崎山言世 …… 大町青雲高校3年生。文芸部所属。曽祖母が東京音楽学校出身。1998-
吉丸一昌 …… 東京音楽学校教授。<早春賦>作詞。『尋常小学唱歌』編纂委員会歌詞主任。1873-1916。
吉丸一昌 …… 東京音楽学校教授。<早春賦>作詞。『尋常小学唱歌』編纂委員会歌詞主任。1873-1916。
言世「先生、ちょっと困った問い合わせです。吉丸先生は、東京音楽学校校長の湯原元一の右腕だそうですが、そのわりにはこの湯原さんについて話す機会が少なくありませんか。本当に湯原元一という人物を知っていらっしゃるのでしょうか」
一昌「おい、ずいぶん挑戦的じゃないか」
言世「先生、最後まで聞いてください。……湯原元一について知っていることをちゃんと披瀝してくださいませんか。ただし、瀧井敬子さんが『幸田延の滞欧日記』に書いた以外の話題を述べてください、だそうです」
一昌「誰だ、こんな問い合わせをよこすヤツは」
言世「匿名です。どうみても挑発されているような感じがします。瀧井先生のような通り一遍の話ではいけない、という意味も込められているのかもしれません。吉丸先生、どうしますか」
一昌「あのなあ、百年前の記憶をたどるのは楽じゃないんだぞ、分かってるのか」
言世「そりゃそうです」
一昌「私がいい加減な発言をしてしまうと迷惑になるから、いつも頭の整理をしてるんだ、その苦労も分かってほしい。んー、湯原元一についてか……よし、話せるだけ話してみようじゃないか」
言世「さすが吉丸先生です。受けて立つ姿勢がすばらしい。武士道ですね」
一昌「ことよクン、どうも癪に障るんだ、キミの言い方は」
一昌「おい、ずいぶん挑戦的じゃないか」
言世「先生、最後まで聞いてください。……湯原元一について知っていることをちゃんと披瀝してくださいませんか。ただし、瀧井敬子さんが『幸田延の滞欧日記』に書いた以外の話題を述べてください、だそうです」
一昌「誰だ、こんな問い合わせをよこすヤツは」
言世「匿名です。どうみても挑発されているような感じがします。瀧井先生のような通り一遍の話ではいけない、という意味も込められているのかもしれません。吉丸先生、どうしますか」
一昌「あのなあ、百年前の記憶をたどるのは楽じゃないんだぞ、分かってるのか」
言世「そりゃそうです」
一昌「私がいい加減な発言をしてしまうと迷惑になるから、いつも頭の整理をしてるんだ、その苦労も分かってほしい。んー、湯原元一についてか……よし、話せるだけ話してみようじゃないか」
言世「さすが吉丸先生です。受けて立つ姿勢がすばらしい。武士道ですね」
一昌「ことよクン、どうも癪に障るんだ、キミの言い方は」
言世「すみません。それでははじめに、瀧井さんが書かれた湯原さんの記述です」
明治四十(一九○七)年六月、高嶺に代わって湯原元一が校長として就任してきた。文部官僚であった湯原元一の経歴については、日本公文書館の公開資料の辞令および関係論文などを調べた結果、以下のことがわかった。湯原元一、文久三(一八六三)年、肥前国佐賀に生まれる。明治十三(一八八○)年、東京帝国大学医学部予備門に入学。明治十七(一八八四)年に卒業して、同大学医学部本科へと進学したが、卒業には至らなかった。医師であった父や周囲の強い期待に反し、医学の世界に入ることができなかった湯原は、そこで大きく舵を切って、教育の道へと転身した。明治二十一(一八八八)年、福岡尋常中学校雇教員となり、翌年には福岡県立尋常中学校「修猷館」の教員となった。明治二十四(一八九一)年、山口高等中学校教授に就任。明治二十八(一八九五)年、熊本の第五高等学校教授となり、翌年三月二十五日付で宮崎県尋常中学校長へ異動。明治三十一(一八九八)年、新潟県尋常中学校長に就任したのち、新潟県庁へと出向。さらに北海道庁へ出向して事務官をつとめたのち、明治四十(一九○七)年六月、四十四歳のとき、東京音楽学校長になったのである。(瀧井敬子・平高典子『幸田延の滞欧日記』p22-23)
一昌「いきなり文部官僚か。瀧井クン、あの世の湯原さんが失笑してるぞ」
言世「文部官僚じゃないんですか」
一昌「私が死んだあと、湯原さんはどんな道を歩んだ」
言世「えーっと……ウィキペディアによりますと……大正6年に東京女子高等師範学校校長、大正10年に東京高等学校校長、昭和6年死去とあります。あ、ここにもちゃんと文部官僚と書いてありますよ」
一昌「ウィキペディアなど信用ならんと言っただろ。ことよクン、官僚というのはどんな人たちを指すか知ってるのか」
