鎌倉散策 鎌倉歳時記 十一、鎌倉の歴史を記する諸本 仏教説話(八) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『沙石集』には、源頼朝の死後、将軍を継承した二代将軍頼家に関する記述はなく、その後を継承した三代将軍実朝に関しては、先述した巻第三の三「訴訟人の恩を蒙る事」で八田知家とのやり取りが記載され、梵舜本巻第五末の八「心ある若の事」、米沢・慶長古滑時十二行本の「有心の歌の事」に実朝の詠んだ歌を記している。

一、   鎌倉大臣殿御歌に、「鳴子をばおのが羽風にまかせつつ心と騒ぐ村雀かな(自らの羽が起こした風によって鳴子〔鳥獣除けの仕掛け〕を鳴らしながら、驚いて騒ぐ群雀〔群雀:むらすずめ〕だな)」とあり、無住は「この歌は深い意味を現わしている。法華経方便品には、『すべての諸法には、このかたに従って常自滅相』と説き、古人(昔の人)は『萬法(一切の諸法、森羅万象)はもとより閉ざされるものではない。人は自らいかにも騒がしい』と言い、諸法はもとより、寂靜涅槃の體(じゃくじょうねはんのたい:心に煩悩が無く見に苦患のない平常)にして、生死去来の労なきに、一念の迷心により、六塵の(色・声・香・味・触・法の六境が、六根を通して身内に入り、清浄心を汚して真性をくらます)妄堺(六塵により妄想が生じ、猛進によって現じた一切世間の現象)を現わし、空しい煩悩の業を造り、その中の苦言を受けて、三悪八難(地獄・餓鬼・畜生の三悪道と、見仏聞法の為の八種の障難)の根拠のない嘘を見出し、自身が苦しむことは雀の鳴子を動かして、自身が驚いて騒ぐことに似ている」と、仏教的な意味を読み取り、この様な和歌を詠む実朝に誠の信仰信があると伝えている。

 

 『沙石集』巻第七の十三「師に礼ある事」に、為政者として、信仰者としての実朝の二つの側面が自身の中でせめぎ合う話が記されている。

 「故荘厳院法印(行勇)は、学識に優れた高貴な僧だと有名であった。鎌倉の右大将(源実朝)が深く帰依し、子弟の礼儀を保っておられた。行勇は慈悲深い人で、訴訟人が歎願してくるたびに、「お取り計らいください」と実朝に申されていた。実朝は行勇のおっしゃっている事は何事も反対されず、願いは易々とかなった。

 そうして、あれもこれもと人々が言ってくるのを、行勇は何時も実朝に申し入れていたらしいが、ある時、実朝が『世の中というものは、一人が喜んでも一人が嘆く事がある。口出しなさらないでください。ただし仰せに背くまいと思っていますので、今回だけは承知しました。今後は御介入なさいますな』と仰ったのを、『わかりました』と仰ったが、よく歎願する人がいると、心弱くも、「今回だけは、今回だけは」と何度も申し入れなさる内に、大変重大な事に口出しなさることがあった。実朝は、『何度も申し上げておりますのに、お分かりにならず御介入なさる事、理解できません。国の政治は偏り無くある物ですから、今後は一切お受けいたしません』と厳しく返事なさったので、恐縮して退室なさった。その後は音信不通になって七十日余りになった。ある世更けに、実朝が急に寿福寺へお出かけになった。お供の人はわずかに二・三人で、周囲の人はこの事を知らなかった。門を叩くので、『だれか』と問うと、『御所様がいらっしゃいました』との事。行勇は驚いて中へお通しした。実朝はすぐさま行勇の足元に跪いて、泣く泣く仰るには。『師匠こそが弟子を勘当するものですのに、弟子の私が勘当申し上げました。』自分の言葉を違えまいと、百日ほどお目にかかるまいと思いましたが、耐えられずに参上しました』と、はらはらと涙を流されたので行勇も涙を流して、『御感動されたのもそうなる定め、またこのようにお許し下さるのも定めでしょう』と長い時間語り合われた。この事は寿福寺の老僧が私に語ったのです。実朝の下でお仕えした古い人が、『大臣殿の御夢に、高貴な印象の俗人我、白い強装束(こわしょうぞく)を着て「どうして貴い僧を苦しめるのか」とおっしゃるのを御覧になって目が覚め、夜更けに急いで寺へお出ましになったと聞きました』と語っていた。信仰心が本当におありになので若宮の御付があったのだろうか。指定の礼儀をわきまえていらっしゃるのが、めったにない事のように思われる」と、記されている。

