第159話 島崎赤太郎ってどんな人? | 言世と一昌の夢幻問答_尋常小学唱歌と早春賦の秘密

言世と一昌の夢幻問答_尋常小学唱歌と早春賦の秘密

故郷・朧月夜・早春賦…名作唱歌をつくった最重要人物がついに証言
…もし吉丸一昌に会えたなら、こんな感じの会話かな、と考えてつづっていきます。
すべて事実に基づくフィクションです。
唱歌や童謡に関するWEBサイトにある俗説や間違いも正していきます。

崎山言世 …… 長野県立大町青雲高校出身。曽祖母が東京音楽学校出身。都内の大学に在籍。1998-。
吉丸一昌 …… 東京音楽学校教授。《早春賦》作詞。『尋常小学唱歌』編纂委員会作詞主任。1873-1916.

言世「先生、吉丸先生」※墓参
一昌「おー、久しぶりだな。命日はまだ10日ほど先だが」
言世「命日だと誰かと顔を合わせるかもしれないでしょ」
一昌「なんだ、隠し事でもあるのか」
言世「そりゃないですが、夢幻問答はやっぱり内緒ですから」
一昌「……」


言世「先日、驚くべきことがあったんですよ。去年(2023年7月)出版された『幸田延』っていう本の参考文献に、なんと、このブログが挙げられていたんです」
一昌「そんな驚くことなのか」
言世「そりゃそうですよ。10歳から読めるクラシック音楽入門書で、著者が著名な音楽評論家・ライターの萩谷由喜子というかた……」
一昌「あの瀧井敬子クンより有名なのか?」
言世「そりゃ比べることではありませんが、同じくらい幸田延に詳しいかたです。2003年に『幸田姉妹』って本を出されて、20年たって今度は青少年向けの伝記です」
一昌「伝記? 伝奇か? どれ、見せてくれ」
言世「……」
一昌「ほー、参考文献インターネット・サイトに『言世と一昌の夢幻問答』第一〇八話から第一二六話、とある」
言世「第108話から第118話までが〔幸田延の『滞欧日記』〕計11回第119話から第126話までが〔派閥争いはホントか〕計7回でした。第127話から第130話までの〔湯原元一とは何者か〕計4回も入れてほしかったです
一昌「それにしても匿名ブログでも参考文献になるのか、事実に基づいているとはいえフィクションだぞ」
言世「あのWikipediaにさえ引用されたことがないのに、こんな立派なシリーズ本に参考文献として認められるなんて夢のような話ですよ」
一昌「どうも君らしくないな、ホントに喜んでるのか」
言世「えへへへ」
一昌「怪しいやつだな、キミは」
言世「付箋を付けたところ読んでみられます? 吉丸一昌が出てくる箇所です」

この二つの問題の解決を迫られた湯原校長は、まず、着任の翌明治四十一年四月、これまで延一人がその任にあった「技術監」を一名増やすことにして島崎赤太郎を新たに任命し、延と同等の権限を持たせた。さらに、自身の第五高等学校(現熊本大学) 時代の優秀な教え子で、東京府立第三中学校の教師であった三十五歳の吉丸一昌を東京音楽学校教授に抜てきして、倫理、歌文(和歌と文章)、国語の授業を受け持たせた。吉丸はその後、「尋常小学唱歌」の編さんにたずさわり、《早春譜》《故郷を離るる歌》などの作詞者として名を上げる国語学者である。(萩谷由喜子『幸田延』2023年)

一昌「国語学者でなくて国文学者としてほしかったな。瀧井クンの書評でたくさん言わせてもらったから、もういいんじゃないか」
言世「そう言わずに」
一昌「早春譜のふは、譜でなくて賦だと言わせたいんだろ」
言世「そりゃ、単なる誤植でしょうから」
一昌「……」
言世「湯原さんが解決に乗り出した2つの問題って分かります?」
一昌「風紀問題と唱歌編纂だろ」
言世「いえ、風紀問題は当たってますが、もう一つは男性教師陣と女性教師陣の格差と反目ですね」
一昌「格差と反目か……。当時の新聞雑誌が散々書き立てた話だ。萩谷クンもメディアに煽られてるわけか
言世「それはどうかわかりませんが、今回、吉丸先生に聞いてみたいのは、この本にも出てくる島崎赤太郎さんの話です。湯原元一さんの話はたくさん聞きましたが、島崎さんってどんな人だったの?」
一昌「この私が知らないと思っているのか」
言世「いえ、疑っているわけじゃ……」
一昌「あのな、私と赤太郎はよく一献交えたのものだ、旅行も何度か一緒に行った」
言世「萩谷さんが島崎さんについて書いた部分を読んでもらえますか」

明治三十九年七月、島崎赤太郎が帰国してきた。これが嵐の始まりだった。

島崎赤太郎といえば、滝廉太郎に続いてライプニッツに留学し、病に倒れた廉太郎の帰国の世話をしてくれた人物である。(中略)男性として唯一の留学経験者でもある島崎教授の帰国は、女性教師たちのいきおいに押されがちの男性教師陣に活力を入れるものとして大いに期待され、ライプニッツ仕込みのオルガンの名手としても、彼はさかんに持て[もて]はやされた。

