鎌倉散策 五代執権北条時頼 三十二、時頼の「和平の書状」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 宝治合戦後、鎌倉では海東(大江)忠成が評定衆を罷免された。兄である毛利季光に同意し、三浦方に付いたためとされる。この度の合戦の首謀者らの妻室や幼子が全て探し出された。三浦泰村の妻室は鶴岡別当法印定規の妹で、二歳の男子がいた。(三浦)光村の後家は、後鳥羽院の北面であった医王左衛門尉(藤原)能茂法師の妹で、現在並びない美人と言われる。光村は特に寵愛し、最期の時に互いに小袖を取り換えて着替えた。妻室が、その小袖に香りが残っていたため、今も悲しみ泣き叫んでいるといわれる。三浦家村の妻室は、島津大隅前司忠時の娘で三人の幼児・赤子がおり、妾の子もいた。彼女たちはいずれも出家している。三浦駿河前司三郎の子息の小童が因人となり、河津伊豆入道(尚景)に身柄を預けられたという。その幼児・赤子たちのその後の消息は知られていない。

 

 『吾妻鏡』十五日条によると、三浦泰村の妻から、開戦直後に時頼が贈った和平の書状が返却されている。泰村から「重要な物なので紛失しないように」と命じられ身につけて館を脱出したという。「時頼がそのありかを尋ねたので返却した」もので、書状が出てきたことを時頼は「とりわけ喜んだ」と記され、北条時頼がこの書状をたいそう気に駆けていた事が分かる。

 『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月十五日条、「去る五日に、平左衛門入道盛阿(盛綱)を使者として若狭前司(三浦)泰村に遣わされた左親衛(北条時頼)の御文書が出てきた。後家(泰村室)が返し進めてきたものである。お尋ねがあったためであろうか。特に重要であると考え、失くしてはならないと泰村が指示されていたので、到来した時から御守りの緒に結び付け、西御門の館に火が放たれたため急いで走りでたが、なお身に着けていたという。(時頼は)特に感心されたという」。

 

 開戦直前に時頼の被官平の守綱を使者として書状を泰村のもとに遣わし、「世間の騒動は天魔のせいであろうか。幕府としては貴殿を討伐するつもりはないので日ごろのように友好関係を保ちたい」と申し入れた。泰村を討伐しないとする誓約書であり、この書状の存在が非常に後の時頼の治政に対し、悪影響を及ぼす事は間違いなかった。高橋慎一朗氏の『北条時頼』によると、時頼自身にとってこの書状の隠滅はさることながら、後に反執権・反得宗派に自信を攻撃する材料に利用される事を恐れたと考えられる。しかし、この和平の書状が広く知られる事になり、『吾妻鏡』において泰村邸から使者が戻る前に独断で合戦を開始した安達氏の勇み足と事細かに記し、時頼の立場を弁護せざるを得なかったのであろう。何れにせよ生真面目な時頼の性格から想像すると、この書状は出来れば忘れてしまいたい物であったに違いない」と評している。

  

 私見であるが、宝治合戦は時頼の和平工作と共に、三浦泰村に武力行使をさせずに、和平の文書を届け安心させた上での安達景盛に急襲させ、一気に三浦邸を襲ったと考えられる。和田義盛の乱の様な、鎌倉に戦火の傷跡を最小限にとどめた事になるが、この、「若狭前司泰村に遣わされた左親衛の御文書が出てきた。後家(泰村室)が返し進めてきたものである。お尋ねがあったためであろうか。」と記されており、主人を打ち取った者に妻が返却に訪れるものであろうか。まじめな性格であるならば、安達の軍勢を押し留めなかったのか、また自らも軍勢を出してはいないと考える。そして、この合戦の責任者として、勇み足であったとされる安達氏に何の罪科も与えておらず、為政者としては失格である。この点から、北条時頼・安達景盛の策略による合戦だと主張されているわけである。そして、北条時頼の小心と、優柔不断な陰湿な性格を垣間見ることもできる。この三浦泰村に和平の使者を派遣し、書状迄提出しながら、その直後に攻撃に転じた時頼の行動は、だまし討ちのようにも見えて、後世の僧侶や国学者から非常に評判が悪い。

 

 江戸時代の日蓮宗の僧侶日通は、『祖書証議論』で、「時頼が和平の制約をしながら急に三浦を討ったのは仏神を恐れぬ無道な事である。誓約をしながら、何故安達の軍勢を押し留めなかったのか自らも軍勢を出すべきではなかった」とし、時頼は私利私欲の人で賢人ではない。批判している。また、江戸期の国学者の本居信長は国学者として忌避し、新井白石も『読史余論』の中で「後世の人々が名君と称賛するのが理解できない」と否定的な評価を下している。しかし、北条時頼の「廻国伝説」が全国各地にあり、謡曲の『鉢木』等が有名である。『増鏡』「最明寺時頼の事」、『太平記』「北野参詣人政道雑談の事」に記された北条時頼は、執権を退き晩年を遊行した「廻国伝説」による善政が記載されている。『吾妻鏡』においては、これらの記載は全くなく、有名な能の謡曲『鉢木』は、これらの「廻国伝説」から派生した。

 『鉢木』は、江戸期初期に人形浄瑠璃や義太夫に翻案され、元禄期に近松門左衛門が『最明寺電百人上﨟』を書き、享保期には『北条時頼記』が大当たりをとった。歌舞伎による「女鉢木三鱗」、「鉢木大鑑」等が演目に上がり人気を呼んだものである。『増鏡』、『太平記』は室町初期・中期に記され、その記載は、武士にとって北条時頼は、北条得勢家を完成させ、為政者として、祖父泰時に引き続く撫民政策をおこない、仏教に熱心で、禅宗の建長寺を建立する等、業績による評価を得たのであろう。また、兼好法師の記した『徒然草』において、北条時頼の文書が鎌倉後期には、まとめられていたとされる。『徒然草』には、「土土器の味噌」や「足利の染物」、「障子の張替え」等で庶民的で質素倹約を基に描かれる時頼の姿は庶民の受け入れが良かったのではないかと思う。江戸期の水戸光圀の「水戸黄門」も北条時頼の「廻国伝説」による善政に影響を受けたものと考えられ、勧善懲悪を意図させる裁定に民衆の心をつかんだのであろう。江戸期の僧侶や国学者の意見とは全く違った人間像が浮かび上がることに興味を抱かせる。 ―続く