鎌倉散策 五代執権北条時頼 二十六、宝治合戦前夜 二 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 宝治合戦の発端は、帰洛させられた入道大納言(行智、藤原頼経)が、建立した鎌倉十二所の五大明王を三浦光村が、院賞翫(しょうがん:尊重)した事から世を乱す源になったとされている。この時の経過を『吾妻鏡』に見ることにする。

 『吾妻鏡』宝治元年(1247)五月に十八日条、「今日の夕方、光る物があり、西の方角から東の方角の空に飛んだ。その光はしばらく消えなかった。その時、秋田城介(安達)景盛の甘縄の家に白旗が一本現われ、人はこれを見たという」。

 同月二十一日条、「『若狭前司(三浦)泰村は、独断の余り厳命に背いているため、近いうちに誅罰を加えられるとの審議が行われた。よくよく慎むように。』と木札に記され、鶴岡(八幡)宮の鳥居の前に立てかけられていた。人々はこれを見たという」。

 同月二十六日条、「土方右衛門二郎が逐電した。彼は、若狭前司(三浦義村)に同意していたものである。そうしたところ一通の願文をある社頭に掲げたため、思いがけずに左親衛(北条時頼)がその趣旨を知られた。これは、泰村一党の反逆には加担しないで、雷神は御加護を加えて安全を御守りくださいとの事という」。

  

(鎌倉 甘縄神社 安達盛長邸跡)

 同月二十七日条、「左親衛(北条時頼)は御軽服のため若狭前司(三浦)泰村の邸宅に寄宿されていた。そうしたところ今日、泰村の一族が群集する気配があったが、全く(時頼の)御前に祇候する事はなく、ただの閑所にいた。いずれも髻を放ち、直衣も身に付けていなかった。これは、表立ってはそのまま盃酒など(時頼に)捧げるなど、ひたすら接待に努めているようであったが、内々に他の用意がある事は明らかであった。その上、夜になって鎧・腹巻を身に付ける音が(時頼の)耳に響いた。このところ方々から報告があった事を(時頼は)決して信じていなかったが、全く符合するので、(それらを)思い合わせて急に泰村の館を出て本所に帰られた。主達(従者)一人(五郎四郎という)のみがわずかに御太刀を持って御供したという。亭主(泰村)はこの事を聞いて大変驚き、内々に陳謝したという」。

 

 同月二十八日条、「このところ世情が鎮まらない。これは全く三浦の者に逆心があるため、人々が皆恐れていたためである。三浦の一族は、官位と言い俸禄と言い、このときに恨みをいだくはずはないものの、入道大納言(行智、藤原頼経)が帰洛した事は全くその意に反するもので、暇獅子に(頼経を)したい奉ていた。中でも能登前司(三浦)光村は、幼少の初めから側近に仕え、舞や御前で(寄宿して)寝て、日が高くなってから側近くを退いていた。起居や戯れの御話、折々の御遊行など、すべてに懐旧の情を禁じえなかった上に、密かに(頼経の)厳約を承る事があったという。(頼経は)およそ関東の鬼門の方角に五大王院を建立され、祈禱の効果のある仏法に通じた高僧や陰陽道の者を重んじて、また普代の武士等を愛されたという。多くの人の考えるところでは、ただ乱世の基である。はたして光村らの計画は既に発覚したと言える。この事について左親衛(北条時頼)は今夜、御使者を若狭(三浦泰村)と親類・郎従らの(家の)辺りに送られ、その形勢を探られたところ、それぞれ武具を屋内に整え、その上に安房・上総以下の所領から船で甲冑の様な物を運んでおり、特に隠密の計画ではないようだと申したという」。

 

 同月二十九日条、「三浦五郎左衛門尉(盛時)が左親衛(北条時頼)の御方に参って申した。『去る十一日、陸奥国津軽の海辺に大きな魚が打ち寄せられ、その形は全く死人の様でした。先日、由比の海水が赤色になったのは、あるいはこの魚が死んだためでしょうか。そこで同じころ、奥州の海では、波が赤くなって紅の様でした』。この事をそのまま古老に尋ねられたところ、先例は不吉であると申した。すなわち文治五年の夏にはこのような魚があり、同年の秋に(藤原)秀衡が誅伐され、建仁三年の夏にもまた(大魚)流れ着き、同年の秋には左金吾(源頼家)の御事があった。建保元年四月にも出現し、同五月には(和田)義盛の大乱があった。ほとんど世の御大事であるという」。

