どうも、こんばんは。

久しぶりに更新した記事で前回ようやく奈良時代が終了。

 

今回からは、「平安時代」に突入です。

 
猫しっぽ猫からだ猫あたま猫しっぽ猫からだ猫あたま熊しっぽ熊からだ熊あたまビーグルしっぽビーグルからだビーグルあたま
 
このたび、春から受験生な子ども1真顔
そして、中学入学した子ども2。
 
この年齢で、「やりたいこと」や「進路」を決めるのは、すごく難しいことだと思います。
でも、「高校受験」は人生の最初のハードルなのではないでしょうか?
 
そして、受験生の子どもを持つ親や家族はそれはそれは気を使うと風の噂に怯えておりますガーンガーンガーン
今のところ、子ども1は実感がないようですが、できれば少しでも成績を上げて、自分のやりたいことを目指して、希望する学校に入ってもらいたい!!
成績が下よりは上のほうが、選ぶ選択の幅も広がると思いますしニコ
 
「受験」という人生のハードルに少しでも役に立つのなら、一肌脱いでもいいんじゃねウシシ

ということで、昨年から少しずつ準備をしておりました。

 

もちろん、リアルで子供のため、というのもあるのですが

あわよくばこれでお絵かきの修行になれば・・・、と邪な思いも多少ニヤww。

いや、むしろこれを口実に堂々と修行の場が作れるニヤリニヤリ・・・。

などと考えておりました。

 

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ちなみに前回の記事がこちら。 → その1その2その3その4

 

イラストなしの番外編もあります。→番外編1番外編2

 

自分の思い込みの激しい解説付きでお送りしますので、違うやろ!!とツッコまれそうな文章となっていると思いますが、あくまでワタクシ個人の解釈ということでヨロシクちゃんです。歴史に興味のない方は華麗にスルー('ω' )))≡3ーッでお願いします。

 

長文になりますので、お時間のある方は文章にお付き合いくださいませ。

お時間のない方は、写真と年代だけでOK牧場牛しっぽ牛からだ牛あたまです。

 

 

今回は第5回目
「平安時代」をスタートするのにご紹介する人物は・・・・。
 
はい、この方です。はりきってどうぞ~。
 
         かんむてんのう
「桓武天皇」です。
 
画像をお借りしてきましたお。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚

↓上の絵を模写してみましたが、いろいろ面倒になって省略してしまいました。
飾りが難しい・・・・。やっぱり似てない・・・チーンチーン
ちなみに前回のつぶやきでのお絵かきはこれではありませんww。
似てないダメージを受けつつチーンチーン、解説へと参りますww。



 
この方を語らずして平安時代は語れません。
 
なぜなら・・・、
平安京に遷都した人
だからであります。\_( ゚ロ゚)ここ重要!
 
この人が794年に前の都である長岡京から、現在の京都にあたるこの場所に新しい都を造ったのが「平安京」です。
語呂合わせとしましては、「泣くよウグイス平安京」というのが一般的ではないでしょうか?
 
この後、この都で約400年平安時代は続くことになる日本の歴史の中でも長く続く時代となります。
 
さらに一節では明治2年まではこの場所が日本の首都のような機能を持っていたと言われているくらいこの地に都ができたというのは大きかったということです。
 
東京を首都とし、首都機能を移転させ天皇を東京へ移動させた際には、「遷都」ではなく、東京奠都(とうきょうてんと)と呼ばれたそうです。
 
そのため、京都の人たちは今でも東京に「都を貸している」という感覚だと言われているそうです。天皇の玉座は実際に京都の「京都御所」内に現在も保管しているそうですし、「遷都」という言葉がない以上、いずれは戻ってくるというのもわからなくはありませんね。
 