言世「国立大学の学校長は官僚なんでしょうか」
一昌「官僚というのはお国のために本庁で働く役人のことだろう。湯原さんが文部官僚と言うのなら何という役職か言ってみろ」
言世「分かんないです」
一昌「湯原元一という人は、教育界の素浪人とまで言われた人だ。なんで文部官僚になってしまうんだ」
言世「官僚じゃないんですね」
一昌「官僚じゃないが、官僚より頭が切れる。あの文部次官の沢柳政太郎さんが一目おくくらいだ。文部省の中枢ではなく、外部にいたからこそ、湯原元一の能力が発揮されたのだ」
言世「文部官僚じゃないんですか」
一昌「私が死んだあと、湯原さんはどんな道を歩んだ」
言世「えーっと……ウィキペディアによりますと……大正6年に東京女子高等師範学校校長、大正10年に東京高等学校校長、昭和6年死去とあります。あ、ここにもちゃんと文部官僚と書いてありますよ」
一昌「ウィキペディアなど信用ならんと言っただろ。ことよクン、官僚というのはどんな人たちを指すか知ってるのか」
言世「国立大学の学校長は官僚なんでしょうか」
一昌「官僚というのはお国のために本庁で働く役人のことだろう。湯原さんが文部官僚と言うのなら何という役職か言ってみろ」
言世「分かんないです」
一昌「湯原元一という人は、教育界の素浪人とまで言われた人だ。なんで文部官僚になってしまうんだ」
言世「官僚じゃないんですね」
一昌「官僚じゃないが、官僚より頭が切れる。あの文部次官の沢柳政太郎さんが一目おくくらいだ。文部省の中枢ではなく、外部にいたからこそ、湯原元一の能力が発揮されたのだ」
言世「話を 先に進めていいですか」
一昌「では、経歴からだ。湯原先生が東京大学医学部予科に入学したのは明治13年11月だ。予備門ではない、このころは予科だ。当時は帝国大学医科大学ではなく東京大学医学部が正しい。そして明治17年11月に東京大学予備門を卒業し、医科大学本科に進んだが、本科2年の中途で辞めた。結局、正確に言うと、湯原さんは東京帝国大学を卒業していない」
言世「先生、だめです。話が細かすぎて面白くありません。予備門でも予科でも、医科大でも東大医学部でも、かまいません。ここでは厳密じゃなくてもいいんです。要するに東大中退ですね」
一昌「では、経歴からだ。湯原先生が東京大学医学部予科に入学したのは明治13年11月だ。予備門ではない、このころは予科だ。当時は帝国大学医科大学ではなく東京大学医学部が正しい。そして明治17年11月に東京大学予備門を卒業し、医科大学本科に進んだが、本科2年の中途で辞めた。結局、正確に言うと、湯原さんは東京帝国大学を卒業していない」
言世「先生、だめです。話が細かすぎて面白くありません。予備門でも予科でも、医科大でも東大医学部でも、かまいません。ここでは厳密じゃなくてもいいんです。要するに東大中退ですね」
一昌「すまん、瀧井クンの記述を意識してしまった。湯原さんは、解剖が嫌で医学を辞めたと言っておられた」
言世「ホントですか、それ。いきなり作り話はやめてくださいね」
一昌「いやホントだ。解剖実習に満足できない、これなら解剖書を読んでいれば十分と思い、そのうち医学への熱意が失せたそうだ。先生と喧嘩もして、退学したらしい」
言世「ホントですか。どうしてそんなことまで」
一昌「私も親から医者になれと言われ続けて、結局医者にはならなかった。湯原さんの話はよく覚えている」
言世「んー、にわかには信じがたいですが、それで」
一昌「どういう伝手か聞いていないが、明治21年に福岡尋常中学校の教員として雇ってもらったそうだ」
言世「医者になれず、地方で雇いの教員ですか」
一昌「しかしその後、教育学に目覚め、あのハウスクネヒトと出会った」
言世「なんですか、そのハウスクネヒトって」
一昌「ドイツから来た気鋭の教育学者だ。東京帝大の特約生教育学科で教鞭をとった。湯原さんはその講義を聴いたわけでなく、ドイツ語が分かるということでハウスクネヒトに直接会う機会があったそうだ。その時、リンドネルの翻訳を勧められ、それから独学でドイツ教育学を片っ端から読み、ついに明治26年春、リンドネルの翻訳書を上梓した。それで湯原元一の名は教育界に知れ渡った。師範学校でたいてい教科書として採用されたからなあ。湯原さんは、孔子も孟子もヘルバルトも結局同じ教えなんだとおっしゃっていたなあ」
言世「んー、詳しいですね、ホントですか」
一昌「しかし湯原さんは大笑いしていたぞ。私は教育学者に成りすましただけだ、とな」
(つづく)
※事実に基づくフィクションです。