『吾妻鏡』が、編纂されたのが、鎌倉期の中・後期であり、編纂者が特に泰時・時頼を忖度するような記述も見られ、宝治合戦の三浦氏の謀反が明確に証明されていない事も窺い見ることが出来、安達氏の挑発と急襲による合戦であったと考える。北条氏が起こしてきた御家人間抗争で、明確に両者が意図した合戦が生じたのは和田合戦だけと言って良い。他は、北条氏による画策と冤罪によるものと考え、この宝治合戦もそのようであった。

 

(鎌倉 成就寺から見た由比ヶ浜)

 同年六月一日条、「左親衛(北条時頼)は、近江四郎左衛門尉(佐々木)氏信を御使者として、若狭前司(三浦)泰村に仰せられる事があった。人はその趣旨を知らなかった。氏信は泰村の家に行き、まず侍の上に着座し、取次を頼んだ。そして亭主が出てくるまでの間にそばを見ると、弓が数十張、そや並びに鎧唐櫃(よろいからびつ:鎧を入れる櫃)の卓数十本が置いてあった。氏信はこれを怪しみ、郎従の友野太郎に館内の様子を窺わせたところ、厩侍に積まれていた鎧唐櫃は、だいたい百二三十合かと氏信に伝えたという。しばらくして泰村は氏信を出居(寝殿造りで主人の居間兼客間)に招き、(時頼の)命を承った後、互いに雑談をした。泰村は『このところ世間がさわがしいのは、全くこの身の愁いの様である。その理由は、兄弟がともに他門の宿老を超え、既に正五位以下となっている。その他の一族も多くが官位を持っており、さらに守護職数ヵ国、庄園数数万町が我が一族の知行するところである。栄運はすでに窮まっている。今となっては上天の加護はたいそう測り難いため、讒言を避けるために慎んでいる。』という。氏信は帰参すると御返事を(時頼に)申し、またその用意の様子を内々に旧労の人々に語ったという。そこで殿中のご用心は、ますます厳しい御処置となったという」。

 

 同月二日条、「近国の御家人等が、南から北から(鎌倉に)急行した。左親衛(北条時頼邸)の郭外の四面を取り囲み、雲霞の様であり、それぞれ旗を挙げた。相模国の住人らは、いずれも人を南方に張り、武蔵国の党々や駿河・伊豆国以下の者は東・西・北の三方向にいた。すでに四門を閉ざし、たやすく参る者はいない。また雑役の車を集めて辻々を固めた。

 この時、近江守(佐原)盛連の子息らはいずれも時頼の御邸宅に参った。これは、若狭前司(三浦泰村)は一族ではあるが、決して同意する事はなく、その上に光盛以下は、故匠作(北条氏時)との旧好を重んじて全く異心が無いためである。兄二人もまたこれに従った。佐原太郎経連・比田次郎広盛・次郎左衛門尉(佐原)光盛・藤倉三郎盛義・六郎兵衛(佐原)時連等は、まだ門が閉ざされる前に(時頼定に)入った。五郎左衛門尉(佐原)盛時は少し遅れたため光盛らは慌てたが、時連が言った。「たとえ門戸が閉ざされても、五郎左衛門尉の参るのが滞る事はないだろう」その言葉がまだ終わらない内に、手を挟み板の上にかける者がいた。人々が目をやると、これが盛時であった。一瞬にしてその挟み板を飛び越え、庭の上に立った。兄弟らは特に喜び、諸人も感心しない者はいなかった。時頼らもまたしきりに興に入られ、すぐに諏訪入道蓮仏(盛重)を通してまず面々に喜びを伝えられ、次に御前に召して鎧を賜った」。

  

(佐原義連/江戸時代『前賢故実』より。が:菊池容斎) 

 三浦氏佐原流の光盛・盛時・時連は、母が矢部禅尼であった。矢部禅尼は北条泰時に嫁ぎ、時氏を産むと離別している。不仲であったと言う事は語られておらず離別の理由は定かではない。その後、矢部禅尼は佐原盛連に再婚し、光盛・盛時・時連を産んでいる事から北条氏時とは異父兄弟に当たり、矢部禅尼は執権時頼の祖母にあたる事になる。佐原流の祖は、佐原義連で、『平家物語』では、源平合戦において源義経に従軍し、鵯越の戦いの「逆さ落とし」で真っ先に駆け下った武勇が記されている。義連の孫が盛時に当たり、北条時員の娘を娶った。宝治合戦において三浦の本流は滅亡したが、後に三浦を継承・再興するが、待遇はあくまでも佐原時代の物を踏襲したとされている。 ―続く