ところが本人は地味な人柄で、滝廉太郎のようなスター性も持ち合わせていなかった。それに長らく音楽学校を留守にしていたため、学校内の複雑な人間関係も、世間の音楽学校に対するおかしな風当たりもよくわかっていない。そこにいきなり飛び込んで、男性教師陣のリーダーになろうなどとは、彼自身思ってもみないことだった。(萩谷由喜子『幸田延』2023年)

一昌「嵐を呼ぶ男、いいねえ」
言世「先生、ふざける場面じゃないですよ」
一昌「すまん。地味な人柄か? あのなぁ、萩谷クンは赤太郎と話したことでもあるのか」
言世「ない、ない、ないですよ。なくてもそれが事実であるかのように書くのが伝記でしょうからね」
一昌「スター性って何だ」
言世「星のように輝くようなって感じでしょうか」
一昌「花形のことか。スター性を持ち合わせていないね……失礼な物言いだな。新聞記事に引っ張られすぎなんだよ、萩谷クン。赤太郎は帰国してすぐ複雑な人間関係も世間の風当たりも理解したはずだ、彼は怜悧だからな。鈍感な人間のように決めつけるとは酷いじゃないか。赤太郎は江戸っ子で、余計なことは口にしない男だが、スター性が無いとは何事だ。そんなやつが官費留学できるか」
言世「先生、怒らないでください」
一昌「私は赤太郎の名誉を守る!」
言世「この文章のあと、オルガン専攻の島崎さんは留学前にパイプオルガンを見たことも触ったこともなかった、二十八歳でライプニッツに留学し、そこで初めて本物のパイプオルガンをその目で見て、その手と足でおそるおそる弾いた、と書いてあります」
一昌「あはっはっはっは。おそるおそるか、萩谷クン、キミ、見てきたのか。これじゃ小説じゃないか」
言世「続けてこうあります」

このような遅い出発が負い目となっていたせいか、彼は人前での演奏を好まなかった。(萩谷由喜子『幸田延』2023年)

一昌「もういい。やめてくれ。赤太郎が留学したのは何のためか。そりゃパイプオルガンの一つも弾きたかったろう。しかし彼にとってホントに重要だったのは作曲術なんだ、将来を担う子どもに教えるための唱歌教科書をつくる、そのために作曲を学ぶ。それが留学の真の目的だ。パイプオルガンが初めてとか、負い目があったとか、そんなけちな話じゃない!」
言世「そうなんですか」
一昌「パイプオルガンが高級で、リードオルガンが低級という思い込みが素人じみている」
一昌「彼がなぜオルガンの道を目指したと思う?」
言世「そりゃ、讃美歌を奏でる楽器だからでしょ、音色に魅せられたんでしょ」
一昌「模範解答だな。たしかにそうかもしれないが、彼自身は酔うとこう言って謙遜していた。うちの親爺がふいごの楽器をつくってるんで、まあ親爺の手助けのためオルガンをやってるようなもんですよ」
言世「本当ですか、それ」
一昌「ああ、彼の父親は大工だ。西洋から入って来た風琴を見て、それを仕事として作るようになった。赤太郎は父親の影響を受けていたんだろう、よく酒宴で立膝をして首にてぬぐいをかける、そんな癖があったな」
言世「へぇー」
一昌「ありゃ、明治42年だったか、雑誌『新小説』のインタビューに答えて、赤太郎が言っていた。オルガンの音色が神秘的だとか宗教的だとか言うけれども、だだっ広い教会で音響を伝えるにはピアノやヴァイオリンじゃ物理的にだめ、だからオルガンを使っているというだけのことらしい」
言世「何かロマンが崩れるなあ」
一昌「赤太郎だって予科時代はたしかピアノだろ、楽器の演奏技術にこだわりがあったのは少年時代で、学校に入ってからの関心は作曲だよ。和洋調和の曲をどうつくっていくのか、小山さんをはじめ試行錯誤していた」
言世「そういえば、のちに師範科の楽器をオルガンからピアノに変えたのは島崎さんだという話もあります」
一昌「明治34年の春。共益商社楽器店の白井クンらと、北村季晴と島崎赤太郎と田村虎蔵らが集まった。季晴が長野から東京に戻り、滝廉太郎がドイツに行くことになって、歓迎壮行会だ。そこでの話題は唱歌教科書だった。これからの音楽、唱歌を教えていくためにどんな教科書がいいのか、だ」
言世「なるほど」

