鎌倉散策 五代執権北条時頼 三十六、宝治二年の始まり | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 年が明け、宝治二年(1248)正月。埦飯の差配は北条時頼が行い、御剣役前馬権頭(北条正村)、御調度が尾張前司(名越時章)、御行縢は秋田城介(安達義景)が行っている。三日目の埦飯は北条重時が差配し、後に将軍家(藤原頼嗣)の御行初めの儀が行われていた。この埦飯の差配により幕府内での主導的位置づけが窺える。

正月七日の日には、御所の広御出居でこの年はじめての評定衆の老若の着座の序列が定められた。

老座 相州(北条重時)相模三郎入道(真昭、北条資時)、摂津前司(中原師員)、伊賀式部入道(光西、藤原光宗)、信濃民部大夫入道(行然、二階堂行盛)、大田民部大夫(康連)の七名。

若座 左親衛(北条時頼)、前馬権頭(北条正村)、武蔵守(大仏朝直)、尾張前司(名越時章)、出羽前司(二階堂行義)、秋田城介(安達義景)、下野前司(宇都宮泰綱)、矢野外記大夫(倫長)の九名で合わせて十六名となった。北条氏はそのうち五名を有している。義景と行重は交互に上座、下座を着座した。

 

(鎌倉 永福寺想像図)

 二月に入り早速、鎌倉の二階堂の永福寺の修理が行われている。

 『吾妻鏡』宝治二年月五日条、「永福寺の堂の修理について、去る寛元二年四月にその決定がなされていたが、このところ大そう滞っている。そうしたところ左親衛(北条時頼)は、来年二十二歳の御慎みの年であり、永福寺を興隆されるよう夢のお告げがあったため、特に思い立たれたという。永福寺は、右大将(源頼朝)が、文治五年に伊予守義顕(源義経)を打ち取り、また奥州に入って藤原泰衡を征伐して鎌倉に帰られた後、陸奥・出羽両国を知行するよう(後白河院の)勅裁を受けた。これは泰衡が管理していた跡であったためである。そうしたところ関東の末永い繁栄を思われるあまり、怨霊を宥めようとした。義顕も泰衡もさほどの朝敵ではなく、ただ私的な遺恨から攻め滅ぼしたためである。そこでその年の中に造営が始められ、そのため壇場の装飾は、全く(藤原)清衡・基衡・秀衡らが建立した平泉の寺院を模された。その後、六十年にわたる雨露で殿舎が損傷したという。来年は義顕と泰衡一族が滅亡した年の干支にあたる」。

宝治合戦で、三浦光村が永福寺を占拠していたため合戦による損傷も大きかったと考えられる。秋山哲夫氏の『都市鎌倉における永福寺の歴史的性格』において、この時の時頼による修理も、宝治合戦の犠牲者を供養すると同時に、三浦氏に勝利したことを内外に宣言する意味を持っていたとしている。

 

(京都 宇治平等院)

『吾妻鏡』宝治二年十月に十一日には、永福寺の審議が行われ、清原満定の奉行となった。『鎌倉年代記 裏書』、『武家年代記 裏書』に、同年十一月二十三日に修理が完了し、時頼の持僧・鶴岡八幡宮別当の抗弁を導師として供養の法会が行われている。『二階堂文書』関東御教書、『鎌倉遺文』七一〇五号に翌年の建長元年八月九日に薩摩群北方の地頭である二階堂行久に対し、修理費用が課されており、御家人を広く動員した事業であったと考えられる。

同年三月八日、時頼は信濃諏訪社に願文を納め、四月八日にはこの願文のために高弁を諏訪社に派遣している事を『吾妻鏡』五月二日条に記載がある。この願文の内容については不明であるが合戦の犠牲者の鎮魂と東国の平穏を祈願するものであったと考える。またその後、長子・時輔が誕生しており、安産祈願であったとも考えられる。

 同年三月に十九日に笹目の墳墓堂において、兄・経時の三回忌が仏事を行っている 。五月十八日には宝治合戦を主導した安達景盛が高野山で亡くなった事を伝えている。『諸寺過去帳 中』によると享年五十九歳であった。同年四月に十九日に、鎌倉の商人等の定数を定める審議が行われている。

この時期、鎌倉での武士や僧侶と共に商人や庶民の人口が増加の一途をたどり、寛元三年(1245)に家の軒を道路も上に際しださない事。道路に迄町家をつくって道を狭くしない事。溝の上に小屋をつくりかけない事と禁令を出している。しかしますます増加が進み鎌倉中の商人の数が定められた。三年後の建長三年(1251)には、小町屋や売買の施設を「大町・小町・米町・亀ヶ谷辻・和賀江・大倉辻・気和飛坂山上」の七か所に限定し、それ以外の場所での商業活動の禁止を通達している。

 

 当時の鎌倉の人口を推察して見ると、発掘調査により、約六万四千人から十万一千人という試算がなされている。また、建長四年の酒販売の禁止の通達が出され、幕府の調査によると鎌倉中の民家にある酒壺が三万七千二百七十四個の数にのぼった。幕府は一軒につき一坪を赦し、残りはすべて破棄させ、以後造酒も禁止している。この処置は、同年の米の不作による対策であったとみられる。鎌倉の民家から摘発された酒壺の個数は、しばしば当時の鎌倉の人口を算定する上で出の参考に用いられており、一軒の置かれている酒壺を三から四個とすれば、調査された三万七千二百七十四個によって導かれる民家の軒数は、約一万個になる。かりに一戸の世帯人数を平均五人とすると、それだけで五万人の庶民の数にあたり、武士や僧侶の数をふまえると発掘調査により、約六万四千人から十万一千人の数に合致する。しかし酒壺の数において割り出す数値が、どこまで信頼できるかは疑問と言わざるを得ない。

  

 宝治二年五月二十八日には、北条時頼の長子が生まれた。母は、将軍家に仕えた女房・讃岐局とされ、宝寿と懐けられた。後の時利(ときとし)と名乗り、さらに時輔と改名した時頼の嫡子となる時宗の兄であり、六波羅探題に就き二月騒動で誅殺されている。北条時頼の正室は毛利季光(西阿)の娘であったが、宝治合戦で三浦義村に与したため離別したとされる。建長元年の末に時頼は継室として北条重時の娘(葛西殿)を迎えたと推測され、建長元年五月に嫡子・時宗を産んでいる。時輔の母「讃岐局」は、今野慶信氏の「北条時輔の母」において、出雲国横田惣地頭の三処氏の出身で、時頼没後には出家をし、「妙音」と名乗りっている。時輔が二月騒動で追討されると横田惣岩谷寺で余生を過ごしたという。時輔は側室の子であったため、正室に嫡子が出来れば嫡子からの序列は下がる事になる。『吾妻鏡』において嫡子・時宗の時と比べると記述は少ないが、時頼の初めての子であったため、『吾妻鏡』六月一日条では、安産の神である訶利帝母(かりていも:鬼子母神)の十五童子像を讃岐局の産所に安置し、同月十日条には、乳母に有力な得宗被官諏訪入道蓮仏(盛重)を乳母に任命する等、後の烏帽子親や婚姻相手の先例・官位の授与などを見ると得宗家庶子としては、相応な扱いを受けている。  ―続く