鎌倉散策 鎌倉歳時記 十六、鎌倉の歴史を記する諸本『義経記』『梅松論』 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『義経記』は、日本人の感性の中で、多大な影響を与えてきた源義経を扱ったもので、その記述は『平家物語』から引用される様に始まる。判官贔屓という言葉が現在にも残るように、能や歌舞伎、人形浄瑠璃等や後世の多くの文学作品等に影響を与えたのは『義経記』によるところが大きい。中世・近世において、個人に敬意を表す意味で人名を訓読みする習慣があったとされる。従って源義経(みなもとよしつね)を記する書物として『義経記』(ぎけいき)と読む。

 『義経記』の内容は、源義経とその主従を中心に描いた軍記物語である。しかし、『曽我物語』と同様に、人物と戦記を取り扱ったものではなく、義経の生立ちから人物像、主従関係、戦記、そして没落迄を扱っている点、準軍記物ともされている。『義経記』は八巻にから構成され、国文学者の岡見正雄氏は、本作が『平家物語』に基づいた上で源義経の生涯を描き、室町期の要素が色濃い義経が描かれていると述べている。『平家物語』が仏教的思想を取り入れられ、『義経記』では、どちらかというと儒教的思想が取り入れられているように考える。

 『義経記』は、従来の戦記・戦記物語である『承久記』『平家物語』『曽我物語』に比べて文章の表現が詳細で、文学的また現実的な描写をしている点が特徴である。巻八「判官自害の事」であは、「その刀を持ちて、左の乳の下より刀を立てて、刀の先後ろへつと通れと突き立てて、疵(きず)の口を三方に搔き破りて、腸(はらわた)三山に繰り出し、刀をば衣の袖にて拭ひつつ…」と『平家物語』にはない現実的な自害の様相を描いており、生々しさを感じさせる。

  

 『義経記』は作者不詳で、南北朝期から室町初期に成立したとされ、民俗学者の柳田國男氏は、『義経記』の解析に多大な功績を挙げた人物の一人である。『義経記』において一部の描写の細やかさや、義経一行の不自然な回り道から本作各部分が別の地域の異なる作者たちによって期された事や、長楽寺など鎌倉、中山道、奥州街道付近での北条時宗の寺院関係者が物語の普及に関与した可能性を指摘した。西津弘美氏訳の『義経記』の解説を記した和田琢磨氏は、柳田氏は巻七の北国下り以下の地理が特に詳細である事、山伏の作法が詳しく記されている事、平泉における亀井兄弟の武勇が特に花やかなに描かれている事などから、『義経記』の主要部分は奥州系の語りで、奥州に広がる熊野信仰を背景に多くの盲目の座塔達(琵琶法師)の手によって語られていたものが、京都に出ても恥ずかしくないレベルにまで成熟し、これが「義経記」の生成過程について推測した。また作者については諸説あるが、どれも立証する確信はない。

 

(岩手県平泉 毛越寺 阿弥陀堂予想図)

 

(岩手県平泉 中尊寺)

『梅松論』は、鎌倉期の両統迭立(りょうとうてつりつ)から元弘の乱・建武の新政、建武三年(1336)のらん、翌建武四年三月にかけて越後国金ヶ崎城(現福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍(後の南朝方)と斯波高経率いる・北朝方との戦を描いている歴史書もしくは軍記物語がある。成立期を正平四年/貞和五年(1349)とされるが、新説おいては、上限を正平十三年/延文三年(1358)・下限を正平十六年/康安元年(1361)とされている。

 構成はいわゆる「鏡物」の同様な形式で描かれており、京都の北野天満宮に参拝する人々に老僧が語りかける所から始まる。全体として、鎌倉幕府の治績から足利尊氏が政権を掌握するまでの過程を描いた。上下巻に分かれ、上巻では鎌倉中期の両統迭立末期の政治情勢や幕府の終焉、建武の新政と新田氏と足利氏との対立の様子が綴られており、建武の乱の京都の合戦の途中で終わる。下巻では、京都の合戦の途中から再開され、楠木正成の奮戦と新田義貞が金ヶ崎城に籠城し、斯波高経の軍勢に包囲され兵糧攻めを受け、尊良親王と義貞の嫡男義顕等城兵三百名が火を放ち自害、経良親王は捕縛され落城した。そして天下平定した様子が記された。さらに夢窓疎石よる尊氏の人物評、そして最後に足利将軍の栄華を梅花に子孫繁栄を松の縁に喩えて書名の由来を述べて締めている。

 

 同時代を記述する『梅松論』と双璧するのが『太平記』である。異論が多くあると思われるが、一般的に『梅松論』は武家方(室町幕府方・足利氏)寄りとされ『太平記』は、宮方(南朝)寄りとされる。『梅松論』の作者については不詳であるが、これらのことからかつては尊氏の側近の細川和氏や天台宗高僧の玄恵等に比定る説があったが、1997年時点では否定された。しかし、和氏ではなくとも細川氏の一族の誰かであるという可能性は否定できない。あるいは臨済宗高僧の夢窓疎石に関係が深い人物とも推測される。また、少弐氏もしくはその関係者と推測する説などが存在する。

 同時代を記述する『梅松論』と双璧する『太平記』軍記物語として分類され、『梅松論』の分類を先述したように「歴史書」とする立場と「軍記物語」する立場があるが、いずれにせよ資料としての信憑性高く、完全な軍記物語である『太平記』との記述が衝突した際は、『梅松論』の方を信憑性が優れるとされることが多い。

 

 『梅松論』の写本には、古本系と流布本系があり、諸本により異同が多いことが知られている。流布本は、江戸時代に編纂された『群書類従』第二十輯に納められている。古本系は、その一つ京大本(京都大学文学部博物館所蔵)が1964年に『国語古文』三十三巻八―九号で初めて翻刻・紹介された。他の古本系に属するものとしては、天理図書館が所蔵する天理本、彰考館文庫(水戸藩が大日本史編纂のために儲けた修史局の資料を引き継ぎ、研究者を対象に一般公開している施設)が所蔵している寛正本(下巻のみ)がある。古本系と流布本系目立つ違いとしては、流布本系では、細川氏に関する記述が多数追加されている。また古本系では、語り手、聞き手、筆者の三人のやり取りも描かれ、物語としての趣も大きく異にする。 ―続く―

 

(京都御所)