『将軍執権次第』、『鎌倉年代記』において、宝治二年(1248)八月二十五日将軍家(頼嗣)は従四位上の位を叙任される。頼嗣は十歳になり、鎌倉に安定がもたらされていた。この年に『吾妻鏡』によると蹴鞠が流行している様が記されている。二代将軍源頼家が蹴鞠に没頭し、北条時頼の大々叔父・北条時房も蹴鞠の名手であった事が知られている。
『吾妻鏡』宝治二年九月ニ十六日条に、「鶴岡別当法印(隆弁)の雪の下の本坊で蹴鞠会が行われた。上鞠(あげまり:最初に鞠を蹴る物で名誉な役とされた)は熊王(山柄の子)であった。(鞠が)蹴鞠上手の中に落ちたという」。また十月六日条において将軍家(頼嗣)も蹴鞠会が行われており、十一月十三日条に、「左親衛(北条時頼)が難波少将羽林(宗教)を招いて対面された。蹴鞠について、門弟となる約束をされたという」。同月十六日には、「難波少将(宗教)が一巻の書物(蹴鞠の秘伝書)を左親衛御方に持参した。御所望があったためである。時頼は対面され、その書を御覧になった。羽林(宗教)が詠み申し、まだ間の半ばに及ばない内に、時頼は座を立つと自ら小金作りの剣を取って宗教に授けられた。宗教は跪(ひざまずい)いてこれを賜り、一拝して退室し、廊に出て供の青侍に渡したという」。
北条時頼における幕府執政は、北条重時の連署就任において大きく進行していく。十一月十三日には山城国の悪党退治に付き朝廷に奏聞するよう六波羅に命じ、諸国の狼藉については、それを鎮める計略を廻らすべく評議が尽くされた。二十三日には門注所の奉行人が訴訟事務の修練を疎かにして酒宴や遊興にふけり、訴人に面会もせず、証文の理非も検討しないため、評定の場に出席した際に御下門にあずかる事があっても答申がたいそう停滞しており、この様な者たちは召し使わないと広く伝えるように、大田民部大夫(康連)信濃民部大夫入道行然(二階堂行盛)に命じている。また二十九日には、昨年の勲功の恩賞として拝領した諸所について、新地頭に命じて本所・国司・領家への年貢を速やかに徴収し納めるべきこと、並びに臨時の課役を民に課してはならないこと。何事も前任者の先例を守り、新規の不法行為は停止するようにと命じている。十二月に入ると、幕府は神社・仏事領については、地頭による新儀を止め、厳密に処置するように、また伊勢大神宮以下の主な神領などの雑掌の訴状は、到来ししだいに速やかに取り次ぐよう、このところの評定が行われ、差配する者に命じている。
同年閏十二月十六日には、諸人の訴論について、処理した条数の多い奉行人に恩賞を行うと伝えられ、二十三日には雑人の訴訟についてその法を定められた。その事書きは、
一、雑人訴訟の事について
百姓らとの地頭が相論している場合、百姓に道理があれば、(百姓の)妻子・従者以下の死罪や収穫物などについては、糾明する。田地とその身柄の安堵については、地頭の裁量とすると命じている。
宝治二年において朝廷との協調関係は、近衛兼経の日記、『岡谷関白記』に見ることが出来る。
『岡谷関白記』十二月二日条では、摂政の近衛兼経が「摂政の職を弟の兼平に譲りたいがどうか」と言う事を内々に幕府に問い合わせるため、将軍家(頼嗣)あての手紙と使者を派遣している。これに対し閏十二月七日条で、十二月二十日付で「摂政の事は幕府の関与は難しいです。なお、度々申し上げている事ですが徳政を実施されるよう重ねて申し上げます」と言う返事が届いたとある。将軍家(頼嗣)は、十歳になり、その意向は幕府・北条執権体制の意思であった。この内容は幕府の関与は難しいと言う事で遠慮しているように思えるが、遠回しに積極的な賛成はせず、反対の意見を示唆している。実際に近衛兼経が辞任するのは、四年後の建長四年(1252)である。また徳政の件は、先述した『葉黄記』の宝治元年八月十七日条の、大曾根長安と二階堂幸保が五百騎ほどの兵を従えて上洛している。翌十八日に西園寺実氏に連れられ後嵯峨上皇の許を訪れ、「徳政を行われるように」と言う事や、三浦泰村の所領であった、肥前神崎宗也筑前宗社を寄進の申し入れを行っている。「徳政」の内容は不明であるが、「公家御事、殊家被奉尊敬由」によるものや、評定制度の定着と迅速な訴訟評議の実施、質素倹約の励行、公正な人事、神社・寺院の所領保護等が主な内容であったと考えられる。神社・寺院の所領保護等は、『吾妻鏡』同年十二月二十日条からも幕府の評定において、神社・寺院の所領における地頭の違法行為を厳禁し、伊勢大神宮などの訴訟を迅速に手続きするように定めた事からも窺える。そしてこの十二月に、『大覚禅師語録 巻上』、『元享釈書』によると蘭渓道隆が鎌倉に来て、寿福寺滞在を聞いた北条時頼は、蘭渓を粟船(大船)の常楽寺の住持に迎えている。
閏十二月十三日には、祖父の北条泰時に倣って頼朝の月迷日には法華堂参詣を行っていたが、北条時頼は叔父であり連署の北条重時と共に、源頼朝の法華堂と北条義時の法華堂に参詣し、歳末の仏事を執り行った。頼朝も義時も同じ十三日が命日であり偶然にも重なっており、『吾妻鏡』に時頼の祖祖父・義時の法華堂参詣の事が見出されるのは、この時が初めてである。宝治合戦が行われた翌年の宝治二年は、幕政と朝廷において平穏無事に終えることが出来た。 ―続く