鎌倉散策 五代執権北条時頼 二十九、宝治合戦 鬨(とき)の声 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月五日条、「・・・高野入道覚地(安達景盛)は御使者を遣わされた旨を伝え聞き、子息の秋田城介(安達)義景・孫の九朗泰盛(それぞれあらかじめ甲鎧を着ていた)を招き、叱咤して言った。『和平の御書状を若州(泰村)に遣わされた上は、今後、三浦の一族が独り驕り高ぶり、ますます当家を侮った時に、敢えて対抗しようとすれば、かえって災いとなることは疑いない。ただ運を天に任せて、今朝、絶対に雌雄を決するべきで、決して後日を期してはならない』。このため城九朗(安達)泰盛・大曾根左衛門尉長泰・武藤左衛門尉景頼・橘薩摩十郎(小鹿島)公義以下、一味の者が軍士を率いて甘縄の館を走りでて、同門前の小路を東三向かい、若宮大路の中下馬橋北に着くと鶴岡(八幡)宮寺の赤橋を渡り、どうにか盛り上が帰参する前に神護寺(鶴岡八幡宮の神宮寺)の門外で鬨(とき)の声を上げた。公義は五石畳文の旗を差し、筋替橋(すじかえばし:鎌倉横大路が西御門川を渡る箇所に合った橋の北)辺りに進むと鳴鏑(矢の先端に鏃と音の出る鏑を付けを矢)射た。この間に人を(鶴岡)宮の中に張っていた武士は、すべてこれに加わった。そこに泰村は、今改めて驚いたものの、家子・郎従らは防戦させたところ、橘薩摩余一(小鹿島)公員〔甲鎧を身に付けず、狩装束であった〕は、以前から先陣を切ろうと考え、密かに車を並べた柵の内に入り、泰村の近辺のあばら家に泊まっていた。鬨の声が上がったため、小河次郎(射殺された)に進みよった。中村馬五郎も並んだ。いずれも泰村の郎党に傷を受けた。これ以前に盛阿は馬を飛ばして帰り、事態の経緯を(時頼に)申した。しかし三浦の一族が用意をしているのは勿論であるが、あれこれ御沙汰があったため、和平の策をめぐらしていたところ、泰盛がすでに攻め寄せた以上、調停する術はなかった。まず睦掃部助(金沢)実時に幕府を警護させ、次に北条六郎時定を指名して大手の大将軍とした。時定は、車を並べた柵を撤収すると、旗を挙げて塔辻から急行した。従うものは雲霞の様であった。

 

(鎌倉 法華堂跡 三浦泰村と一族の墓)

 諏訪兵衛入道蓮仏(盛重)は並びない勲功を立てた。信濃四郎左衛門尉(二階堂)行忠は、特に勝負を決して分取(敵の首を取ること)りを得た。総じて泰村の郎従・精兵らは、諸所の辻に護りを設けて矢を放った。御家人もまた身命を忘れて攻め寄せた。巳の刻(午前十時頃)に、毛利蔵人大夫入道西阿(季光意)が甲冑を着て軍勢を率い、御所に参るために出立したところ、その妻室(泰村の妹)が西阿の鎧の袖を取って言った。『若州(泰村)を見捨てて左親衛(時頼)の御方に参る事は、武士のする事でしょうか。まことに長年の同意を反故にするものです。どうして後の聞こえを恥じないのですか』。西阿はこの言葉を聞き、心が変って泰村の陣に加わった。この時、甲斐前司(長井)康秀の邸宅は西阿の近隣であった。泰秀は、御所に急行したため、西阿と出会ったが、押し留めることは出来なかった。これは、親しい間柄を考慮したためではない。また(季光が)泰村に与する考えを退けたものでない。同じ場所で追討を加えるためである。まことに武士の道に叶うもので、心ある処置という。万年馬入道は時頼邸の南庭に急行し、馬に乗ったまま、申した。『毛利入道殿は敵陣に加わられました。今となっては、世の大事となる事は必然でしょう』。時頼はこの事を聞くと、午の刻(午後零時頃)に御所に参り、将軍(藤原頼嗣)の御前に祇候され、重ねて策略を廻らされた。

 

(鎌倉 白旗神社 源頼朝墓)

 折しも、北風が南風に変わったため、火を泰村亭南隣の民家に放った。風が頻りに吹き、煙が泰村の館を覆いつくした。弟の能登守光村は、永福寺の総門の中に居て従兵八十余騎が陣を張っており使者を兄の泰村のもとに遣わして行った。『永福寺は優れた城郭です。ここでともに討手を待ちましょう』。泰村が答えて行った。『たとえ鉄壁の城郭であっても、きっと今となっては逃れられまい。同じ事ならば、故将軍(頼朝)の御影の御前で最期を迎えようと思う。速やかにここに来るように』。

