鎌倉散策 鎌倉歳時記 十五、鎌倉の歴史を記する諸本 『保暦間記』『増鏡』 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『保暦間記』は、南北朝期の十四世紀半ばに成立した歴史書で、保元元年(1156)から暦応二年(1339)の後醍醐天皇の崩御までを記した史論であり歴史書である。保元から暦応までの間の記載事項であるため『保暦間記』という書名の由来となった。そして、『吾妻鏡』の記載が終了する文永三年(1266)以降に起こった事件の概要を伝える貴重な基本資料になっている。「和田合戦」、「承久の乱」、「宝治合戦」、「二月騒動」、「霜月騒動」等の鎌倉期の事件名称の多くは本書の記述に由来した。『保略間記』は南北朝期の十四世紀半ば、延文元年(1356)以前に成立したと考えられ、作者は不明であるが南北朝時代の足利氏の武士によるものとされている。江戸時代の国学者・塙保己一(はにわほきいち)が、国学・国史を主にする『群書類聚』を編纂した第二十六輯雑部に所収された。

 源頼朝の死について、死因は諸説あるが、『保暦間記』では、建久十年(1199)に稲毛重成が亡き妻の供養のため相模川橋供養を行い、参加していた頼朝が帰路、八的ヶ原(やまとがはら:現在の辻堂及び茅ケ崎の広域名)で源義経等の亡霊を、稲村ケ崎会場に安徳天皇の亡霊を見て、鎌倉で気を失い倒れたと記している。

 

(鎌倉 源頼朝墓)

 王朝物語史の『栄華物語』『大鏡』『今鏡』『水鏡』、そして最期『増鏡』が、南北朝期の応安・永和年間(1368~1379)に成立したとされるが、現在では、興仁親王(崇光天皇)立坊の暦応元年(1338)から足利尊氏薨去の延文元年(1358)とする説が有力である。

 『増鏡』の内容は後鳥羽天皇の誕生(治承四年)から、鎌倉幕府により隠岐に配流されていた後醍醐天皇が還幸する元弘三年(1333)年までの歴史を編年体(出来事を年代順に記す)で描いた。承久の乱で衰退した公家政権が後醍醐天皇の還幸により武家の世から朝廷の復活を願った貴族の願いを反映し矢もので、鎌倉期の歴史を公家社会の動向を中心に描いている。歴史物語の形式は取っているが特定個人の宮廷生活の記載が混載され、内裏や後宮での平安期さながらの華やかな行事や恋愛を物語る話題が多く散見される。

 嵯峨の清凉寺へ詣でた百歳の老尼が語る昔話を筆記した体制を取るが、現存する『増鏡』においては最初の場面だけ登場している。当初は「四鏡」と同様に尼が登場する最後の場面が存在したとする説もある。

 

 構成は全体が三分に別れており、第一部は後鳥羽院を中心に「おどろのした」から「藤衣」まで。第二部は「三神山」から「千島」までの後嵯峨院を中心に、第三分は「秋のみ山」から「月草の花」まで後醍醐天皇の即位から起き配流・新制回復までを記された。この時代では和漢混淆(こんこう)文ではなく、擬古文体(ぎこぶんたい:平安期の古い文体で、漢字を嫌いカナ文での記載文体)で書かれているのも特徴である。作者は未詳であるが、北朝の廷臣でありながら、後醍醐天皇を敬愛し、日本文学と学問に精通し、和歌では二条派寄りの、羽林家又は第大臣家以上の家格の貴族と考えられている。二条良基とされる説もあるが確証はなく、二条為明や洞院公賢の説がある。

 鎌倉中期に編纂された『吾妻鏡』や南北朝中期に成立した『保略間記』は、東国武士により編纂成立したが、『増鏡』は物語風であり、京の公家方からの史観で著作された。『吾妻鏡』や『保略間記』と比較すると興味深い記載や解釈があって面白い。特に『増鏡』第二「新島守」の承久の乱の過程と経過について興味を引く。井上宗男氏全訳中『増鏡』の現代訳を引用させていただく。

