鎌倉散策 五代執権北条時頼 三十三、宝治合戦後の京 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 正二位権中納言葉室光親の次男・葉室定嗣の日記、『葉黄記』宝治元年六月六日条には、将軍頼嗣の御台所檜皮姫(時頼妹)弔問のため鎌倉に下向中の嫡男・長時から重時の許に、鎌倉の不穏な知らせを飛脚がもたらした。その三日後に、鎌倉からの早飛脚が到着し、三浦泰村一族の討伐(宝治合戦)を報じている。「去る五日、三浦一族が挙兵したため、執権時頼は将軍の許に参じて討手を遣わし手合戦し、泰村・光村ら三浦一族及び毛利季光ら三百人を頼朝法華堂で自害に追い込んだ」と。六波羅探題北条重時は幕府からの知らせを受け、三浦一族討伐の顛末を以上のように朝廷に伝えた。この内容は『吾妻鏡』に記されるには、北条時頼の和平策の中、安達氏の急襲・奇襲による合戦で、それに伴い時頼が即座に戦線に加わり討滅したものであり、三浦泰村の挙兵による合戦ではなかった。

 『葉黄記』には三浦泰村が宮騒動後に、「昨年以降、泰村いよいよ威勢を繕」と記され、幕府内での発言権を増していき、宝治合戦で重要なを果たした安達氏との間に対立が深まり、結局、北条時頼と安達景盛の術策にはまり滅ぼされたと考えていたのではないだろうか。

 同月十四日には、三浦泰村に縁坐して、千葉秀胤が討たれた事も京に伝えられたことも記されている。

 

(後嵯峨院像)

 『吾妻鏡』によると、宝治元年(1247)六月五日、北条時頼は合戦が終息すると、直ちに御消息二通を六波羅の相州(北条重時)に遣わされた。一通は奏聞し、一通は近国の守護・地頭らに下知させるためである。また事書(箇条書きで書かれた文書)一紙が同じく副えられた。時頼が御所の休幕(休憩の場を取り囲む幕)でこの事を処置された。その文書は以下の通り。若狭前司や寿村・能登前司光村以下、舎弟・一族の者が、今日の巳の刻(午前十時頃)にとうとう矢を放ってきたため合戦となり、ついにその身をはじめ一家の者は誅罰されました。この旨を冷泉太政大臣(藤原実氏)殿に申し入れられますように。慎んで申します。毛利入道西阿(季光)は思いがけず同心したため誅罰されました。

 二通目は、「若狭前司や寿村・光村一家の者・一味の者らは、以前から(合戦の)備えをしているとの風聞があったため、用意されていたところ、今日(五日の巳の刻)に矢を放ってきたため合戦となり、その身をはじめ一家の者・一味の者らは罰されました。それぞれこの旨を承知し、(鎌倉に)急行してはならない。その上に又、近隣に伝えよと、広く西国の地頭・御家人に命じられるよう、仰せによりこの通り伝える。事書は以下の通り。

一、   謀叛の者について

主だった親類・兄弟などは、事情によらず召し捕えられるように。その他、京都の雑掌や国々の代官・所従などについては、御処置には及ばないものの、委しく調査し、注進に従って(鎌倉で)処置する」。鎌倉で三浦泰村一族が討たれたことにより、北条時頼の御消息により、北条重時は京での其の関係者の捜索にあたった。

 

 『吾妻鏡』において記載は無いが、『百錬抄』において、六月二十日に幕府の使者が六波羅探題の北条重時に鎌倉に下向するように伝えている。「(宝治合戦の)勲功賞已位下事、いまだその沙汰に及ばず、示し合わす」ためであったと見える。三浦泰村が滅んだことで、重時の鎌倉下向に反対する勢力は消滅した。執権時頼が未だかつてその指導力が確立していないようにも考えられるが、重時の鎌倉への下向の口実とも、また重時を鎌倉に下向させて、政治補佐を求めて強力な体制の構築を目指したと考えられる。しかし、『吾妻鏡』に記されていない事から、事前に北条重時に内示されていた事なのか、それとも編纂者の記載洩れであったのかは定かではない。

 『黄葉記』六月十七日に、後嵯峨上皇葉室定嗣を重時の許に遣わし、「相州(北条重時)許に向かう、心閑に面謁す」とのみ記されるが、上皇は定嗣を通じて、信頼する重時の鎌倉下向を惜しみ、在京中の功労を色々とねぎらったと考えられる。

 

 『吾妻鏡』では、同月二十六日、左親衛(北条時頼)・前右馬権頭(北条正村)・陸奥掃部助(金沢実時)・秋田城介(安達義景)らが集まり、諏訪兵衛入道(蓮仏・盛時が奉行して審議が行われた。内々に御寄合いが行われ、朝廷の事は、敬われるよう「公家御事、殊家被奉尊敬由」とする合意を行って院政への全面的協力を決定している。この事は、鎌倉幕府が後嵯峨院政を掌握と協調による北条執権体制確立させ、政治的安定を図ろうとした。また、後に九条家を京と鎌倉における政治の排除を目論み、将軍頼嗣の排斥による宮将軍擁立の礎ともなっている。

 

 『黄葉記』七月三日条には、「重時が六波羅探題を辞して鎌倉の途に着いた」とある。同月七日条には、上皇が法勝寺八講の御幸を急遽取りやめたと記されている。後嵯峨上皇の重時への惜しい,その後の不安を物語っているのであろう。

 『吾妻鏡』宝治元年(1247)七月十七日条、「相州(北条重時)が六波羅から(鎌倉に)到着した。故入道武州(北条)小町上の旧宅(御所の北。若宮大路に面していた)居所とした。ここは、前武州禅室(観阿、北条泰時)の旧宅であった。経時が相伝されていたところ、去るン元二年十二月に焼失していた。しかし元のように新造し、(経時が)その邸宅で亡くなられた後、今までその主はいなかったという」。

 同月十八日条、「六波羅の成敗について、相模左近大夫(北条)が時長を任じられた。その邸宅に祇候する人々については、以前に定められていたという」。

 鎌倉に下向した北条重時の与えられた居所は、過大であり、重時の嫡子・長時が後任に就くのは予測されるが、祇候人が既に定められていた事に違和感を覚え、宝治合戦から北条重時の鎌倉

がすでに決められていた事項あったと考えるのは私だけであろうか。  ―続く