鎌倉散策 五代執権北条時頼 二十八、宝治合戦 三浦泰村の苦悶 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 宝治合戦は、安達氏の挑発による心理戦と急襲・奇襲による合戦であったと考える。しかし、この心理戦で、北条時頼が安達氏と供託して行ったかどうか定かではない。しかし、『吾妻鏡』を読み取る中で、不明な点が浮かび上がる事も事実である。供託したようにも考えられる点が興味深い。宝治元年の三月から起きた鎌倉での怪異現象。北条時頼と覚地(安達景盛)の密会と安達氏の動向。揺れ動く三浦泰村に北条時頼が、同年五月六日に泰村の次男・駒石丸を養子に迎える要望を告げている事は、泰時にとっては北条氏との関係改善に対し、青天の霹靂のような申し出であった事であろう。また、三浦泰村は、時頼が自身に対しての敵意が無い事も推測したと考える。そして、将軍頼嗣室の檜皮姫の死去に伴い、軽服のため北条時頼が三浦泰村邸に入った事で、時頼が泰村自身への敵意が無いことを確信したのではないだろうか。三浦氏の謀反の兆しがある中、時頼の三浦邸寄宿は、時頼の合戦回避の動きとみる説もあるが、謀反の兆しを時頼自身が見聞したことになった。時頼は夜になって鎧・腹巻を身に付ける音が(時頼の)耳に響いた事で、急に泰村の館を出て本所に帰られた。泰村は、この事を聞いて大変驚き、内々に陳謝したという。この事で関係改善への不安は失われ、いっそう心痛の思いとなっている。これらが心理戦の始まりである。しかし、またしても、鎌倉に光るものが現われ、甘縄の安達邸に源家の白旗が出現し、多くの人がこれを見て頼朝の御示現かと噂が出た。そして、鶴岡八幡宮にて三浦泰村の誅伐を示唆する板が置かれる。続いて、泰村が謀叛を計って自身を陰謀に引き入れようとし、三浦により殺害される事を恐れて、ある神社に願文を納め、泰村から逃れるため逐電したという駿河土方郷の土方義政の願文を時頼が入手した。しかし『吾妻鏡』には「ある神社」と記されているだけで、社名はわからない。そして神社に納められた願文は神域に納められた物で、執権であっても容易く時頼が一見できるとは考えられない。北条時頼・安達景盛の策略であったとも考えられ、『吾妻鏡』の編纂時に後書きで演出されたのかもしれない。

  

(鎌倉 甘縄神社)

 北条時頼は、その翌日に家臣を使者に立、三浦光村の館に送った。光村は、「密かに(頼経の)厳約を承る事があったという。およそ関東の鬼門の方角に(頼経が)五大王院を建立され、祈禱の効果のある仏法に通じた高僧や陰陽道の者を重んじて、また普代の武士等を愛されたという。多くの人の考えるところでは、ただ乱世の基である。はたして光村らの計画は既に発覚したと言える。この事について左親衛(北条時頼)は今夜、御使者を若狭(三浦泰村)と親類・郎従らの(家の)辺りに送られ、その形勢を探られたところ、それぞれ武具を屋内に整え、その上に安房・上総以下の所領から船で甲冑の様な物を運んでおり、特に隠密の計画ではないようだと申したという」。

 決定的な内容が『吾妻鏡』宝治元年六月一日条に記されている。「左親衛(北条時頼)は、近江四郎左衛門尉(佐々木)氏信を御使者として、若狭前司(三浦)泰村に仰せられる事があった。人はその趣旨を知らなかった。氏信は泰村の家に行き、まず侍の上に着座し、取次を頼んだ。そして亭主が出てくるまでの間にそばを見ると、弓が数十張、征矢(そや)並びに鎧唐櫃(よろいからびつ:鎧を入れる櫃)の卓数十本が置いてあった。氏信はこれを怪しみ、郎従の友野太郎に館内の様子を窺わせたところ、厩侍に積まれていた鎧唐櫃は、だいたい百二三十合かと氏信に伝えたという。しばらくして泰村は氏信を出居(寝殿造りで主人の居間兼客間)に招き、(時頼の)命を承った後、互いに雑談をした。泰村は『このところ世間がさわがしいのは、全くこの身の愁いの様である。その理由は、兄弟がともに他門の宿老を超え、既に正五位以下となっている。その他の一族も多くが官位を持っており、さらに守護職数ヵ国、庄園数数万町が我が一族の知行するところである。栄運はすでに窮まっている。今となっては上天の加護はたいそう測り難いため、讒言を避けるために慎んでいる。』という。氏信は帰参すると御返事を(時頼に)申し、またその用意の様子を内々に旧労の人々に語ったという。そこで殿中のご用心は、ますます厳しい御処置となったという」。