一昌「地味な人柄とは、どこから出てきた話だ?」
言世「生徒を教える時、口数が少なかったというのが有名ですから、そこからの連想ですかね」
一昌「あれは私が音楽学校に赴任した年だから明治41年だったか、『名家成功列伝』という本が出て、西洋音楽家では島崎クンが一人とりあげられた。たしか、その紹介記事は、天性快活鋭敏にして……人に接して温容掬すべき、だったかな」
言世「そんなことよく覚えてますね」
一昌「暗誦してみなさい、こう言う文章は繰り返し読むと面白い。てんせいかいかつえいびんにして、ひとにせっしておんようきくすべし」
言世「天性快活ですか。地味な人柄とはかけ離れてますね」
一昌「地味とあえて言うなら岡野くんのことじゃないか」

言世「わたし、このあいだ東京芸大の、つまり東京音楽学校の前身ですが、図書館に行って来たんです」
一昌「何のために」
言世「あの芸大百年史には島崎さんのことがあまり載ってない。でもねどこかに資料があるんじゃないかと思って探しに行ったんです」
一昌「あったのか」
言世「ええ『学校音楽』という希少雑誌ですね。昭和8年、つまり吉丸一昌先生が亡くなって17年後、島崎さんが校内で急死されたんです」
一昌「校内で急死か」
言世「はじめ岡野先生が介抱され、医者も駆けつけて大丈夫だということだったのに急変されたそうですよ。それでその翌年一周忌に追悼文を集めて雑誌で特集号が編まれたんですよ。これがコピーです。読んで見られます?」
一昌「いいのか、あの世の俺が」
言世「夢幻問答だから許されますよ。23人が書いていらっしゃる」
一昌「どれ……ホー……」

小出浩平/佐々木秀一/高野辰之/堀内敬三/比留間賢八/吉田信太/永井幸次/渡邊彌藏/草川宣雄/小松耕輔/萩原英一/猪瀬久三/青柳善吾/若狭萬次郎/近藤義次/岡本新市/真篠俊雄/井上武士/上田友亀/小川一朗/小林ツヤ/瀧田卯夫/林松木/

言世「みなさんご存知のかたですか」
一昌「いや、知らない人もいる。面識があるのは高野、吉田、永井、小松、青柳、真篠クンぐらいか」
言世「読んでみられますか」
一昌「福井直秋クンは書いていないのか?
言世「あ、福井さんは『教育音楽』のほうに追悼記事を書いていらっしゃいます、少し短いですが」
一昌「それも読んでみたい」
言世「あー、それは持ってこなかったわ、ごめんなさい」
一昌「……」
言世「……」
一昌「高野クンの文章、彼らしいな。もうすこし素直に書けばいいものを……ひねる癖がなあ、惜しい」
言世「気になる文章ありますか」
一昌「永井幸次クンかな。『酒を飲んだとき悲憤慷慨気焔当るべからざることも』か、あはっはっはっはっは。赤太郎も酒を飲むとけっこう勇ましかった。大阪に行ったとき永井クンにはずいぶん世話になった。彼は大阪音楽学校を立ち上げた、大したもんだ」
言世「……」
一昌「それより、永井クンが書いた、『人よりも幾百倍の恩義を受けながら、氏の晩年に後足で砂をかけるが如き行動を敢てしたものがある』が気になる、誰のことだ?」
言世「小松耕輔さんも『自分の腕とも柱とも信頼した人などに背かれたりして随分悲しい思ひをされたこともあった』と書いておられますね」
一昌「おお、彼もか、何か不吉だ、事件があったのか」
言世「分かんないです、推測は可能ですが……」
一昌「おいおい、知ってるなら教えてくれ。冥途の土産じゃないか」
言世「それは勘弁して下さい」
一昌「そうか。しかし、赤太郎は本当に徳があった、人望があったんだなあ」
言世「確かにね、追悼文はふつう故人を悪く書かかないものですから、割り引いて読まなければならないですが、割り引いてもなお島崎さんの人望を感じることができました」

一昌「言世クン、それで萩谷クンの書いた伝奇、いや伝記『幸田延』をどう総括するんだ?」
言世「萩谷さんが参考文献に『言世と一昌の夢幻問答』を掲げたのはなぜか。匿名の信頼できないブログだとみている人もいるでしょうに。たぶんですが、両論併記、ですね。夢幻問答のような見方もあるんだ、ということを知らせたかったんじゃないでしょうか」
一昌「10歳の読者に対して怪しい匿名ブログをおすすめするのか」
言世「見方によっては、萩谷さんなりの勇気、ライターとしての良心かもしれません」
一昌「キミも大人になったなあ」

言世「それより、先生、ビッグニュースがあります」
一昌「なんだ?」
言世「あの演劇が再演されることになったんです。8年ぶり4度目ですね」
一昌「あの長い表題の、……《瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々》、脚本は登米裕一クンだったな」
言世「そうです。2024年5月、キャストが違うし、下北ですからね、どんな舞台になるか」
一昌「創作なんだろう、もう不粋なことは言いたくないが、岡野貞一クンが主役だと思うと、なかなか複雑な気分だな。あの地味で苦労人の岡野クンにそれこそスター性があったのか」
言世「今年は文部省唱歌110年の節目ですからね、またお知らせしますよ」
※事実に基づくフィクションです。

 

 

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