久しぶりに更新した記事で前回ようやく奈良時代が終了。
前回、「平安時代」に突入したあと放置状態だったわ。
ということで、昨年から少しずつ準備をしておりました。
もちろん、リアルで子供のため、というのもあるのですが
あわよくばこれでお絵かきの修行になれば・・・、と邪な思いも多少ww。
いや、むしろこれを口実に堂々と修行の場が作れる・・・。
などと考えておりました。
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ちなみに前回の記事がこちら。 → その1、その2、その3、その4、その5
イラストなしの番外編もあります。→番外編1、番外編2、番外編3
自分の思い込みの激しい解説付きでお送りしますので、違うやろ!!とツッコまれそうな文章となっていると思いますが、あくまでワタクシ個人の解釈ということでヨロシクちゃんです。歴史に興味のない方は華麗にスルー('ω' )))≡3ーッでお願いします。
長文になりますので、お時間のある方は文章にお付き合いくださいませ。
お時間のない方は、写真と年代だけでOK牧場です。
飛鳥時代に百済から伝来した仏教は、そのまま奈良時代へと続いていきます。
空海は、835年(承和2年)に死去、人々のために尽くした功績が認められ、「弘法大師」という名を朝廷から送られたそうです。
12歳でお寺に弟子入り、14歳で最澄と名乗り、19歳になった頃には奈良・東大寺で正式な手続きをしお坊さんとしての第一歩を飾ります。
ただ、その頃の日本は、仏教が政治に深く関わり過ぎていて世が乱れていました。
理由は、貴族たちが私利私欲のためにお坊さんと手を組み、互いに権力を増していったからでした。
またその頃の仏教は、一部の貴族のような身分あるもののためにあるようなもので、一般庶民からはかけ離れたものでした。
最澄は、そのような仏教に嫌気がさし自らの理想の仏教を求めて、神山として崇められていた比叡山での修行を開始したのでした。
最澄の理想とする仏教は、身分に関係なく多くの人を救うためのものと考えていました。
修行に励んでいた804年に桓武天皇からなんと遣唐使の一員として唐(当時の中国)に行き、仏教を学んで欲しいと直接のオファーがあったそうです。
新しい仏教を模索していた最澄にとって、願ってもないチャンスです。
そして、通訳つきの僧侶という手厚い肩書きで出発したのです。
その中には同じく僧侶の空海も一員として随行していましたが、こちらは学生扱い。
同じ僧侶でも既に有名僧となっていた最澄と空海では扱いがことなりましたが、学ぶべきものは同じものでした。
最澄は遣唐使として派遣後、約1年の勉学・修行に明け暮れ日本に戻り、その時の教えを元に天台宗を世に広めていきます。
鳴くよ(794年)うぐいす平安京で有名な、平安遷都ですが、この歴史的大イベントに実は最澄も絡んでいました。
最澄が比叡山に修行の場を構えた理由でもある、仏教と政治の関わり、一部の貴族とお坊さんが権力を持ち貧困に苦しむ民衆が多くいた時代に、道鏡という僧がおりました。
道鏡は当時の天皇の病を治したことをきっかけに次第に権力を持つようになり、最後は天皇の座まで狙っていたとされています。
代替わりした新天皇である桓武天皇は、今後は道鏡のような僧が現れないように、僧が権力を持ち政治に参加しようとするのを阻止しようと考え平安京を作ったと言われています。
(政教分離)。
最澄の仏教の考え方は、身分に関係のない教えだったため、民衆の新しい信仰になりうると判断され、天皇からの依頼がきたのでした。
最澄の開いた天台宗の教えは、
「人は誰でも仏になれる 人間の他に、この世の全てのものが仏になることができる」と説いたのです。
同じことを学んできたはずの2人でしたが、目指す場所はそれぞれ違っていました。
最澄は、修行が全てといったストイックタイプ。
対して空海は修行をするよりもどんどん人々と関わって、困っている人を助けようとしました。
それまでの日本で主流だった仏教は、人は生まれた家柄によって仏にもなれる人もいれば、なれない人もいるという教えでした。
当時の仏教でも身分差があったということですね。
ですから、最澄が説いていた「誰でも仏になれる」という天台宗は、庶民の新たな心の拠り所となり、皆に勇気と希望を与えやがて全国に広まっていきます。
最澄の死去後、866年に生前の功績を称えられ、「伝教大師」の位が清和天皇より贈られました。
比叡山延暦寺で有名な最澄ですが、平安遷都に関わっていたというのはあまり知られていません。
ただ、この時最澄がいなければ平安遷都はなかったかもしれませんし、
今、慣れ親しんでいる仏教との関わりも別の形のものになっていたのかもしれません。
空海に比べると地味な印象の最澄ですが、
最澄がいたからこそ、仏教のいろいろな宗派が生まれ、現在の仏教があるようです。
最澄が開いた天台宗からは立派な僧がたくさんでました。
現代日本の有名な宗派として知られる、
日蓮宗の日蓮、
浄土宗の法然、
臨済宗の栄西、
浄土真宗の親鸞、
曹洞宗の道元など、
平安時代以降に活躍する僧侶たちは、比叡山延暦寺で修行をした僧侶たちだったのです。
また、このように特殊性があったために戦国時代などには織田信長にも攻め込まれたりしています。
最澄は自ら仏教の新しい道を開いた先駆者ですが、後に数々の有名僧たちも生み出していく教えを作ったいわばレジェンドなのです。
同じ時期に生まれ、同じ時期に仏教を学び、良きライバルでもあったのでは?と思う二人。
一時期は空海に弟子入りし、教えを乞うた最澄。
結局4年後に決裂し、別々の道をあるいていきます。
最後によく言われている覚えにくいこのふたりの語呂合わせを考えてみましたww。
最澄は天台宗を比叡山延暦寺で開きました。
「天才が比叡で延々と寺ごもり」
空海は、真言宗を高野山・金剛峯寺で開きました。
「男女混合で高野山で真空波の練習をすることになった」
うん、ゴロあわせはなんとか覚えられそうww。
でも、真空波の練習ってどんな学校やねんww。
暗殺教室かよww。
「真空波」ってこんな感じらしいww。
画像お借りしてきましたww。
最澄と空海、そして平安時代の仏教。
ふたりのお話はこれにて終了。
今回も、かなりの長文となりましたが、お付き合いいただきましたみなさま、