いい加減小学生バージョンから変更しなければと思い、小窓用変更しました。
中学生組の通っている学校の歴史の本です。
どうも、
ようやく前回の記事で、ちょっとずつ進みだしたこちらのシリーズ。
もう少し進めておきたいと地道にやっております。
心配になってきましたよ(;´д`)。
ということで、だれも見る方がいなくても、なるべく夏休み中にもコツコツ出していきたい‼
と思う次第であります(・∀・)/。
そして、既にお気づきの方もおるかと思いますが、タイトルにサブタイらしきものを付けさせていただこうかと。
ただでさえ長文なもので、ちょっとでも誰?とおもっていただけるようなサブタイの方が面白いのではなかろうかと思っております。
ちなみに、先日行われたこども1の社会のテストの結果。
7点でしたorz・・・。
思わず「10点満点だよね?」と聞き返しましたよ(泣)www。
なんでも、今までの先生の出題傾向から出ていないところから出てきたらしく、クラスのみんなも軒並み呆然としていたらしいのですが・・・。
それにしたって一桁はないだろうと。
高校なら赤点ですからね。
夏休みに取り戻して、二学期には少しでもプラスになるようにしてもらいたいものです。
このたび、春から受験生な子ども1
。
そして、中学入学した子ども2。
この年齢で、「やりたいこと」や「進路」を決めるのは、すごく難しいことだと思います。
でも、「高校受験」は人生の最初のハードルなのではないでしょうか?
今のところ、子ども1は実感がないようですが、できれば少しでも成績を上げて、自分のやりたいことを目指して、希望する学校に入ってもらいたい!!
成績が下よりは上のほうが、選ぶ選択の幅も広がると思いますし
。
「受験」という人生のハードルに少しでも役に立つのなら、一肌脱いでもいいんじゃね
?
ということで、昨年から少しずつ準備をしておりました。
もちろん、リアルで子供のため、というのもあるのですが
あわよくばこれでお絵かきの修行になれば・・・、と邪な思いも多少ww。
いや、むしろこれを口実に堂々と修行の場が作れる・・・。
などと考えておりました。
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ちなみに前回の記事がこちら。 → その1、その2、その3、その4、その5、その6
イラストなしの番外編もあります。→番外編1、番外編2、番外編3
自分の思い込みの激しい解説付きでお送りしますので、違うやろ!!とツッコまれそうな文章となっていると思いますが、あくまでワタクシ個人の解釈ということでヨロシクちゃんです。
歴史に興味のない方は華麗にスルー('ω' )))≡3ーッでお願いしまーす。
長文になりますので、お時間のある方は文章にお付き合いくださいませ。
お時間のない方は、写真と年代だけでOK牧場です。
今回は第7回目。
今回、ご紹介する人物は・・・・。
はい、この人です。はりきってどうぞ~。
あれ?
なんか検索したら、でてきましたおww。(画像お借りしてきましたww)
すみません(^~^)。
こちらの方もステキなのですが、本日はこの方じゃなくて、こちらですww。
画像お借りしてきましたww。
キリッ。
当時としてはキリっと系の男性でイケメン枠に入るのでしょうかね?
本日は、
すがわらの みちざね
菅原道真公。
個人的に「みっちゃん」と呼ばせていただきましたww。
模写してみて、キリッとした印象なんですよね。
「曲がったことは大嫌い!!」みたいなww。
某芸人さんのような雰囲気が感じられます。
♫曲がったことが大嫌い~wwの某芸人さんww。
本当にこんな感じだったかは想像の産物といいますか、盛ってる肖像画はナンボでもありますからね~(^▽^;)。
ちょっと脱線しましたが、
「学問の神様」としてもよく知られているキリっとした印象の強い彼は、もしかしたらその印象通りの人だったのかもしれません。
この人ほど、「政治に振り回された」ひとはいなかったのではないでしょうか?
