鎌倉散策 五代執権北条時頼 二十七、宝治合戦前夜 三 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 緊迫する鎌倉において、反三浦氏の御家人・安達氏と思われるが、執拗に三浦に対して讒言が行われていった。

 『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月三日条、「晴れ。風は静かであった。左親衛(北条時頼)が無事御祈祷を始められた。すなわち大納言法印隆弁は五穀を断ち、殿中で如意輪の非法を行ったという。この外には御祈禱は行わないという。

 今日若狭前司(三浦)泰村の南邸で落書き(檜の板に記されていた)があった。その文面は以下の通り。

 『このところ世間が騒いでいるのは、どうしてか知らずにおられます。貴方が討たれると位の事です。(あなたのことを)思って、御心得のために申します。』

 若州は(泰村)は、自分に害をなすものの仕業であるといい、すぐに(板を)壊した。しかし時頼の御方には申し入れたという。『世間のうわさによって人の内々の議論をうかがうと、わが身の上についてその恐れが無いわけではありません。泰村は決して野心を抱いておりませんが、総じて物騒であるため、国々の郎従らが集まって来た事があり、きっと讒言の原因となったのでしょう。このために御不信があれば、速やかに(郎従らを)下向させます。もしまた(他の者を)戒められる事があるならば、他数人の力が無ければ御大事に役立ちません。進退は貴命にしたがいます』。決して疑ってはいないと(時頼の)御返事があったという。総じて先月の夜中、急に泰村の館を出て本所に帰られてから、泰村はたいそう歎き、朝晩に心配して全く寝食を忘れているという」。

 

 三浦泰村は、『承久記』から宇治川渡河で足利義氏と共に果散に攻め込み武勇に優れた人物であった。しかし、最有力御家人である三浦という立場から、他の御家人を侮り、争いを起こすなどして他御家人から恨みを抱く面もあった。下河辺氏との駿河国の所領を巡っての相論や小山氏との乱闘騒ぎ、また宝治合戦直前の三月には闘鶏会の席で泰村自身が喧嘩騒動を起こしている。北条氏との関係と方針を巡り、弟の光村と齟齬を期し、政治家としての立ち回りや指導力には疎い面があったように考えられる。父・義村と違い一族を率いる総物としての祖様がなかったのである。安達氏が北条得宗家の外戚となった事で、幕府内での枢要な地位が三浦から安達へと移行していった事を掌握できずにいた。その事が結果的に安達氏との関係の軋轢を激化させている。それが三浦泰村の孤立をさせ、泰村はそれに気づく事も無かった。

  

 同月四日条、「若狭前司(三浦泰村)と一族らの郎従・眷属が、あれこれと諸国の所領から泰村の西御門の宿所に集まり、甲冑を身に着けたし卒が並んで人垣をなしている。また総じて御家人や左親衛(北条時頼)に祇候している人も同様に群参し、日増しに増加しているため、鎌倉中の門戸に満ち溢れて自他の軍勢を区別できないという。事態はすでに重大事に及ぼうとしている。このため今日、退散せよと伝えるよう、保々奉行人に命じられた上に諏訪兵衛入道(蓮仏、盛重)・万年馬入道らを御使者として、直接に厳制を加えたという。そうしたところ関左衛門尉正康は、御命令に応じて鎌倉を出て常陸に下向したところ、道中で泰村が追討されるであろうとある人から知らせを聞き、泰村方に加わるため、夜になってまた鎌倉に帰った。政泰は泰村の妹を妻室としているため、いずれは連座を逃れられないと思いきったためという。

 子の刻(午前零時ごろ)に毛利入道西阿(季光)の妻室〔白の小袖・褐(かち:濃い紺色)の帷(かたびら)を着て、わずかに端女(はしため)一人を連れていたが〕が急に兄の若狭前司宇泰村の西御門の宿所にやって来て言った。『このところ騒動については、何とも思っていなかったところ、貴方が討伐されると、確かにその知らせを聞きました。この上は、何とかして勝を求められますように。そうすれば、毛利入道はきっと味方してくれるでしょう。たとえ二心があっても私が諫めて同心させます』」。

