無住の編纂・著作した説話集『沙石集』について記してきたが、続いて随筆について記していきたい。日本三大随筆、『枕草子』・『方丈記』に続く『徒然草』である。著者は卜部兼好・兼好法師である。以前は吉田兼好と称されていたが、父が治部少輔の卜部兼顕で、京都吉田神社の神官の家系吉田流卜部氏は、後に吉田氏を名乗ったとされ、江戸時代以降吉田兼好と称された。しかし、現在では吉田流卜部氏の一族であること自体が室町末期から戦国期に吉田神社の基礎を作った吉田兼倶の捏造という見解があり、現在では、卜部兼好、あるいは兼好法師と称されている。卜部兼好は、弘安六年(1183)の生まれで文和元年(1352)に没している。元弘の弘安の役の二年後に生まれ、南北朝の時代の室町初期に没した。前筆した説話集『沙石集』の無住とは、生没が、ほぼ半世紀ほど跡である。
(京都 法観寺の塔)
卜部兼好は、官人として六位蔵人の六年勤務年限を勤め、従五位左兵衛佐に昇進し三十歳前後に出家遁世したとされる。その後、歌人として『兼好歌集』、随筆家として『徒然草』を著作した。『徒然草』の成立は、鎌倉末期の元弘の乱の直前である厳徳二年(1330)八月から元弘元年(1331)九月とされてきたが、『徒然草』二十七段には、文保二年(1318)の後醍醐天皇の践祚の様子も記述されており、現在は長年書き留めていた文章を後醍醐天皇の治政の末期頃にまとめたとする説が有力である。また兼好は、六波羅探題であった金沢貞顕と関係があり、少なくとも二度関東下向があったとされ、貞顕による称名寺長老釼阿に宛てた卜部兼好書名の二通の文書が金沢文庫に残されている。『徒然草』二百三十八段に貞顕が建立した常在光院の鐘銘誤りを鋳造前に指摘した事を記しており、『徒然草』第百十九段では かつおを食するようになった当時の鎌倉の様子を示すおもしろい話がある。以前に私自身が、新潮日本古典集成、木藤才蔵校注『徒然草』を現代訳でまとめていたので、その訳文で紹介したい。
(横浜市金沢区の称名寺)
「鎌倉の海に、かつをといふ魚は、かの境ひには、さようなきものにて、このごろもてなすものなり。それも、鎌倉の年よりの申し侍りしは、「この魚、おのれが若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切り捨てて侍りしものなり」と申しき。かようの物も、世も末になれば、上(かみ)ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」。
現代語訳
「鎌倉の海の鰹と言う魚は、この土地では、物事が変り、最近もてはやされているものである。それも、鎌倉の年寄が申すのには、『この魚、私どもが若かりし頃までは、れっきとした人の前にお出しすることはございませんでした。頭は身分の低い者も食べず、切り捨てていました』と申す。このような魚も、末世となると、上流階級にまでも入り込むという次第である」。
京都では、海が遠いため、傷むのが早い魚は川魚が主流であった。京都の鯖の塩漬けや、夏場の鱧を食べることが有名だ。鯖を常時京に運ぶため丹後から滋賀県の琵琶湖西岸の比良山系の西を通り途中越えを行って洛中に運ばれた。これを鯖街道と伝わる。夏場は特に魚が傷むので、頭をおとしても生き続けるという生命力の高い鱧を淡路島から大阪、淀川・京街道を通り運ばれている。夏場の貴重なたんぱく源であった。京都の有名な西京焼きは、日持ちさせることで西京味噌により魚を保存する。西京味噌は江戸時代に現在の形になったと言われているが、平安時代にはそれに準じる味噌があったとされるが、みそ漬けにした魚は非常に高価で、貴族もしくは高僧しか食べることは出来なかった。高僧が食べるとは殺生であるが、これらの悪僧の増加により、鎌倉新仏教の戒律を重視する禅宗や真言律宗等を普及に繋がった要因とされる。味噌漬けの魚の一般民への普及は室町中期ごろとされ、その後の江戸期には米を大量に使う白味噌が出来、白味噌の焼いた香ばしさと旨味の凝縮で西京味噌が発展していった。御所の献上品や江戸幕府にも献上され、西京焼きは高級品として今に至っている。
(京都清水寺)
鰹は、今では冷凍技術も発達し、刺身としても食べられるが、当時京都では新鮮でないと食べることが出来ない鰹が、この当時から鎌倉で食べられるようになったことが窺える。太平洋沿岸の地域では食べられるようになったのがいつ頃かは不明であるが、この時期からかもしれない。鰹のたたきは、漁をした後に漁村に運び、それでも匂いや傷みが出るため、表面を焙ったと推測される。また、表面を焙ることで香ばしさと旨味が凝縮し風味を増やす事を知ったのだろう。その為、高知県の皿鉢料理に盛られる鰹のたたきは、ネギとニンニク、ミョウガ・生姜等の薬味と酢醤油でまぶされている。今では藁で焙った鰹や塩のみで食べたりもされている。いかにも限られた資源の中で、どの様に倹約し、それ以上の物に加工するかが、民の知恵でもあるが、政治のの本質と言えよう。
『徒然草』百八十四段「障子の切り張り」には、鎌倉幕府五代執権北条時頼の母・松下禅尼が破れた障子を手ずから張り直して、時頼に質素倹約を教えている話が記されている。
(鎌倉 甘縄神社横の安達盛長邸跡と甘縄神社)
「相模守時頼の母は、松下禅尼(ぜんに)とぞ申しける。守(かみ)を入れ申さるる事ありけるに、すすけたる明かり障子(しょうじ)の破ればかりを、禅尼手づから小刀(こがたな)して切りまはしつつ張られければ、兄の城介義景(じやうのすけよしかげ)、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、なにがし男(をのこ)に張らせ候はん、さやうの事に心得たる者に候」と申されければ、「その男、尼が細工によりもまさり侍らじ」とて、なほ一間(ひとま)づつ張られけるを、義景、「皆を張りかえ候らはんは、はるかにたやすく候ふべし。まだらに候ふも見ぐるしくや」と重ねて申されければ、「尼も、後はさはさはと張りかへんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は敗れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心つけんためなり」と申されける。いとありがたかりけり。
世を治むる道、倹約を本(もと)とす。女性(にようしやう)なれども、聖人の心に通えり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、だだ人にはあらざりけるとぞ」。
(鎌倉 甘縄神社)
現代語訳
世を治める道は、倹約を基とする。女性であるが、その心は聖人の心に通じる。天下を保つほどの人を子に持って、実に、ただの人ではなかった事が窺える」。 ―続く―