 

 これらの装備に伴う兵数は、多く見積もっても二三百人程度であり、鎌倉に居る三浦氏の規模からして自衛の範囲に留まる数である。また三浦泰時が、「今となっては上天の加護はたいそう測り難いため、讒言を避けるために慎んでいる。」と述べた事が、泰村の謀反の意思が無い事の現状を読み取れる記載ではなかろうか。そしてこの知らせが、北条時頼が知り、御家人達にも知りえた事で合戦の方向へと導かれた。

 翌二日条、「近国の御家人等が、南から北から(鎌倉に)急行した。左親衛(北条時頼邸)の郭外の四面を取り囲み、雲霞の様であり、それぞれ旗を挙げた。相模国の住人らは、いずれも人を南方に張り、武蔵国の党々や駿河・伊豆国以下の者は東・西・北の三方向にいた。すでに四門を閉ざし、たやすく参る者はいない。また雑役の車を集めて辻々を固めた。・・・」とあり、この配備は北条時頼が合戦に方向を進めた事になり、源頼朝挙兵以来の最有力御家人である三浦氏が滅亡する事になる。三浦氏が、兵具の準備と兵の招集が行われておれば、和田義盛の乱と同様に鎌倉中が合戦となり、多大な被害が鎌倉全土に及ぶことになったであろう。しかし三浦泰村は、打って出る事無く自邸で慎んでいた。

 

 同月三日に、三浦泰村の南邸で落書きがあり、その文面は以下の通りである。

 『このところ世間が騒いでいるのは、どうしてか知らずにおられます。貴方が討たれると位の事です。(あなたのことを)思って、御心得のために申します。』

泰村は、自分に害をなすものの仕業であるといい、すぐに(板を)壊し、北条時頼には申し入れた。『世間のうわさによって人の内々の議論をうかがうと、わが身の上についてその恐れが無いわけではありません。泰村は決して野心を抱いておりませんが、総じて物騒であるため、国々の郎従らが集まって来た事があり、きっと讒言の原因となったのでしょう。このために御不信があれば、速やかに(郎従らを)下向させます。もしまた(他の者を)戒められる事があるならば、他数人の力が無ければ御大事に役立ちません。進退は貴命にしたがいます』。決して疑ってはいないと(時頼の)御返事があったという。絶望的な境地に追い詰められながら、泰村の文面は微細な点に至るまで配慮が行き届いていた。すでにこの時期には、泰村邸は孤立していたと思われ、申述した兵数では北条得宗家を迎え撃つには及ばない状況に置かれていた。しかしこの文面の中で、「我が方には、国々の郎従らが参集している。決して無力ではない」と暗に時頼を威圧しており、さらに「それが気に入らいらないのであれば郎従裏を追い返す」と言った一見、執権北条時頼に従順そうな態度も示している。時頼の返事は「あえて氷擬に及ばず(決して疑っていない)」という一事であった。

 

 北条時頼は自邸を防備しながら、三浦泰村及び鎌倉中に参集する武士の解散を指示する等をこの時点になっても行い、鎌倉中を合戦による被害を避けるためなのか、自身を保持するための小心の行動なのか疑う。また、時頼の多大な猜疑心から優柔不断な行動で時間だけが過ぎて行った。しかしこれらの遅延行動と策略により戦火が鎌倉の西御門から二階堂永福寺に至る範囲で抑えられたことも事実で、これらの事から北条時頼の行動と施策が不可思議で、時頼の評価が分かれる点である。  ―続く