父は菅原是善、母は伴氏の家系。
母方の伴氏は大友旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している。
子は長男・高視など多数おり、高視の曾孫・道真五世の孫が孝標で、その娘菅原孝標女
(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。
菅原家は、曾祖父・古人公の時代に、学者として朝廷に仕えていました。
また、道真公の祖父は私塾を設け、同所からは朝廷の要職に官人を多数輩出し、菅原家は一大学閥となっていきます。
道真は、幼少の頃より学問の才能を発揮しわずか5歳で和歌を詠むなど、「神童」と
呼ばれていたそうです。
そんな中でも道真は、奢ることなくさらに勉学に励み、学者としての最高位まで上り詰めるのでした。
さらに学問だけでなく、弓にて百発百中の腕前を披露したり、文武両面な人物として、その名を馳せていったようです。
文武両道のマジメな青年。
モテない要素はないと思うのですがw。
国民的アニメの某青いタヌキさんに出てくる、出来○君のようですねw。
地方に赴任中には赴任先の国を立て直し、その実績などが当時の天皇に認められ京都に戻り、天皇の厚い信任を受け、ますます政治の中枢で活躍していくようになっていきます。
寛平6年(894)年、遣唐大使に任命されるものの、唐の国情不安と衰退を理由に遣唐使の廃止を訴え、そのまま遣唐使は廃止されることとなります。
廃止したことにより、後の国風文化の開花に大きな影響を与えました。
(国風文化についてはまた後日)
今までの活躍と業績が認められ、天皇のより厚い信任を得た道真は、次第に力を持つようになってきた皇室の外戚であった藤原氏の牽制役として要職を歴任していくようになります。
天皇の信頼が厚い道真は、学者ながらも官職を飛び越して中納言に任じられたり、自分の娘が天皇の女御になったりと婚戚関係を結んでいくことで大きな力を持っていくようになっていきます。
最終的には右大臣にまで上り詰め、当時左大臣になっていた藤原時平と肩を並べるほどになっていきました。
ただし、勢いのあるものというのは嫉妬や妬みを受けるものなのかもしれません。
急激に力を持った道真に対して、藤原氏や地方の貴族などの反発も増えていったようです。
あるとき道真は、政敵である藤原氏の策略により身に覚えのない罪によって九州の太宰府へ
突如左遷されることとなりました。
力を持っていたとはいえ、藤原氏のほうが一枚上手であったようです。
家族と別れ、太宰府に左遷されるときに詠んだ有名なうたがあります。
東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
(春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。
主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。)
大宰府では、左遷と言いながらも、実質の流刑状態。
衣食もままならぬ厳しい生活を強いられながらも、皇室の安泰と国家の平安、また自身の潔白をひたすら天に祈りましたが願い届かず、延喜3年(903)2月25日、道真はその涯を閉じるのでした。流刑から2年後のことでした。
道真の死後、京都では天皇の子や孫、天皇自身の崩御、そして敵対していた藤原時平の急死など道真の一件に関わっていた人物に次々と不幸が訪れます。あまりの不幸の連続に道真の怨霊が災いをもたらしているのでは?と恐れられるように。
また、このころ天変地異も頻発するようになり、これもまた道真の呪いではないかと言われるようになります。
怨霊の祟りを恐れた朝廷は事実関係を調べ無実であることを証明。太宰府へ流された時の官位から右大臣へ戻し、70年後には左大臣・後には官僚の最高位となる太政大臣の地位を贈ります。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び戻されたそうです。
無実の罪によって非業の死を遂げた道真に対し、朝廷は「天満大自在天神」としての位を贈ります。そして天神となった道真の亡骸が眠る太宰府に朝廷が創建したのが太宰府天満宮です。太宰府天満宮には菅原道真の霊廟があるそうです。
また、天変地異の時に御所に落雷があったのも道真の祟りとされ、火雷神が祀られていた京都の北野に社を建て祟りを封じようとします。これが現在の北野天満宮で、太宰府天満宮よりも約30年遅い947年に創建されています。
太宰府と北野天満宮という二つの社を建て、天神として崇めるほどに道真は死んでなお恐れられていた存在だったのかもしれません。
今はたくさんの人たちが「学問の神様」として道真公を崇めており、現代においても影響力が続いているというのはすごいことだと思います。
菅原道真のお話はこれにて終了。
今回も、かなりの長文となりましたが、お付き合いいただきましたみなさま、
お読みいただいてありがとうございました。
次回予告は当代随一の色男と呼ばれた人が登場。
さて、いったい誰のことでしょう?ww。
ではまた(*^-^*)ノ~~マタネー。