どうも、こんばんは。

久しぶりに更新した記事で前回ようやく奈良時代が終了。

 

前回、「平安時代」に突入したあと放置状態だったわ滝汗

 

前回記事の日付5/9になってました(^_^;)。
1ヶ月以上放置していたこのシリーズ。
 
ほかの記事にかまけている間に気が付くと6月も後半・・・。
無事に受験までに間に合うのか滝汗滝汗滝汗
心配になってきましたよ(;´д`)。
 
ということで、なるべく6月中にいくつか進ませたい!!
と思う次第であります(・∀・)/。
 
 
猫しっぽ猫からだ猫あたま猫しっぽ猫からだ猫あたま熊しっぽ熊からだ熊あたまビーグルしっぽビーグルからだビーグルあたま
 
このたび、春から受験生な子ども1真顔
そして、中学入学した子ども2。
 
この年齢で、「やりたいこと」や「進路」を決めるのは、すごく難しいことだと思います。
でも、「高校受験」は人生の最初のハードルなのではないでしょうか?
 
そして、受験生の子どもを持つ親や家族はそれはそれは気を使うと風の噂に怯えておりますガーンガーンガーン
今のところ、子ども1は実感がないようですが、できれば少しでも成績を上げて、自分のやりたいことを目指して、希望する学校に入ってもらいたい!!
成績が下よりは上のほうが、選ぶ選択の幅も広がると思いますしニコ
 
「受験」という人生のハードルに少しでも役に立つのなら、一肌脱いでもいいんじゃねウシシ

ということで、昨年から少しずつ準備をしておりました。

 

もちろん、リアルで子供のため、というのもあるのですが

あわよくばこれでお絵かきの修行になれば・・・、と邪な思いも多少ニヤww。

いや、むしろこれを口実に堂々と修行の場が作れるニヤリニヤリ・・・。

などと考えておりました。

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

ちなみに前回の記事がこちら。 → その1その2その3その4その5

 

イラストなしの番外編もあります。→番外編1番外編2番外編3

 

自分の思い込みの激しい解説付きでお送りしますので、違うやろ!!とツッコまれそうな文章となっていると思いますが、あくまでワタクシ個人の解釈ということでヨロシクちゃんです。歴史に興味のない方は華麗にスルー('ω' )))≡3ーッでお願いします。

 

長文になりますので、お時間のある方は文章にお付き合いくださいませ。

お時間のない方は、写真と年代だけでOK牧場牛しっぽ牛からだ牛あたまです。

 

 

今回は第6回目
今回、ご紹介する人物は・・・・。
 
はい、この人たちです。はりきってどうぞ~。
 
 
(画像お借りしてきました)

飛鳥時代に百済から伝来した仏教は、そのまま奈良時代へと続いていきます。
奈良時代の仏教は、どちらかといえば「学問仏教」と呼ばれ、僧侶が悟りを開くための研究材料のようなものだったようです。
 
当時はひと握りの選ばれた人が行うものであり、また政治と密接に結びついたものであったために民衆から見るとかけ離れているものだったようです。
 
そんなおり、仏教界では2人の僧侶が新しい仏教を求めて唐へ旅立ちます。
遣唐使の一員として唐へ向かったのは・・・・。
 
一人は「空海」
幼い頃から頭が良く、いずれは官僚になりたいと長岡京で勉学に励んでいたものの、20歳の頃に仏教の教えの素晴らしさに触れ、エリート官僚の道から、僧侶になることを決心しました。仏教について知識を深め、勉学と研究に明け暮れて約10年。
空海にとってチャンスが訪れます。
 
遣唐使のメンバーの一員として選ばれたことです。
メンバーの中には、当時有名な僧侶となっていた最澄もいました。
無名の学生という扱いではあるものの、選ばれたということは期待されていたのかもしれません。
 
遣唐使の一員として唐に派遣された空海は、当時の最先端の教えであった「密教」を学んでいきます。
 
ちなみに「密教」とは
はっきりとした言葉で説かれいた通常の仏教に対し、非公開な部分のある秘密の教義と儀礼を、師匠から弟子へと秘密裏に伝え持とうとする仏教のことです。
 
わかりづらいので「密教」の部分だけ覚えていればいいと思います。
 
その密教を無名であった空海が約2年で会得し、日本へ持ち帰ってくるのです。
短期間で難しい仏教の教えを会得した空海は、一躍時の人となります。
その功績を認められ、当時の天皇から「高野山」を賜ると修行の場として「金剛峯寺」を建立。
空海の学んできた仏教は「真言宗」として広がっていきます。
真言宗の教えは、「人は生きたまま仏になれる」というものでした。
祈ることやまじないによって病気を治したり、災いを除いたりすることができると教えました。
 
教えや信仰の仕方は異なるものの、僧は人々のために尽くさねばならないという考えは空海も最澄も同じでした。
 
建立したお寺があるものの、空海は山の中にこもって修行することよりも、各地を歩き回って、人々のために尽くそうと心がけた結果、各地に橋を掛けたり、用水池を作ったり、民衆が学べる学校を作ったりと人々のために尽力しました。
今でも讃岐平野の大切な用水地である万濃池は、空海が前からあった池を修理して大きくしたものだといわれています。

空海は、835年(承和2年)に死去、人々のために尽くした功績が認められ、「弘法大師」という名を朝廷から送られたそうです。
「弘法も筆のあやまり」ということわざがありますが、後世にこんなことわざが残るほど、空海は書の達人だったようです。一部では国宝に指定されているものもあるとか。
 
 
そして、空海と同時期に活躍したもうひとりの僧侶といえば「最澄」です。

 

