安達景盛は、剛腕な政治家である一方、仏教に対して熱心な信徒であった。健保七年(1219)正月に将軍実朝が公暁により暗殺されると、死を悼み出家をし、大連房覚知と号し高野山に入る。実朝の菩提を弔うために金剛三昧韻を建立して高野入道とも称された。出家後も高野山に居ながら幕政に参与しており、承久三年(1221)承久の乱においては、幕府首脳の一員として方針の決定に加わっている。先述した北条政子の御家人に対する頼朝以来の「御恩と奉仕」を訴える言葉を代読した。東海道軍の大将として北条泰時に付き参戦しており、乱後には戦功の恩賞として摂津の守護となっている。昇給の乱で泰時は、景盛と親密な関係をもった様で、泰時が深く親交し、帰依した京都・高山寺の明恵上人との繋がりをもたらした。また、娘の松下禅尼が、泰時の長子・時氏に嫁がせ経時・時頼を産んでおり、時氏の舅、後の執権となる経時・時頼の外祖父として北条得宗家と幕府での地位を固めた。醍醐寺所蔵の建保二年(1213)前後の書状に景盛について「当九朗左衛門尉は、当時のごとくんば、無沙汰たりと云えども広博の人に候也」と記されている。「広博」とは、幅広い人脈を持ち全体を承知していると見られ、政子を代弁する人物として認識されていた。宝治合戦の首謀者とも目されており、高野山に在っても、鎌倉の情報が常に掌握していたとみられる。嘉禄元年(1225)の北条政子の死により再び高野山に籠るが、宝治元年(1247)、五代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏との対立が激化する中、外祖父の景盛は業を煮やし、老齢の身を起こして高野山を降りて鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派の首謀として宝治合戦を画策してゆく。
鎌倉幕府の御家人による序列順位は、正月の埦飯で見ることが出来る。寛元三年(1245)正月は、執権北条経時が差配し、御剣役は左近将監時頼、御調度役が能登前司三浦泰村で、御行縢(むかばき:馬乗による遠行や狩りの際に雨を防ぐため鹿革などを使い覆う物)役は、三浦五郎左衛門尉資村であった。寛元四年正月は執権北条経時が差配し、その他役職の記述は『吾妻鏡』には記されていない。寛元五年の埦飯では、北条時頼の差配で、御剣役は前右馬権守の北条正村、御調度役が能登前司三浦光村で、御行縢役は大隅前司(大河戸重澄)が行っている。安達景盛は執権北条時頼の外祖父としての立場から北条得宗家の次席が与えられるべきと考えたが、その位置は常に三浦が勤めていた。
寛元五年になると、鎌倉に異常現象が現われ、不穏な動きが流れる。一月ニ十九日には、羽蟻の大軍が鎌倉をお目尽くし、三十日には佐助の北条時盛邸を上空に「光る物体」が現れている。二月二十八日宝治元年と改元され、三月に入ると『吾妻鏡』ニ三日条に、御所中で闘鶏御会が行われ、この際に若狭の前司)三浦泰村)等が少々喧嘩したという。同年三月十一日、由比ヶ浜の潮が変色し、赤くなり血のようで人々が群集してこれを見たという。十二日の戌の刻に(午後八時頃)大きな流星が艮(うしとら)の方角から坤(ひつじさる)の方角に飛んだ。十六日、戌の四点(午後八時半頃)に鎌倉重が騒動した。しかし事実無根であったため、明け方になって鎮まった。十七日、黄色い庁が多く飛び(幅はおよそ一丈。三段ほど並ぶ)、総じて鎌倉中に満ち溢れる。これは平角の前兆であると。承平年間には常陸・下野で天気年間では陸奥・では四カ国でその怪異があり、(平)将門・(安倍)貞任等が戦いを起こした。そこに今この怪異が起こり、やはりあるいは当国で兵乱が起きるのではないかと、古老たちは疑っている。『吾妻鏡』において編纂者が宝治合戦の予兆として書き留めたのであろうかは判然とせず不可思議である。