そして、桓武天皇のことを調べているうちに面白いことがいろいろありましたのでちょっと話題に。
 
エピソード1.
彼は朝鮮系の血を引いている
桓武天皇の母親である高野新笠(たかの の にいがさ)は、百済(くだら)(現在の朝鮮半島にあった国)から来た渡来人の先祖を持つ帰化人でした。
当時は渡来人の身分が低く、天皇の側室となって子を産んでも立場は低いままだったようです。そのため、桓武天皇も若い頃は王子ながら扱いは良くなかったようです。

 

 

エピソード2.
彼はもとから天皇・皇太子ではなく、官僚をしていた。
もともとは、王子なのでまあ天皇の親戚の部類に入ると思うのです。若い頃の名前は山部王(やまべのおう)といいました。母親の身分が低いこともあり、特に目立つこともなく真面目に生活していたのでしょう。大学頭や侍従に任じられ、官僚として働いていたようです。
 
そんな彼の人生が変わり始めるのは、父親である白壁王が光仁天皇として即位することになってからです。
 
父親が天皇となりましたが、自動的に皇太子になっていたわけではなく異母弟(身分のせい?)が皇太子になっていたため、政治に関わることなく過ごしていたようです。
 
ただ、政争というのはいつの時代もあるようで、政治の裏側で藤原氏が絡みながら皇太子が廃位され、その座を追われてしまいます。
 
皇太子の座をいつまでも空席とするわけにはいかず、773年に山部王が皇太子になります。
その後、父である光仁天皇が病気のため天皇を続けていくことは困難となり皇太子だった山部王が781年に桓武天皇として即位することになりました。
 
エピソード3.
長岡京への遷都は「政教分離」のため
即位しても、この時代は決して安定しているとは言えず、謀反事件・凶作・流行病など良くないことが続き、長岡京への遷都を決めます。
もともとあった平城京では、仏教への信仰の強さのためか僧侶が力を持っており、贅沢をしたり、果ては政治に口を出す者もいたそうです。そういうしがらみからの一掃を考えた結果、長岡京への遷都を決めるのです。
 
エピソード4.
平安京への遷都は「祟り」をおそれたため
長岡京への遷都をしたのですが、同母弟であり皇太子でもあった早良親王が遷都責任者であった藤原氏への暗殺容疑がかかり、廃太子の上流罪になりました。その配流中に死亡。
その後、自分の妻たち・母が相次いで亡くなり、皇太子になった息子の親王が重病にかかりました。さらに悪いことに都に天然痘が流行したり、洪水など自然災害も相次ぎました。
 
あまりにも 相次ぐ不幸は無念の死を遂げた早良親王の祟りではないかと民衆の噂になり、
祟りを受けるような天皇と反発されるのを恐れ、また相次ぐ災害への連鎖を断ち切ろうと
「平安京」への遷都を決めたと言われています。
 
エピソード5.
政教分離とはいえ、仏教保護に努めた

平城京の時代に、既存の仏教が権力を持ち政権にも多大な影響を与えていたことに嫌気がさし、仏教への風当たりを強くしました。その一方で、遣唐使の派遣により唐への留学をしていた最澄と空海に対しては、新しい仏教を持ち帰ってきたということで、保護する姿勢を見せ、日本の仏教に新しい風を吹かせました。

その結果、

最澄が開いた天台宗からは浄土宗や日蓮宗などさまざまな宗派が派生することになり、

真言宗の祖である空海弘法大師として自身が信仰の対象ともなっていきます。

 

エピソード6

天皇自ら行政の大改革をした
以前よりあった律令制などの行政への再建・見直しのため改革に天皇自ら乗り出します。
これまでは百姓に課してきた兵役を改め、郡司と呼ばれる役人の子供たちから集団を作りその代わりとしたのです(健児制)。
また、田畑の整理の手続きを減らしたり、労役の期間も短くするなどにより百姓は兵役から解放され、農作業に力を入れることができ生活を安定させるようにしました。
 
特に地方の役人などに関しては目の届かないところのため緩い体制であったものをより厳しく地方への監督をするように改めたそうです。
 

今で言えば、総理大臣が一地方の知事や市長や町長と呼ばれる首長に直接改革を行ったようなものです。

 

