鎌倉散策 五代執権北条時頼 三十、宝治合戦の真相 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 宝治合戦は、北条時頼と安達景盛の策謀にかかり、三浦泰村が鎌倉で挙兵し、叛乱が失敗したと。そして、北条氏と安達氏の軍勢を前に大敗し、泰村は一族郎党と共に法華堂に追い詰められ、その地で自害して果てたと記述される物もある。しかし、『吾妻鏡』を読む上で、泰村は和平交渉に望みを託して挙兵は行っていない事が理解できるであろう。

 『吾妻鏡』を読む限り、宝治合戦は、安達氏の挑発と急襲による合戦であり、この合戦で御家人間抗争が終結した。北条時頼は、安達氏の軍勢に与して三浦氏を滅ぼす事で、北条得宗体制が確立したと考える。宝治合戦にて滅亡した三浦氏は、幕府創設以来、幾度となく北条に与して合戦を行ったが、常に一族の分裂の危機を起こしながら有力御家人としての地位を保った。和田合戦、実朝暗殺、承久の乱、伊賀氏事件等により、北条氏を倒す機会は幾度もあっが、逆にこの宝治合戦により、北条氏により、幕府創設以来の最大勢力である三浦氏を廃絶し、他の豪族に対しても優位を確立している。そして、北条時頼の執権としての立場の強化と同時に同盟者としての安達氏の地位も定まり、幕府内では三浦に代わり北条時頼の外戚として、内密の会議であった寄合いにも参加する地位を得た。安達景盛は宝治合戦の翌年(1248)五月十八日に、高野山で死去している。生誕が不詳のため享年は不明である。

 

 宝治合戦の翌日、上総介(千葉)秀胤の追討に動き出している点、北条時頼が最後まで三浦氏との和平交渉を行っていたとする事に疑問を抱く。私見であるが、三浦氏との合戦は、北条氏と安達氏との間で、計画的に行われたとも考えられる。その後も宮騒動で上総に追放となった上総介(千葉)秀胤の追討を命じた事などで理解できよう。

 『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月六日条、「上総介(千葉)秀胤を打ち取るよう、大須賀左衛門尉胤氏(千葉介常胤の四男)・東中務入道素暹(千葉介常胤の孫、東重胤の子息)等に命じられた。秀胤は(三浦)泰村の妹婿であるためである。また武蔵国六浦庄内に(泰村の)味方の者らが群居しているとの風聞があったため、領主である陸奥掃部助(金沢)実時に命じて家人らを遣わされたうえに、薩摩前司(伊東)祐長・小野寺左衛門尉通業も同様に命じられて追補のため向かったが、その事実はなかったため、それぞれ(鎌倉に)帰ったという。

 今日、叛逆に味方したものの首などの実権が行われたという。また(三浦)光村・家村らの首は、たいそう御不審があり、まだ決められていないという。また大倉次郎兵衛が武蔵国に出陣した残党らが隠れている場所を捜索するためである」。

 

 同月七日条、「(大須賀)胤行・(東胤行)素暹らが(千葉)秀胤の上総国一宮大柳の館を襲撃した。この時、上総国の御家人が雲霞のごとく兵を挙げて味方した。秀胤はあらかじめ用意していたため、炭・薪などを館の郭外の四面に置いてすべてに火を放った。その炎はたいそう盛んで、人馬が通ることは出来なかった。そこで軍兵は門外に馬を止め、忠時の声をあげて矢を射かけた。この時、敵群が馬場の辺りに来て、矢を射返してきた。この間に上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男、修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎秀景は心静かに念仏読経などをして、それぞれ自殺した。その後、数十軒の建物が同時に放火され、内外の猛火が混じって空中を飛んだ。胤氏や郎従らは、その炎の勢いに咽び、数十町の外に逃れ、全く秀胤らの首を取ることが出来なかったという。また下総次郎(垣生)時常は、昨日の夕方からこの館に立て籠もり、同じく自殺した。時常は秀胤の弟である。亡父下総前司常秀の遺領である垣生庄を相伝していたところ、秀胤に押領されたため、長年にわたり不満に思っていたが、この時になって共に死ぬ道を選んだのは、勇士の美談とするところである。そもそも(三浦)泰村の誅罰については、五日の午の刻に上総国庁に伝わって来たという」。

   

 千葉県資料研究財団遍「千葉県の歴史 通史編中世」によると、七日、秀胤の本拠である上総国玉崎荘大柳間(現在の千葉県睦沢町)を千葉一族の、大須賀胤行・東胤行(素暹、泰秀の義父)らが攻め、追い詰められた秀胤は屋敷の四方に薪炭を積み上げて火を放ち、四人の子息を始め一族郎党百六十三人と共に自害した。また秀胤一族以外にも討死しており、所領を失った千葉氏一族が多数いたという。また、『吾妻鏡』宝治元年六月十一日、十七日条に、東胤行が戦功と引き換えに自分の外孫(泰秀の子息)の助命を求めたために、その子を含めた秀胤の子孫の幼児は除名されたが、これにより上総千葉氏は滅亡した。

また翌八日の日には、三浦義村の娘婿であった関左衛門尉政泰が、五日に法華堂で三浦泰村らと共に自害したが、常陸国で政泰の郎従らが小栗次郎信繁と合戦し、政泰の郎従らは降伏した。建物にすべて火を放ちその炎は数町に及んだという。総じて村の南北では泣き叫ぶ声がたいそう多かったという。

 

 北条時頼が六日の日に三浦氏を滅ぼすと京の六波羅に御消息二通を送っている。『葉黄記』には、九日に御消息が六波羅に到着し、十四日には千葉秀胤が討たれたことが京都に伝わったと記されている。御消息により、北条重時は京でのその関係者の捜索にあたった。六月十一日、院に仕える「泰村縁者女房」が罷免され、十五日には泰村の弟・山僧良賢律師を六波羅に召し出された。二十二日には重時は幕府の姪を受け河内国守護代あてに謀反に与党の捜索を指令している。佐藤進一氏の『増訂鎌倉幕府の守護制度の研究』によると、当時の河内国は三浦の守護国であったため、守護代もその被官であったと考えられるから、この時には当然三浦の守護代とは別人であったと考えられる。宝治合戦直後の臨時的措置として六波羅探題重時が河内守護、またはその被官が守護代に任命された可能性が考えられる。御消息において、三浦氏の親類・兄弟・縁者などの捜索と捕縛は必要以上に行われたと推測される。  ―続く