鎌倉中が不安におびえる中、幕府宿老の安達景盛が二十五年ぶりに鎌倉に戻ってきた。その目的は三浦打倒を目的とした。
『吾妻鏡』宝治元年(1247)四月四日条、「今日、秋田城介入道覚地(安達景盛)が高屋さんから(鎌倉に)到着した。甘縄の元の家にいるという」。
同月十一日条、「このところ高野入道覚知(安達景盛)は、何度も左親衛(北条時頼)の御邸宅に参っており、今日は特に長くとどまった。内々に相談される事があったという。また、子息の秋田城介義景を徳に戒め、孫の九朗泰盛を叱責したという。これは、三浦の一党が今は武門に優れ、傍若無人である。次第に時が経てば、われらの子孫や孫はきっと対抗することが出来ないであろう。まことに考えを廻らすべきところ、義景と言い、泰盛と言い、生まれつきの怠惰で、武備をおこたっているのは、けしからぬと言う」。この時の時頼との相談は、三浦氏打倒を説いたものと考えられ、嫡子義景や孫の泰盛に叱責し納軍備を備えて行ったと考えられる。
同月二十日条、「頼嗣室(檜皮姫)の御病気は、御邪気という。左親衛(北条時頼)は特に嘆いているという」。執権北条時頼は、三浦氏と和解・妥協を模索していたが、安達景盛はそれを横目で見ながら三浦氏への挑発を続けてゆくのである。
同月二十五日条、「巳の一点に、日の暈がかかったという。今日、後鳥羽院の御霊を鶴岡の乾の山麓に勧請された。これは、後鳥羽院の御霊を鎮める奉るため、このところ一宇(現鶴岡八幡宮今宮社)の寺社を建立されていたのである。重尊僧都を別当に補されたという」。今宮社建立は、この年に鎌倉で起こった怪奇現象と檜皮姫の発病により、後鳥羽院の怨霊によるものと噂され、それを鎮めるために建立されたものである。同月二十六日には、御台所(頼嗣室)御方で陰陽道十人による御祈禱が行われた。同月二十八日条には、「御台所(頼嗣室)が御邪気のため、長能僧都が御験者として技巧だれたという。今日、秋田城介(安達)義景が愛染明王道を造立氏、供養が行われた。導師は法印隆弁。これは特に祈願であるためで、すぐに秘法が行われたという」。このような時期において、鎌倉の情勢安定のため北条時頼と三浦泰村の間で、交渉が行われていたと推測される。同年五月六日、若さ前司(三浦)泰村の次男・駒石丸を北条時頼の養子とする約束がなされた。そして、同月十三日の未の刻御台所(頼嗣室)が亡くなられた(享年十八歳)。
『吾妻鏡』同条、「このところ御病気のため、祈禱や治療にその努力が続けられてきたが、とうとう亡くなられた。これは修理亮(北条)時氏の息女で、左親衛(北条時頼)の下の妹である。時頼は若狭の前司(三浦泰盛)の館に移られた。御軽服のためである」。と記されている。檜皮姫の死は、宝治合戦の一月前の事であり、北条得宗家・執権北条時頼が将軍家外戚という立場をなくした事である。通説によると檜皮姫の服喪のため泰村邸に入り、得宗家として三浦との敵対視が無い事を示し、合戦の回避に努めたのではないかとされ、また三浦泰村も緊迫した状況下、次子の駒石丸を時頼の養子にするなど合戦回避を願っていたものとされる。檜皮姫の死は、北条得宗家が将軍外戚で無くなり、他の御家人と同様の立場となったとして、この際に反得宗・反執権、将軍派が、蜂起する事で、他の御家人も蜂起する機会ととらえ、合戦強硬論者である弟の三浦光村により和平の手ははねのけられた事であった。 ―続く