 通説において北条時頼は、和田義盛の乱と同様に、鎌倉全土に及ぶ合戦により多大な被害を恐れ、三浦氏との和平を最後まであきらめずに交渉を行い、合戦を避けるための最善策を求めたという。しかし本来、三浦氏に決戦を有する兵具の準備と兵の招集が行われていれば、また泰村が、これらの助言を得て先手を打ったならば、勝機があったのだろうか。

  

 同月五日条、「辰の刻に小雨が降った。今朝方、鶏鳴の後、鎌倉中は益々騒動となった。未明に左親衛(北条時頼)が先ず万年馬入道を(三浦)泰村の所に遣わして郎従らの騒動を鎮めるよう命じられた。次に平左衛門入道盛阿(盛綱)に託して御書状を泰村に遣わされた。これは、『世情がさわがしく、あるいは天魔が人に入っているのであろう。上の計らいは、貴殿を誅伐される用意をしているのではないでしょう。この上は、このところのように異心があってはなりません。』との趣旨である。その上に御誓言を書き加えられたという。泰村が御書状を聞いている時に、盛阿は言葉を尽くして和平の事情を述べた。泰盛は特に喜んで、また詳しく御返事を申した。盛阿が座を立った後、泰村はまだ出異にいた。妻室が自ら湯漬けをその前に持ってきて(泰村に)勧め、(時頼からの)安堵の仰せを賀した。泰村は一口湯漬けを食べてすぐに嘔吐したという。

その時、高野入道覚地(安達景盛)は御使者を遣わされた旨を伝え聞き、子息の秋田城介(安達)義景・孫の九朗泰盛(それぞれあらかじめ甲鎧を着ていた)を招き、叱咤して言った。『和平の御書状を若州(泰村)に遣わされた上は、今後、三浦の一族が独り驕り高ぶり、ますます当家を侮った時に、敢えて対抗しようとすれば、かえって災いとなることは疑いない。ただ運を天に任せて、今朝、絶対に雌雄を決するべきで、決して後日を期してはならない』。・・・」

 

 寛元四年(1246)に、北条時頼が六波羅探題に就いていた北条重時の鎌倉に招来させる旨を三浦泰村に打診したが、これを拒否している。重時の帰参により自身の政治的影響力が低下すると懸念したようでこれも時頼や北条一門に心証を悪くさせたと考えられる。歴史学者の永井晋氏は、重時の招来を承諾しておれば温厚な重時により三浦氏の処置を計ってくれたかもしれず、穏便派を遠のけた事により三浦氏廃絶の筆頭である安達景盛が積極的に干渉する機会を与えて、結果として泰村は自ら墓穴を掘ったとも指摘されている。石井清文氏は、重時招来を拒否した事を知った重時に三浦氏排除の必要性を認識させ安達氏等の反三浦氏勢力と結んだのが宝治合戦の原因としている。武術には優れた武者であったが非常時や切迫した状況下での判断力が劣る人物であったと「北条氏系譜人名事典)に記されており、歴史学者の永井晋氏は「武者としては一流であるが、武将としての才能には恵まれなかったのであろう」と評している。

 

 北条時頼は、和平を模索する中、安達氏の三浦氏に対しての急襲により、外戚である安達氏に協力して、最大有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉にて滅ぼす事になる。北条時頼について、歴史学者の石井進氏は、「聖人君子である北条泰時と比較すると、強硬手段や、悪辣な事も多くやっている」。また高橋信一郎氏は「とにかくまじめで責任感が強い」と評している。小説家の永井路子氏は、「二面性がある」「小説で書くと良い人だか悪い人だかわからないと言われる」。私見であるが、承久の乱以降に生まれた時頼は、北条泰時男の孫として平穏な中で育ち、弓の素質に優れたと称されるが、実際に合戦にいどんだ事はない。『吾妻鏡』を見る上で、まじめで、優等生的に見える反面、積極性に欠ける優柔なる面と、猜疑心が強い面を持っているようにも見える。ただ、この宝治合戦後に北条時頼が変貌しているように見えるのは、私だけであろうか。 ―続く