第119話 派閥争いはホントか1 | 言世と一昌の夢幻問答_尋常小学唱歌と早春賦の秘密

言世と一昌の夢幻問答_尋常小学唱歌と早春賦の秘密

故郷・朧月夜・早春賦…名作唱歌をつくった最重要人物がついに証言
…もし吉丸一昌に会えたなら、こんな感じの会話かな、と考えてつづっていきます。
すべて事実に基づくフィクションです。
唱歌や童謡に関するWEBサイトにある俗説や間違いも正していきます。

崎山言世 …… 大町青雲高校3年生。文芸部所属。曽祖母が東京音楽学校出身。1998-
吉丸一昌 …… 東京音楽学校教授。<早春賦>作詞。『尋常小学唱歌』編纂委員会歌詞主任。1873-1916。

言世「吉丸先生、幸田延さんの一連の話題に意見をちょうだいしました」
一昌「……」
言世「吉丸先生の熱弁はよく分かりましたが、女性の研究だから湯原元一校長と島崎赤太郎氏を悪者にしている、という見方は説得力に欠けると思います。最近出版された『明治のワーグナー・ブーム 近代日本の音楽移転』という本ををまだお読みになっていないのでしょうか。竹中亨という男性の歴史学者のかたですが、膨大な資料を調べたうえで、派閥争いのすえに湯原・島崎両氏が幸田延を音楽学校から追い出した、と書いていらっしゃいます。幸田延さんが追い出されたというのはほぼ定説なのではないでしょうか、とのことです」
一昌「なに、定説だと、バカを言うな」

言世「冷静に、冷静に行きましょう。私もその『明治のワーグナー・ブーム』をさっそく読んでみました」
一昌「それで」
言世「たしかに相当細かく調べられていますね。竹中亨さんはドイツ近現代史・日独文化移転史を専門になさっています。この著書は日独の音楽関係の集大成のような本らしくて、序章・補章・終章を含めて全10章について出典を示す注釈の数がなんと631個もあるんです」

一昌「立派な史学者だということなんだろう。しかしな、何度も言っているが、参考文献の数とか注釈の数とか、内容は数に比例するわけじゃないんだよ」
言世「竹中さんという方は史学者として文献に基づく記述をなさっている、ってことを言いたいんです」
一昌「文献に基づいているはずが、なぜ湯原元一さんと島崎赤太郎クンに汚名を着せることになるんだ
言世「ワーグナー・ブームというタイトルですが、けっこう幸田延さんの休職の話も書き込まれています。残念なことに、湯原元一校長の右腕であるはずの吉丸一昌っていう名前が出てきません
一昌「そんなことはどうでもよい。自分の名前が目立てばいいと思ったことはない。竹中クンが書いている部分を見せてみなさい」

言世「とりあえず、〔第5章 二人の洋楽徒〕のなかの、音楽家たちの派閥争い・派閥争いの激化・幸田延の放逐という3つの項目ですね」

幸田への非難は、彼女個人にとっても大変な負担であったろうが、それ以上に重大だったのは、これが東京音楽学校内の派閥争いと絡んでいた点である。(竹中亨『明治のワーグナー・ブーム』p218)

一昌「いきなり派閥争いか。何を根拠に……。幸田延さんとユンケル氏が組んだ、というわけか」
言世「ユンケル氏というのは」
一昌「14年間ほど東京音楽学校にいたお雇い外国人教師だ。私より5歳上、明治42年だと、41歳だな」
言世「竹中さんによると、幸田延さんとユンケルさん、校内の実力者とアクの強い策士が派閥を作っていたというんですね」

その二人が組むなら、敵が生まれるのは必然である。こうして教員間に溝ができ、やがて派閥が生まれていった。何しろ、洋楽という狭い世界での出来事である。対立が次第に卒業生までも巻きこんでいくのもまた自然の流れであった。
さらに厄介なことに、音楽学校当局も教員間の対立に積極的に絡んだ。本来なら校長は中立的な立場に立って、両派を周旋すべきところである。しかし、学校運営が事実上、幸田やユンケルなどの意向に左右されるという現状に、校長としては当然、面白くないところがあったに相違ない。派閥対立は、学校側からしてみれば、幸田やユンケルの発言力を殺ぐ好機であった。(竹中亨『明治のワーグナー・ブーム』p219)

一昌「竹中クンが言う、もう片方の派閥はいったい誰なんだ」
言世「それは具体的には書いてないですね」
一昌「湯原さんと島崎クンなのか。書くならもうすこしはっきり書いてもらわんと、批評のしようがない
言世「どういう意味ですか」
一昌「派閥というものは当時の新聞が作り出した幻想だ、記事を面白おかしくするための。音楽の専門雑誌に派閥などという言葉は出てこないはずだ」
言世「職員の間に軋轢があったんじゃないんですか」
一昌「そりゃまったくなかったとは言わない。性格が合わない、ウマが合わない、それくらいは人間社会のどんな組織だってある。しかしそれを派閥対立とまで言えるのかどうか、竹中クンは仔細に検討しているのか
言世「……いえ、そこまでは読み取れません」

一昌「明治35年に小山作之助さんが休職、明治36年に山田源一郎さんが休職……休職満期は同じ明治38年だけれども、事実上この2人が休職になった後、幸田延さんにとやかく言える人はもう誰もいなかったんだよ」
言世「なぜそんなにお詳しいんですか」
一昌「なぜと言われても……。特に求心力のあった2人の辞任は音楽学校にとって大きな損失だった。結果としてそれは幸田延さんの辞任以上に影響を残したといって過言でない」
言世「……」
一昌「明治38、39年ごろから教員の間に溝があったというのはその通りだ。しかし、派閥と言えるだけの結束した集団をつくって争っていた事実はない。派閥対立というのではなく、求心力のある人が誰もいない、いわば空の状態だったんだ」
言世「くう、空の状態ですか」
(つづく)
※事実に基づくフィクションです。