 

 『増鏡』第二「新島守 承久の乱起こる、東国税の出陣」

 「…義時は『しかるべき前世の因縁で身が亡ぶべき時なのだ』と思う一方では、『討手がせめてきた時に、つまらない様子で屍をさらすまい。朝廷のこととは申しても、院自身でなさるわけではないから、一つには我が身の果報を試してみるだけだ』と思うようになって、弟の時房と泰時という長男との二人を大将として、雲霞のような大軍を率いさせて都に上らせた。

(出発に際し、義時は)泰時を前に座らせて言うには、『お前を今回上洛させることについては考えるところがある事が多い。本懐のとおり清い死に方をせよ。人に後ろを見せるような卑怯未練な事をしたら、親の顔を再び見てはいけない。今を今生の別れと思うが良い。賤しい者だが、この義時は、君に対して後ろ暗い心があろうか(ありはせぬ)。したがって私が非業の死を遂げるわけがない。だからお前は心をしっかりと持って戦え。お前が戦いに勝とうものなら、再びこの足柄箱根山は超えるが良い』などと泣く泣く言い聞かせた。『本当にその通りだ。二度と親の顔を拝むことも難しい』と思って泰時の鎧の袖を絞るほど泣いたのであった。お互いにこれが最後かと、いかにもあわれに心細そうであった。

 こうして出発した翌日、思いもかけぬ時分に、泰時ただ、一人鞭を上げて馳せ帰ってきた。父義時は胸が騒いで、『どうした』と問うたところ、『戦のやり方、事に当たっての処置などは仰せのとおり分かりました。もし途中にでも、思いかけず、おそれ多くも鳳輦(ほうれん:天皇が晴の場合に乗る輿)を先立てて、錦の御旗をあげられ、おごそかな臨幸がございますのに遭遇したら、その時の処置はどういたしましょうか。この一事を尋ね申そうと一人馳せ帰って来たのです。』と言った。義時はしばらく考えて、『よくも尋ねたものだ、我が子よ。その事だ。本当に君の御輿に向かって弓を引くことはどうだろう。その様な時には兜をぬぎ、弓の弦を切ってひたすら恐懼(きょうく)の旨を言上して、君に身をお任せ申せ。そうでなくて君は都にいらっしゃりながら、軍兵だけをお遣わしになったのなら、命を捨てて千人が一人になるまでも戦え』と言いも終わらぬうちに泰時は急ぎ出立した」。

 

 『承久記』や『吾妻鏡』での北条政子の諸将への訴えは無く、『吾妻鏡』では、軍議により伊豆での防御か上洛かを論議し、出立が遅延した。北条政子、大江広元、三善康信の上洛積極論者に促され、承久三年(1221)五月二十二日に雨の降る中、北条泰時ら十八騎が鎌倉を出立し、東海道を登る中軍勢は十万余騎に膨れ上がった。東山道・北陸道からも上洛を行い、合わせた軍勢は十九万余騎に迄集まった。躊躇なく出立することで自然に軍勢が集まることを大江広元、三善康信らは周知していたのであった。北条泰時の途中臨幸があった際の対処を尋ねた事は、『増鏡』にしか記載されておらず、非常に興味深い。

 もう五十年ほど前の高校の古典の試験で、大鏡と同じく歴史物語に分類される作品を一つ選べと言う問題をおぼえている。①源氏物語、②平家物語、③栄花物語、④住吉物語、⑤雨月物語とあった。

①  源氏物語は平安期に著された恋愛小説、②平家物語は鎌倉中期に著された戦記物語、④住吉物

語りは鎌倉前期に著された継子いじめ小説、⑤雨月物語は江戸時代に著された怪異小説であり、正解は③栄花物語である。