鎌倉散策 五代執権北条時頼 三十一、法華堂の承仕法師 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 宝治合戦で追い詰められた三浦氏一族は、法華堂に立て籠もり自害したが、法華堂の内殿の掃除や仏具の管理などの雑用にあたる承仕法師が、三浦泰村等一族が堂内に乱入してきたため、逃げ出す事が出来ず、天井に逃げ隠れた。その承仕法師が、堂内での三浦泰村・光村兄弟の会話と堂内での様子を見聞きしており、その記述が『吾妻鏡』に記されている。その内容は、非常に興味深く、以下の通りである。

『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月八日条、「今日、法華堂の承仕芳志一人が召し出された。これは昨日、香花を供えるために仏前に侍していたところ、(三浦)泰村以下の大軍が急に堂内に乱入したため、逃げ出そうとして逃げ場を失い天井に上がって彼らがそれぞれ語る所を聞いていたと、(将軍頼嗣の)耳に入ったためである。そこで平左衛門尉盛時・万年馬入道らがその事情を尋ね、申詞を記して(頼嗣に)披露したという。その大意は中山城前司(中原)盛時が記した。

 

 『天井の隙間から窺っていたところ、若狭前司(三浦)泰村以下大名は、以前にその顔を見知っていたので間違いありませんが、その他の多くは知らない者達です。次に申した言葉について、人ごとには、堂内が騒然としていた上に、末席の言葉などは聞き取ることが出来ませんでした。そうしたところ主だった者は、もはやこれまでといい、このところの思い出を語りました。大半は、泰村・(三浦)光村らが権力を握れば、一族は官職を極め、諸所を知行したであろうとの事です。特に光村が、たいそう強く主張していたようです。「入道御陵(藤原頼経)の御事、禅定殿下(藤原道家)の内々の命に従ってすぐに計画していれば、武家の権力を握ったのは間違いない。不覚にも若州(泰村)が実行しなかったため、今となっては愛する我が子供と別れる悲しみを味わうだけでなく、ながく当家が滅亡する恨みを残すこととなり、悔やんでもあまりある」。自ら刀を手にして自分の顔を削り、さらに顔が分かるかどうかを人々に訊ねました。「その流血で御影を汚し、その上に寺院を焼き、自殺して穢れた姿を隠そうとする二つの事は、共に不忠の極みである。」と泰村が頻りに止めたため、火を付けることはできませんでした。総じて泰村は、全てに穏便のようで 、以下のように言いました。「数代の功を思えば、たとえ一族の者であっても罪を赦されるべきである。ましてや義明以来の四代の家督として、また北条殿の外戚として、内外の事を補佐してきたところ、一度の讒言により多年の昵近(じつきん:貴人に親しみ近づくこと)を忘れてたちまち誅戮(ちゅうりく:罪のある者を殺す)の恥を与えられた。恨みと悲しみが重なっている。後日になってきっと思い合わされる事もあろう。ただし故駿河前司(三浦義村)は、自問・他門の者に多く死罪を行い、その子や孫を滅ぼした。罪業の因果であろうか。今日はもう冥途に行く身であり、強ちに北条殿を恨んではならない」。涙が漏れてその声は震えており、言葉ははっきりと聞き取れませんでしたが趣旨はおおむねこのようなものでした』。

  

 能登前司光村の首については、顔面を削ったと聞き及ばれ、御不信を説かれた。四郎式部大夫(三浦)家村の首については、今もって所存が分からないという。その承仕法師については、(身柄を)元の所に帰された。この他に承仕一人が去る五日に本堂の内から逃げられず、大床の下に走り込んでいたため、歩兵らによって首を取られたと、七十になる老尼が泣き叫んだ。そうしたところその首は、検分の時に出てきたという。」と、記される。

 この記述に関して、「入道御陵(藤原頼経)の御事、禅定殿下(藤原道家)の内々の命に従ってすぐに計画していれば、武家の権力を握ったのは間違いない」。これが実際に頼経・道家の計画があったか、光村の独断の計画であったかは、定かではない。しかし、三浦泰村の言葉は、大方真実であると考える。何故なら『吾妻鏡』が、北条得宗家による編纂された史記である以上、北条氏にとって忖度や有利な記述になる。誅罰した三浦氏に対しに対して徹底的に罪業を語るはずであるが、世情によると思われる温情的な記述になっている事からも窺い見ることが出来る。『吾妻鏡』が面白い点は、この様に御家人に対しての北条氏の罪業について、曖昧にしながらも虚偽を加えながらも、真実が垣間見ることが出来る点にあるのだろう。

 

 『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月九日条、「武藤左衛門尉影頼が金持次郎左衛門尉を生け捕って参った。これは(三浦)泰村に協力し、さる五日に法花堂に立て籠もって合戦したが、急に約束を反故にして行方をくらましていた。この時、赤縅の鎧を着て鴾毛(つき毛)の馬に乗り(一人は甲冑。郎従一人。両馬)、法花堂の背後の険しい山をよじ登ったという。同六日、武蔵国の河簀垣宿に到着し、ここで景頼郎従らが生け捕ったという」。

宝治元年(1247)六月十日条、「(三浦に与した)春日部甲斐前司実影の子息の幼児が一人、武蔵国から(鎌倉)に到着したという。

 今日戦士らの勲功の恩賞を望む款状を召された。積み重なること数十通にもなった。またこの度、警護のつとめをした武士は、それぞれ着到を期して御覧に入れ、左親衛(北条時頼)が花押を加えて本人に返されたという」。

 十一日条、前刑部少輔(海東)忠成朝臣が評定衆を除かれた。毛利入道西阿(季光)に同意していた罪による。

 今日、東入道(そせん:胤行)が嘆き訴える事があった。これは、「上総五郎左衛門尉(千葉)泰秀は、素暹の息女を妻として男子を産み、(その男子は)今年一歳です。たとえ縁座に処されるべきものとはいえ。現在、産着の中におり、是非を知るはずのないものでしょう。今度の一方の追討使を勤めた恩賞により(身柄を)預かりたいと思います。」という。願いの通りにするよう、命じられたという。また越後入道勝円(北条時盛)が申した。「孫の掃部助太郎信時(十三歳)は、(三浦)泰村の甥です去る五日、事情を知らずに、ただ騒動しているというので(三浦邸に)急行しました。あるいは(信時を)拘留すべきでしょうか」。

 

十二日条、「筑後左衛門二郎(模擬)朝定は、さる五日に筋替橋で若狭前司(三浦)泰村の郎従である岩崎兵衛を打ち取ったため、事情を文書に記してその恩賞を望んだ。そうしたところとも定は、泰村の縁者であり、その当日の朝に至るまで泰村の館に滞在しており、合戦が敗北した今になって自殺した物の首を取り、恩賞を望んできたのは、帰って罪科を行われるべきであろうと意見が出された。今日、平左衛門尉(時盛)を奉行として知定を召して裁定されたところ『大曽禰左衛門尉長泰・武藤左衛門尉影頼らが供に合戦しました。その二人にお尋ねください。言葉を費やすには及びません。』と知定が申した」。茂木知定は八田知家を始祖とする茂木一族の者で、後にこの嫌疑を晴らし恩賞に与っている。茂木氏は、後の鎌倉幕府滅亡後も巧みに世を渡り、室町・戦国期を経て、近世の江戸期には出羽国久保田の大名・佐竹氏の重臣として続いた。  ―続く