漫画に対抗し、『ドカベン』『野球狂の詩』などで団体競技としての野球漫画を描いた。捕手の場合、捕球と打撃だけでなく遠投能力も必要であることは『ドカベン』で知った。
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「鉢の木」の話。北条時頼が旅の僧になって諸国を見て回っていたという傳説。「水戸黄門漫遊記」の原型か?
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/巨人の星(再放送)[第51~52回]|二度目の魔送球&栄光の背番号16 | テレビドラマに夢中! (ameblo.jp)/
令和3年tw
伴宙太は走力は100m12秒台がやっとだったが入団テストでは11秒9で合格。捕手の本領發揮の遠投テストでは力み過ぎたのか、やはり合格ギリギリの80m。高校時代は打撃で活躍したが打撃テストで失格。それでも補欠合格で入団。
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【1967年秋、星飛雄馬、巨人軍入団テスト合格 | 虚実歴史のブログ (ameblo.jp)】
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【巨人の星(青雲編)第50話「堀内に挑むライバル①」 | 野球侍SAKIのブログ (ameblo.jp)】
令和4年tw
/劇画王梶原一騎BOT(@kajiwara_bot)さん / X (twitter.com)/
「飛雄馬よ川上監督の土産だ!開けてみいっ」「おおっ巨人軍の…ユニフォーム!?せ…背番号16!」「うっ打撃の神様川上の栄光を記念し永久に欠番となるはずの16番を…」【星一徹,星飛雄馬,伴宙太『巨人の星』】 #kajiwara
北条 時頼(ホウデウ ときより)は鎌倉幕府第5代執権。
嘉禄3年5月14日(1227年6月29日)生まれ、
弘長3年11月22日(1263年12月24日)没。
執権在職:自 寛元4年(1246年)、至 康元元年(1256年)。
「鉢の木」の話。
/『巨人の星』の「数式」と「格言」、続き | 虚実歴史のブログ (ameblo.jp)/
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/巨人の星(青雲編)第52話「栄光の背番号16①」 | 野球侍SAKIのブログ (ameblo.jp)/
巨人の星
文庫4巻
佐野源左衛門常世が旅の僧(実は執権・北条時頼)に言った台詞は「かように貧乏はしておりましても いざ戦というときには やせうまにまたがり さびやり ひっさげて 一番乗りにかけつける武士の心がまえは、わすれておりませぬ」だった。
『TeaCupより>鎌倉時代の武士の謙遜』 TWEET(5)
/巨人の星(再放送)[第51~52回]|二度目の魔送球&栄光の背番号16 | テレビドラマに夢中! (ameblo.jp)/
/巨人の星(青雲編)第52話「栄光の背番号16②」 | 野球侍SAKIのブログ (ameblo.jp)/
/ココロヒストリー『鉢木』と「いざ鎌倉」。逆境を乗り切るヒント - YouTube/
令和5年pst
1938年(昭和13年)、川上哲治と吉原正喜が巨人入団。当時の巨人に沢村栄治とスタルヒンがいて監督は藤本定義。これを1967年に川上監督が星一徹との会話で回想し、それを明子が1969年に回想して飛雄馬に語った。
/#昭和レトロ/
/#ズック/という詞(ことば)は「巨人の星」でも出てくる。やはりスポーツ漫画に馴染みがあるのだろう。
⚾#巨人の星⚾
第48話「父・一徹のスパイク」
49「燃えあがる入団テスト」
50「堀内に挑むライバル」
51「二度目の魔送球」
52「栄光の背番号16」
125「ズックのボール」
【巨人の星(不死鳥編)第125話 「ズックのボール」①-1 | 野球侍SAKIのブログ (ameblo.jp)】
【全話配信】巨人の星⚾第49~54話「燃えあがる入団テスト」「堀内に挑むライバル」「二度目の魔送球」「栄光の背番号16」「花形・左門の入団決定」「ゆけ、多摩川グラウンド」...https://t.co/e02vtdseuf
— 虚実歴史・漢字論・ナツメロ (@kyojitsurekishi) December 14, 2023
⚾【全話配信中】巨人の星⚾第49~54話「燃えあがる入団テスト」「堀内に挑むライバル」「二度目の魔送球」「栄光の背番号16」「花形・左門の入団決定」「ゆけ、多摩川グラウンド」 - YouTube💻
「鉢の木」の話は堀井憲一郎氏の「あ。逆だ」でも解説されている。「さすが戦争に行っていた人たちは違う。『鉢の木』(アニメでは北条時頼の名)だけで分かるんだから」という評論。
原作では花形が星飛雄馬のテスト番号47を赤穂浪士四十七士に喩えて応戦、これに対しその場にいた記者の一人が「川上監督は吉良上野介ですか」と言った。 これと「ヤッターマン」で「忠臣蔵」を知ったような気がする。
原作では星飛雄馬が遠投テストに合格した直後、川上監督が過去の遠投記録保持者・多田文久三(ただ ふくぞう)について語った。その選手は投手兼捕手で、本塁近くからボールを120mほど投げて外野フェンスにぶつけたらしい。距離は120メートルくらいらしい。
