父一徹とオズマのコンビに大リーグボール1号を
打ち崩された飛雄馬は、その日以来自宅に引き篭もり
選ばれていたオールスターも辞退した
飛雄馬を心配する姉明子や伴、ライバル花形と左門にも
復活を期待されるも飛雄馬はもはや完全にやる気を
失っていた
更に実家で父一徹が現在コーチで付けている背番号84の
意味を知り、過度に買いかぶられてるとむしろ
ショックを受ける
そんな時姉明子から、自分に贈られた背番号16の
本当意味を伝えられる
巨人軍に入団した川上は、背番号16を与えられる
ちなみに当時はドラフトなど勿論なく、自由競争で
川上には、巨人の他阪神阪急南海が手を挙げたが
川上は契約金300円、月給110円で巨人入り
しかし巨人入団が決まった後に、南海は
契約金500円、月給150円を用意していたと聞き
吉原と一緒に大後悔したという
ちなみに当時の300円は、熊本なら家を1軒建てられる
くらいの金額だったらしい
さて、投手として巨人入りした川上だが
当時の巨人にはエース沢村
投手の頭数不足で川上も投手として入団したが
高校時代の酷使から球威も制球もイマイチ
試合前の投球練習で沢村スタルヒンの横で
投げさせられたからたまらない
自分に比べて圧倒的に速い球を見せ付けられ
自信をなくしてしまう
その日の試合は阪神戦
先発はスタルヒンで、捕手は吉原
どうやらこの年の開幕戦らしい
同期入団の吉原と千葉がスタメン出場
川上はそれをベンチで見ていた
川上はスタメンで起用された吉原を内心
羨ましいと思ったという
一死も取れずここで藤本定義監督(後の阪神監督)に
交代を告げられる、、、
次の登板は、福岡の春日原球場
ここは当時西鉄の本拠地であった
続く明石球場、ここは現在の明石トーカロ球場で
1949年から1959年までは巨人の春季キャンプが行われていた
そして後楽園球場
ちなみに当時は巨人の本拠地というわけではなかった
ついに川上が登板するたびに観客席からブーイング
というより罵声が川上に浴びせられる
これに唖然とする川上
捕手の吉原に「気にすんな」と言われるが・・・・
もはや川上は投手としての限界を感じていた
実際の川上さんの1年目は、当時春と秋の二部制だったが
春は11試合に登板、うち先発は8回で2勝2敗
防御率2.55で完封も1試合あった
秋は1試合のみの登板で、0勝に終わっている
先輩たちが話してる声が川上の耳に入る
「川上なんてのは所詮吉原の刺身のつまよ!
吉原のオマケで付いてきたようなもんさ」
これにはさすがの川上も完全にヘコんだ
「こんな事なら親父の言う通り、鉄道員か百姓
やってればよかったたい、、、、」
そんな川上を励ましたのはやはり吉原だった
「1回や2回炎上したくらいで落ち込むんやなか!」
「1回や2回じゃないたい・・・・ほぼ毎回炎上たい。。。」