  

(鎌倉亀ヶ谷 寿福寺)

 『吾妻鏡』健保五年(1217)五月十二日条に、この本話とされる記載がある。「寿福寺の長老の荘厳房律宗行勇が御所に参った。これは所領争論をしているものについての弁護するためである。このような事がすでに何度かあったので、将軍家(源実朝)はお怒りにで、(大江)広元朝臣を通して(行勇に)仰った。『(実朝が)三宝に帰依することは並々ではないが、政治について何度も取り直しをされるのは、全く僧侶の行うべき事ではない。速やかにこれを止め、修行に専念されるように』。行勇は内心これを恨んで泣きながら寿福寺に帰ると、門を閉ざしたという」。

『吾妻鏡』健保五年(1217)五月十五日条、「将軍家(源実朝)・武州(大江広元)らが御供された。これは長老(行勇)の不満を宥められるためであり、行勇は特に恐縮した。(実朝は)しばし禅室に滞在され、仏法について(行勇と)話された」。『沙石集』と『吾妻鏡』では、実朝と行勇の立場が違うが、どちらも実朝の行勇に対する気遣いを窺う記述であり、実朝の優しさを窺う記述である。

 

実朝は、建保七年(1219)一月二十七日、甥である公卿に暗殺された。実朝の墓所は、『吾妻鏡』では、実朝の亡骸は長勝寿院に葬られたが、首は見つからず、代わりに髪を入館したとある。『愚管抄』では、首は岡山の雪の中から見つかったとある。現在実朝の墓所としては鎌倉亀ケ谷の寿福寺には北条政子と実朝のやぐらが並び五輪塔が置かれており、鶴岡八幡宮境内の白旗神社にも祀られている。

 『吾妻鏡』によると実朝の首は、公暁によって持ち去られ、雪の下の効験人・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を話さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と義村に言い送った。義村は、「迎えの使者を送ります」と偽り北条義時にこの事を告げた。義時は公暁を誅殺すべき命を発し、三浦義村は公暁が武力にも兵法にも長けているため、家臣の中でも武勇に優れる長尾定景(後の上杉謙信の祖)を撰び、定影により討ち取られた。神奈川県波多野市の金剛寺の由来によるとその定景が率いる一団に武常晴が加わっており、その際に実朝の首を手に入れて何らかの理由でこの首を持ち帰らず、波多野荘に葬ったとされる。後に波多野荘を所領とした波多野忠綱が実朝の菩提を弔うために金剛寺を再興したという。そして金剛寺には御首塚(みしるしづか)の五輪塔が現存している。

 

(鎌倉鶴岡八幡宮 白旗神社)

 また、北条政子の発願で実朝の菩提を祀るために高野山の金剛三昧院が創建されている。無住の『雑談集』巻第六「錫杖事」に実朝暗殺後、その遺骨を首に懸けて高野山にのぼり、行勇の弟子となった葛山景倫(かずらやまかげとも)、後の願性の話などが記され、禅の教えが入る前の鎌倉において、寿福寺と高野山の強い関係が示されており、比企の乱がおこった翌日の『吾妻鏡』建仁三年(1203)九月三日条に酷似している。「(比企)能員の与党を捜索され、あるいは流刑に、あるいは死罪にと、多くが処断された。妻妾並びに二歳の男子は縁があったので、和田左衛門尉義盛に預けて安房国に配流した。今日、生御所の跡地で、蹴鞠の名手である大輔房源性が故一幡の遺骨を拾おうとしたところ、焼けた死骸が多く混じり、探すすべもなった。(一幡の)御乳母が言った。『最後には染付の小袖を召されていました。その文様は菊枝でした』。有る死骸の右わき下に小袖が僅かに一寸余り焦げ残っており、菊の文様がはっきり見て取れた。その為この文様によって一幡君の衣装と分かり、(遺骨を)拾い申し上げた。源性は(遺骨を)首に懸けて高野山へ出発した。奥の院に奉納するという」。 ―続く―