宝治合戦後、素早く左親衛(北条時頼)・前右馬権頭(北条正村)・陸奥掃部助(金沢実時)・秋田城介(安達義景)による寄合いが行われ、評定衆として武蔵守(大仏)朝直・甲斐前司(長井泰秀、大江広元の孫)・下野前司(宇都宮泰綱)・信濃民部大夫入道(行然、二階堂行盛)・清左衛門尉(清原満定)・相模三郎入道(真昭、北条資時)・出羽前司(二階堂行義)・大田民部大夫(康宗)。七月には名越時章が加えられた。評議の内容は神社・仏事等の審議が行われている。七月一日には宝治合戦で欠員が生じた御所警護の番衆の再編が行われ、七日には北条時頼による評定衆と事務官僚の奉行人を自邸に招き酒宴を開いた。引出物まで用意され、協力体制を築く饗応であり、時頼の気配りを窺うが、これも体制が確立しながら、警戒する時頼の小心な点も窺い見ることが出来る。
宝治元年(1247)七月十七日に鎌倉に到着した北条重時は将軍家(藤原頼嗣)別当、そして、空席であった連署に就いた。
八月一日には、当時八月一日に贈り物を行う習慣があり八朔贈答(はっさくぞうとう)と言う。将軍への贈り物をするのは執権・連署に限り、執権・連署以外の八朔贈答を禁止している。他の御家人の将軍への接触を避ける為もあった。五日には、京都大判役精勤を命じ、八日には北条時頼が、「天下奉平、息災安穏」のために、走湯山に駿河伊賀留美郷の年貢寄進を行っている。これは宝治合戦の勝利を得た御礼寄進であろう。
『葉黄記』八月十七日条には、大曾根長安と二階堂幸保が五百騎ほどの兵を従えて上洛している。翌十八日に西園寺実氏に連れられ後嵯峨上皇の許を訪れ、「徳政を行われるように」と言う事や、三浦泰村の所領であった、肥前神崎宗也筑前宗社を寄進の申し入れを行っている。「徳政」の内容は不明であるが、「公家御事、殊家被奉尊敬由」によるものや、評定制度の定着と公正な人事などが主な内容であったであろう。
同月二十日には、鎌倉奉行人に浮浪人追放を命じ、宝治合戦後の残党排除と鎌倉の治安安定化である。九月十三日には、北条泰時がこの日を幕府創建者の源頼朝墳墓を参り執権としての自覚を持つために行われた頼朝法華堂仏事を、時頼も倣い参詣している。
十月十四日に幕府(将軍御所)の移転計画が中止された。御所移転は嘉禎二年に決められ、十月十四日に工事を開始するとして、御家人動員の御教書までが出されていた。北条時頼は、刷新して新体制の開始を新たな御所新造で始めようとしたと考えられるが、突然の取りやめとなっている。その要因として、十一月十四日に完成した北条重時邸に幕府最高決議機関の評定所が設けられ、朝廷との協調路線を貫く重時にとって摂関将軍の頼嗣への過大な投資を倹約したのではないだろうか。幕府の体制において北条時頼は二十一歳であり、連署で伯父でもある重時は齢が五十になり、その経験は幕府を主導するものであったと考えられる。後の宮家将軍を擁立する計画は既に始まっていたのかもしれない。
同年十一月には、八田知定に追加で宝治合戦の恩賞を与える。これは宝治合戦において三浦に与していたとの嫌疑で恩賞に漏れていたため何度も訴えを繰り返していた。時頼の意向で再度調査され嫌疑が晴れた為である。『吾妻鏡』では、「今度の勲功の間の珍事はこれであると都鄙(都と田舎)の噂となった」とあり、時頼の強い意向と時頼本人の判断が揺れ動いていることが『珍事』のうわさされる原因となっている。また、地頭支配地における名主・百姓の訴訟を幕府が受理することを決定。開発の所領で過失が無ければ道理に従い処置するという。十二月二十九日に京都大判役の編成替えを定めた。
評定衆に加わっている長井泰秀の孫の長井宗秀が、『吾妻鏡』の編纂者の一人ではないかと推測されている。『吾妻鏡』に於ける大江広元の顕彰記事、そして貞永元年(1232)十二月五日条に、「故入道大膳大夫(大江)広元朝臣はさえ依存中に幕府の大事・障子を執り行っていた。そこで壽永・元暦以来、京都より(鎌倉に)到来する重書並びに聞書、人々の款状、洛中及び南都・北嶺以下、武家より沙汰し来たる事の記録、文治以後の領家・地頭処務についての條々の式目、平氏合戦の時の東士勲功の次第・注文等の覚書については、必要に応じて右筆の者たちに柞原渡してきたため、諸書に散在していた(分散してしまった)。武州(北条泰時)はこの事を聞き、(清原)季氏・浄円(斎藤長定)・円全らに命じられてこれらを探し集め、目録を整え左衛門大夫(長井泰秀)におくられたという」。『吾妻鏡』がこれら目録の文書等により編纂されている事等、また、編纂年代から推定すると長井宗秀が文書等を保管していたのではないかと考えられ、『吾妻鏡』の編纂者の一人ではないかと考えられている。
(鎌倉 法華堂跡碑 源頼朝墓)
宝治合戦が宝治元年六月五日に鎌倉で起こり、鎌倉での戦闘はその日で終息した。そして、伯父である六波羅探題の北条重時を連勝に任じ、外戚の安達氏や長井氏を束ね北条得宗体制を確立させた。しかしその中に見えるものは、評定衆も十三人中、北条資時・朝直・正村・時章と四人と外戚の安達氏や時頼擁護派の長井氏。文政を預かる三善氏や清原氏等ほとんどが時頼派の御家人であり、必要以上に保身を配慮していたと思われるが、逆に武士政権の強化と安定を目指したと考える。宝治元年は終わるが、後に北条時頼が、従来の執権以上に仏教に傾倒する。宝治合戦で三浦泰村を源頼朝墳墓の法華堂に追い詰め、三浦一族総勢五百余人を自害に追いやった事が大きな要因ではないだろうか。時頼は、自念の責に堪えかねない物であったかもしれない。後の建長五年(1253)に建長寺創建という大事業を行い、開基として宋の禅僧蘭渓道隆を迎えて建長寺開山を行っている。しかし、禅宗に巡り合ったのは、宝治合戦が終息したこの年の八月の、曹洞宗の開祖・道元との出会いであった。 ―続く
(鎌倉 法華堂跡 三浦泰村墓)