「新巨人の星」で星飛雄馬は生来の右腕で外野から捕手田淵までバックホームした。
アニメで星飛雄馬が巨人の入団テストを受ける決意をしたとき、一徹は飛雄馬とキャッチボールとノック、泪橋を渡るランニングをしたが、飛雄馬の打力を鍛える場面はなかった。
背番号16といえば野茂英雄の前に川上哲治か星飛雄馬。
背番号17といえば大谷翔平の前にスタルヒンを想い出す。
打撃テストのとき飛雄馬は戸惑ったが、川上監督は「高校野球ではエース級の投手が強打者であることが多い」と言った。川上哲治と王貞治は投手から一塁手・打者に転向した。
背番号16の星飛雄馬は魔球を投げすぎた結果、プロ入り3年で一時引退。作中の川上監督の願いを受け継いだのは飛雄馬ではなく、近鉄からドジャーズに移った野茂英雄だったか。
遠投テストが「捕手の本領発揮」だったことは豊福きこう氏の本で書かれてあった。「捕手が強肩で走者の走塁を阻止すること」は「ドカベン」で知った。山田太郎はこれがうまかったが、伴宙太が走者の走塁を阻止した場面は記憶にない。伴も山田も柔道から野球に移った。
伴宙太は走力テストで100m11秒9を記録。豊福きこう氏によると、これはプロ野球選手の間でも俊足に入るだろうとのこと。すると、このテストではプロ野球選手でも失格する場合があるか。野村克也氏だったらどうだったか。
伴宙太は苦手な走力テストでは自己最高記録で合格し感激。しかし捕手の本領発揮であるはずの遠投は合格ラインぎりぎりで、得意の打力テストはヒット1本で失格、それでも補欠(缺)合格となった。 プロの世界は伴と度胸を馬力を評価しない数字の世界と思われたが、最終的にそれが評価された。
/#巨人の星/
川上監督が評価したのは伴の度胸と馬力で、巨人での伴は星飛雄馬の練習用の捕手にとどまっていた。伴の打撃を開花させたのは伴を中日に移籍させた星一徹だった。
中日に移籍したあとの伴宙太は星飛雄馬との対戦では投飛→三振→一塁アウトで完敗。しかし広島戦で本塁打を放つなど、一時、代打成功率が6割強となり、実況アナウンサーも一徹による伴のトレードを評価。 しかしこれは伴の高校時代の打棒を考えれば驚くに当たらない。
豊福きこう氏は伴宙太について「こんな逸材に2年間も無駄飯を食わせていた川上監督と星飛雄馬に恨みさえ残る」と評していた。
/#巨人の星/
入団テストの正式合格者だった星飛雄馬は3年間(1968、69、70)で3つの魔球を編み出し、一時、引退。 補欠(缺)合格者の伴宙太は3年目で中日に移籍。そのシーズンで引退。 速水譲次は快足で活躍したが、野手の頭上を越える跳躍力や、砲丸投げ仕込みの遠投を生かせず、1968年の1シーズンで退場。
星飛雄馬が受けた入団テスト。もし山田太郎が受けていたら最初の走塁で失格だっただろう。 なお、堀井憲一郎氏によると実際の入団テストでは走力テストで失格した人も遠投テストを受けられたらしい。
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飛雄馬が巨人に合格しても星一徹は禁酒を続行。それは「飛雄馬が巨人の星座で輝く明星になる日まで」だった。「新巨人の星」で一徹は屋台で酒を飲むようになっており、飛雄馬失踪中に一徹は飲酒を解禁していたようだ。
北条時頼と佐野源左衛門の「鉢の木」の話。 原作で佐野源左衛門が言った「いざ鎌倉というときは、やせ馬にまたがり、さび槍ひっさげて」駆け付けるというのは謙遜を通り越した嫌味に思える
【巨人の星(青雲編)第52話「栄光の背番号16①」 | 野球侍SAKIのブログ (ameblo.jp)】
/巨人の星(再放送)[第51~52回]|二度目の魔送球&栄光の背番号16 | テレビドラマに夢中! (ameblo.jp)/
【巨人の星(青雲編)第52話「栄光の背番号16①」 | 野球侍SAKIのブログ (ameblo.jp)】
夏と冬の五輪が同年開催だったとき。
札幌は1968年五輪招致で敗れ、1972年五輪招致を勝ち取った。
1968年、⛷グルノーブル(Grenoble)、🏃メキシコシティ(Ciudad de México、Mexico City)
1972年、⛷札幌、🏃ミュンヘン(München、Munich)
今ではソフトボール🥎だけでなく野球⚾の関係者も五輪で人気を維持しようとしている。隔世の感がある。
令和3年/7月31日 侍ジャパン日本代表 vs メキシコ代表 ハイライト & ホームラン 東京五輪 野球 オープニングラウンド (youtube.com)/
/Japan 🇯🇵 vs USA 🇺🇸 | Baseball Final in FULL LENGTH (youtube.com)/
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【平成20年9月】
〔令和5年師走〕
関連語句
平成20年BLOG
2008-08-22 02:13:57
平成29年BLOG
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⚾『巨人の星』の野村と『ドカベン』の山田、鈍足の強打者の共通点⚾
2020-02-18 08:10:48
令和4年BLOG