ここまで天皇が直接指示し、改革を行うというのは異例のことだったようです。

ただ、それはもともと自分が官僚として働いていたため、その時の経験が後の行政改革の基礎になったようです。

 

エピソード7

蝦夷討伐を積極的に行った
以前より中央政権への反発的な蝦夷地へのさらなる支配に積極的だった桓武天皇は、蝦夷地への討伐を行っていたそうです。ただ、蝦夷の反乱軍リーダー阿弖流為(アテルイ)の圧倒的な強さを前に歯が立たなかったようです。
2012年、JRねぶた実行グループより「東北の雄 阿弖流為」(知事賞受賞)
画像お借りしてきました。
 
天皇の命を受けた討伐隊の惨敗により、体面を傷つけられた桓武天皇は次の討伐で同じ帰化人であった坂上田村麻呂などを含む、選抜隊で戦いを挑みます。
何度目かの討伐では田村麻呂を征夷大将軍とし、阿弖流為との戦いは最終局面へ。
 
結局、阿弖流為の降伏によりと蝦夷の戦いは終了しますが、朝廷側は再び反乱を恐れ、処刑という判断を下します。
敵でありながら、リーダーとして蝦夷を引っ張ってきた阿弖流為を優秀な人物と認めていた田村麻呂は阿弖流為の助命を嘆願しますが、受け入れられず処刑されてしまいました。
 
その後、桓武天皇の死去・討伐遠征の費用などいくつかの条件が重なり、蝦夷討伐は曖昧な形で終わりを迎え、完全に支配することはできなかったようです。
 
阿弖流為の死は残念な結果となりましたが、この時点で平定されなかったというのは蝦夷地方にとってはよかったのかもしれません。
蝦夷地はこのあと平泉藤原家などの武士によって独自の道を歩んでいくことになります。
阿弖流為の死は無駄にはならなかったのかもしれませんね。
 
 
 
ここまで、さまざまなエピソードをご紹介してきました。
 
でも、彼はこのエピソードの他にも重要なことに関わっているようなのです。
それは・・・
 
桓武天皇は、武士の礎になった。
ということです。
 
どういうことかといいますと、
桓武天皇はたくさんの皇子がいたために、後の政権争いなどを恐れ「臣籍降下(しんせきこうか)」をして皇族としてではなく、姓を与え臣下として生活するようにさせたのです。
 
それが、「桓武平氏」をはじめとする後の「平氏」誕生のきっかけとなります。
平氏は後の平清盛や平将門が出てくることになります。
 
ちなみに「源氏」も元をたどると「清和源氏」という清和天皇の臣籍降下によるものだったのです。源氏は後の源頼朝・源義経・室町時代の足利氏・戦国武将の武田氏などにつながっていきます。
 
平安時代の長編小説といいますと、紫式部の「源氏物語」が有名ですが作中に出てくる「光源氏の君」源氏を名乗ってますので、臣籍降下したのではないでしょうか?
 
大和和紀さん作画「あさきゆめみし 源氏物語」より
画像お借りしてきました。
大和和紀さん版の「あさきゆめみし」は全巻持っておりますが、話もさる事ながら絵もきれいなので未読な方は是非一度読んでみてください。
 
光源氏に関しては父帝が良かれと思って臣籍降下させますが、これが後々禍の種になっていくと感じます。
源氏に関してはまた後日触れさせていただきます。
 
話がずれてしまいましたが、「桓武平氏」の誕生により鎌倉時代をはじめとする、のちの武士の世が作られていくと考えると桓武天皇は武士の礎であるというのも間違いではないのかもしれません。
 
ということで、今回は平安時代突入。
平安京を造った桓武天皇編をお送りしました。
 
今回も、かなりの長文となりましたが、お付き合いいただきましたみなさま、
お読みいただいてありがとうございました。
 
 
 
次回予告は平安時代の仏教についてです。
ではまた(*^-^*)ノ~~マタネー。