鎌倉散策 五代執権北条時頼 三十五、宝治合戦後の北条時頼の宗教思想 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 宝治合戦後のその年、宝治元年(1247)八月に曹洞禅の道元が、鎌倉を訪れ、北条時頼に合ったとされる。『吾妻鏡』には、この記載がない。道元禅師の法語を弟子が編纂した『永平道元和尚広録』、永平寺末寺の越前宝慶寺『宝慶寺文書』、『鎌倉遺文』二〇二六六号で知ることが出来る。しかし、道元の鎌倉行化について慶安三年(1650)に記された『永平寺三祖業行記』、江戸中期の曹洞宗の僧・面山瑞宝による訂補本『建撕記(けんぜいき)』は、かなり後世の著文で信用性に若干欠ける面がある。

 

(ウィキペディアより引用 建長寺所蔵 北条時頼像、 永平寺所蔵 道元禅師蔵)

 道元の鎌倉下向は、北条重時の娘婿で家人の波多野義重の依頼に応えたものと見られ、波多野義重は、自邸が京都の建仁時に近く、道元が宋から帰国したしばらくの間、建仁時に滞在していた。その時から付き合いがあったと見られる。その後に道元が京都市伏見区深草に興聖寺を開創するが、比叡山延暦寺の僧徒から弾圧を受け、焼き討ちに合った。波多野義重が地頭として自身の所領がある越前志比荘に招聘し土地を寄進して大佛寺(後に永平寺)の建立に貢献している。その大旦那である波多野義重の依頼である以上断わるわけにいかなかったのであろう。『永平道元和尚広録 三』によると、八月三日に道元は越前永平寺を立ち、鎌倉に行き、「檀那・俗弟子のための説法」とある。『正法眼蔵随聞記 巻二』、「仏法興隆のために関東へ下向すべき」と勧められた時には、「もし仏法を学ぶ意思があれば、山河を超えて自ら来るべきで、意志の無い者にこちらから出向いて説いても無駄である」として断っている。波多野義重は幕府の御家人でもあり、北条重時の家人であるため、北条時頼の依頼で連署として重時が鎌倉に戻った際に、義重も鎌倉下向し居住していた。道元の鎌倉行化について記された『永平寺三祖業行記』、『建撕記(けんぜいき)』等の伝記では、時頼の招きにより鎌倉に赴いたとあるが、道元自身の記録・法語録等では、北条時頼からの招聘の事実は全く見られない。辻善之助氏の『日本仏教史 中世篇之二』において、権勢を嫌う道元の立場からも、時頼の招きによる鎌倉行きは考えにくいと示している。

 

 『宝慶寺文書』宝治元年二月十四日によると、鎌倉在住の道元は、道元法語に名越の「白衣舎」(びゃくえしゃ:俗人の家)に寄宿しており、竹内道雄氏の『道元』によると、この俗人の家が波多野義重の邸宅であったのではないかと考えられている。北条時頼は名高い禅僧が鎌倉に滞在していることを知り、道元から教えを受けたとされる。

 『建撕記』によると、道元は時頼に菩薩会を授けたという。時頼の外にも、多くの僧侶・俗人我道元から戒を受けた。時頼は、道元に対し寺院を創建するので鎌倉に留まるように要請するが、道元は「越前の小寺院(永平寺)にも檀那があり、大事にしなければならないので」と固く辞退したという。また宝治元年に鎌倉で時頼の頼みで作ったとされる禅の教えを表現した『傘松道詠』ニ十首の和歌が伝わっている。『永平道元和尚広録 三』によく報じ二年三月十三日に永平寺に戻っている。道元四十八歳で、六か月ほどの滞在であった。

 

 後の南北朝時代に作られた著書の『空華日用工夫略集』永徳二年九月二十五日条には、時頼と道元の面談において「道元が時頼に、『世に異変があれば、天下を捨てよ』と勧めた」という話が記されている。高橋慎一朗氏の『北条時頼』では、この道元の答えについて「幕府の主導権を巡って起こる政争を鎮めるためにはどのような心掛けが必要かを道元に尋ねたのであろう。それに対する道元の答えは、『権力者に執着するな』というものであった」と自説を記している。後年の編纂物によるもので真実であるかは定かではないが、時頼が道元から禅の教えをこのように学んだのではないかと推測される。そして時頼が、禅の教えに関心を持つきっかけになった事が推測されるであろう。  

 兄の四代執権北条経時からの執権職の継承と、その遺児に対しての対応。三浦氏滅亡に導いた自身の憎悪と嫌悪は、従来の国家鎮護を目的とした仏教では解消できなかったのかもしれない。ただひたすら坐禅の修行を行う事の「只管打坐」で、悟りを開く禅宗に魅かれたのかもしれない。鎌倉新仏教の発生で浄土信仰による専修念仏を教義とする浄土宗・浄土真宗では、ただ念仏を行う事で極楽往生の救済を信じ切れなかったのかもしれない。武士が犯した罪行は、多くの人の命を奪うなど、一般の庶民に及ぶものではなかった。念仏宗にその救いを求めることは、それら罪状に叶わないとして、北条時頼は、禅に求める坐禅の修行により自身の救済を禅宗に求めたのかもしれない。禅宗が武士にとって救済を信じられるものであったのかもしれない。後に時頼の嫡子・時宗や極楽寺流北条氏等が自信を律し、戒める戒律を教義とする真言律宗に身を委ねているのはその事を物語っているのかもしれない。

 

 後に時頼が北鎌倉に建長寺を建立している。時頼没後に、『宝慶寺文書』承安元年十月十八日智円寄進状、『鎌倉遺文』二〇二六六号には、永平寺末寺の越前宝慶寺に、伊志良知成(沙弥智円)が時頼の菩提のために土地を寄進している事も道元の鎌倉での布教活動に遠因があると大久保保道氏「鎌倉行化に関するニ三の考察」において推測されている。もしも道元が鎌倉に留まり、大寺院を改ざんしていたならば、現在の鎌倉の風景は,変わっていただろう。鎌倉の切通内では、過去も現在も曹洞宗寺院の痕跡はないが、雪の下二丁目の近代美術館南に道元禅師顕彰碑「只管打座」の碑がおられている。 

「春は花 夏ほとぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりける」 ―続く