特使を互いに一二度送ったが事態は急を要するため、光村は永福寺の門を出て法華堂に向かった。その途中で一時合戦となった。甲斐前司康秀の家人と出羽前司(二階堂)行義・和泉前司(二階堂)行方らが妨げたからである。両方の兵が多く傷を受けたという。光村はとうとう法華堂に参った。その後に、西阿(毛利季光)・泰村・光村・(三浦)家村・(三浦)資村と大隅前司(大河戸)重隆・美作前司(宇都宮)時綱・甲斐前司(春日部)実影・席左衛門尉政泰以下は、御影堂の御前に並び、あるいは昔のことを語り、あるいは最後の述懐を述べたという。西阿は専修念仏の者である。人々に進めて、極楽往生するため法事讃を諷誦して廻向した。光村が調声(ちょうせい:法会の際、経や偈を唱えて唱和の調子を整える)となったという。

  

 時頼の軍勢は寺の門に入攻め入り、競って石段を上ると、三浦の勇士らは防戦し、弓剣の技を競った。武蔵蔵人太郎(大仏)朝房が攻撃で大きな戦功があった。これは、父朝臣(大仏朝直)に勘当された身であり、一人も従うものがおらず、ただ疲馬に乗っていたばかりで、甲冑も身に着けていなかったため、容易に討たれるところ、金持次郎左衛門尉(泰村方)に助けられてその命を長らえたという双方の戦いはほとんど三刻に及んだ。敵陣は矢が無くなって力尽き、泰村以下の主だったもの二百七十六人をはじめ、都合五百余人が自殺視野。この中には、幕府の番帳に登録されている者二百六十人がいたという。次に壱岐前司(佐々木)泰綱・近江四郎左衛門尉(佐々木)氏信らが仰せを受けて、平内左衛門尉(長尾)景茂を追討するため、景茂の長尾の家に向かった。鬨の声を上げたところ、家主親子は、法華堂で自殺しており、防戦する者はいなかった。そこで、それぞれむなしく馬を返した。ただし子息の四郎景忠に出会い、生け捕って参ったという。甲冑の武士等十余騎が泰綱の行く道を塞いで先陣を競っていたため、泰綱がその名前を尋ねたが、全く返答しなかった。そうしたところ景茂らはいなかったため、合戦は行わらず、しかもその武士は名乗りながら逐電したという。

  

(鎌倉 法華堂跡)

申の刻(午後四時頃)に死骸を実検された後、急使を京都に遣わされ、御消息二通を六波羅の相州(北条重時)に遣わされた。一通は奏聞し、一通は近国の守護・地頭らに下知させるためである。また事書(箇条書きで書かれた文書)一紙が同じく副えられた。時頼が御所の休幕(休憩の場を取り囲む幕)でこの事を処置された。その文書は以下の通り。

若狭前司や寿村・能登前司光村以下、舎弟・一族の者が、今日の巳の刻(午前十時頃)にとうとう矢を放ってきたため合戦となり、ついにその身をはじめ一家の者は誅罰されました。この旨を冷泉太政大臣(藤原実氏)殿に申し入れられますように。慎んで申します。

六月五日   左近将監(北条時頼)

勤上 相模守(北条重時)殿

 

(鎌倉 白旗神社) 

追って申します〔礼紙(れいし:所上の本誌に儀礼的に添える一葉の白紙。本誌に続けて要件を記す場合もある)で申した内容は以下の通り〕。 

 毛利入道西阿(季光)は思いがけず同心したため誅罰されました。

 若狭前司や寿村・光村一家の者・一味の者らは、以前から(合戦の)備えをしているとの風聞があったため、用意されていたところ、今日(五日の巳の刻)に矢を放ってきたため合戦となり、その身をはじめ一家の者・一味の者らは罰されました。それぞれこの旨を承知し、(鎌倉に)急行してはならない。その上に又、近隣に伝えよと、広く西国の地頭・御家人に命じられるよう、仰せによりこの通り伝える。

 六月五日   左近将監(北条時頼)

 勤上 相模守(北条重時)殿

 

事書は以下の通り。

一、   謀叛の者について

主だった親類・兄弟などは、事情によらず召し捕えられるように。その他、京都の雑掌や国々の代官・所従などについては、御処置には及ばないものの、委しく調査し、注進に従って(鎌倉で)処置する。   ―続く