12歳でお寺に弟子入り、14歳で最澄と名乗り、19歳になった頃には奈良・東大寺で正式な手続きをしお坊さんとしての第一歩を飾ります。

 

ただ、その頃の日本は、仏教が政治に深く関わり過ぎていて世が乱れていました。

理由は、貴族たちが私利私欲のためにお坊さんと手を組み、互いに権力を増していったからでした。

またその頃の仏教は、一部の貴族のような身分あるもののためにあるようなもので、一般庶民からはかけ離れたものでした。

 

最澄は、そのような仏教に嫌気がさし自らの理想の仏教を求めて、神山として崇められていた比叡山での修行を開始したのでした。

 

最澄の理想とする仏教は、身分に関係なく多くの人を救うためのものと考えていました。

 

修行に励んでいた804年に桓武天皇からなんと遣唐使の一員として唐(当時の中国)に行き、仏教を学んで欲しいと直接のオファーがあったそうです。

 

新しい仏教を模索していた最澄にとって、願ってもないチャンスです。

そして、通訳つきの僧侶という手厚い肩書きで出発したのです。

その中には同じく僧侶の空海も一員として随行していましたが、こちらは学生扱い。

同じ僧侶でも既に有名僧となっていた最澄と空海では扱いがことなりましたが、学ぶべきものは同じものでした。

 

最澄は遣唐使として派遣後、約1年の勉学・修行に明け暮れ日本に戻り、その時の教えを元に天台宗を世に広めていきます。

 

鳴くよ(794年)うぐいす平安京で有名な、平安遷都ですが、この歴史的大イベントに実は最澄も絡んでいました。

 

最澄が比叡山に修行の場を構えた理由でもある、仏教と政治の関わり、一部の貴族とお坊さんが権力を持ち貧困に苦しむ民衆が多くいた時代に、道鏡という僧がおりました。

 

道鏡は当時の天皇の病を治したことをきっかけに次第に権力を持つようになり、最後は天皇の座まで狙っていたとされています。

 

代替わりした新天皇である桓武天皇は、今後は道鏡のような僧が現れないように、僧が権力を持ち政治に参加しようとするのを阻止しようと考え平安京を作ったと言われています。

(政教分離)。

 

最澄の仏教の考え方は、身分に関係のない教えだったため、民衆の新しい信仰になりうると判断され、天皇からの依頼がきたのでした。

 

最澄の開いた天台宗の教えは、

「人は誰でも仏になれる 人間の他に、この世の全てのものが仏になることができる」と説いたのです。

 

同じことを学んできたはずの2人でしたが、目指す場所はそれぞれ違っていました。

 

最澄は、修行が全てといったストイックタイプ。

対して空海は修行をするよりもどんどん人々と関わって、困っている人を助けようとしました。

 

 

それまでの日本で主流だった仏教は、人は生まれた家柄によって仏にもなれる人もいれば、なれない人もいるという教えでした。

当時の仏教でも身分差があったということですね。

 

ですから、最澄が説いていた「誰でも仏になれる」という天台宗は、庶民の新たな心の拠り所となり、皆に勇気と希望を与えやがて全国に広まっていきます。

 

最澄の死去後、866年に生前の功績を称えられ、「伝教大師」の位が清和天皇より贈られました。

 

比叡山延暦寺で有名な最澄ですが、平安遷都に関わっていたというのはあまり知られていません。

 

ただ、この時最澄がいなければ平安遷都はなかったかもしれませんし、

今、慣れ親しんでいる仏教との関わりも別の形のものになっていたのかもしれません。

 

空海に比べると地味な印象の最澄ですが、

最澄がいたからこそ、仏教のいろいろな宗派が生まれ、現在の仏教があるようです。


最澄が開いた天台宗からは立派な僧がたくさんでました。

現代日本の有名な宗派として知られる、

日蓮宗の日蓮、

浄土宗の法然、

臨済宗の栄西、

浄土真宗の親鸞、

曹洞宗の道元など、

平安時代以降に活躍する僧侶たちは、比叡山延暦寺で修行をした僧侶たちだったのです。

 

また、このように特殊性があったために戦国時代などには織田信長にも攻め込まれたりしています。

 

最澄は自ら仏教の新しい道を開いた先駆者ですが、後に数々の有名僧たちも生み出していく教えを作ったいわばレジェンドなのです。

 

同じ時期に生まれ、同じ時期に仏教を学び、良きライバルでもあったのでは?と思う二人。

一時期は空海に弟子入りし、教えを乞うた最澄

結局4年後に決裂し、別々の道をあるいていきます。

 

最後によく言われている覚えにくいこのふたりの語呂合わせを考えてみましたww。

 

台宗を比叡暦寺で開きました。

「天才が比叡で延々と寺ごもり」
 

海は、言宗を高野山金剛峯寺で開きました。

「男女混合で高野山で真空波の練習をすることになった」

 

うん、ゴロあわせはなんとか覚えられそうww。

でも、真空波の練習ってどんな学校やねんww。

暗殺教室かよww。

「真空波」ってこんな感じらしいww。

 

 

 

画像お借りしてきましたww。

 

牛しっぽ牛からだ牛あたま黒猫しっぽ黒猫からだ黒猫あたま熊しっぽ熊からだ熊あたま宇宙人しっぽ宇宙人からだ宇宙人あたま猫しっぽ猫からだ猫あたま

 

最澄と空海、そして平安時代の仏教。

ふたりのお話はこれにて終了。

 

今回も、かなりの長文となりましたが、お付き合いいただきましたみなさま、

お読みいただいてありがとうございました。
 
 
次回予告は平安時代に活躍した悲劇のみっちゃん(笑)が登場。
さて、いったい誰のことでしょう?ww。
ではまた(*^-^*)ノ~~マタネー。