北条時頼が執権に就いた年である寛元四年(1246)には、蘭渓道隆は中国南宋から来日する。蘭渓は、『建長寺興国禅師碑文』、『建長寺和漢年代記』、『武家年代記 裏書』によると、寛元四年(1246)に中国南宋から日本へやって来た。蘭渓は、嘉禎六年(1213)に南宋の西蜀(四川省)の培江(ふこう)で生まれている。十三歳の時に成都の大慈悲で出家し、無準師範(むしゅんしはん)・癡絶道冲(ちぜつどうちゅう)・北礀居簡(ほっかんきょかん)の下で、それぞれ禅を学んでおり、その後に臨済宗松源派の無明慧性(無明依正)から禅の奥義を授けられた。中国五山の一つ、天王山に寄寓(きぐう:一事世話になる。仮住い)しており、天王三は日本臨済宗の開祖栄西や曹洞宗の開祖・道元が修行した所とされている。
(蘭渓道隆像、北条時頼像)
『元享釈書』、『蘭渓和尚行実』によると、蘭渓はかねてより日本では禅がまだ普及していない事を聞いて布教の意思・志を持っていた。そして、蘭渓が三十四歳の時に商船に乗り、弟子とともに来日したという。来日した蘭渓は、博多の円覚寺にしばらく滞在する。博多円覚寺には開山を蘭渓道隆、開基北条時頼とする伝承があるが、川添正二氏によると、『聖一国師年譜』に天福元年(1233)に円爾弁円(えんにべんねん)が入宋に備えて博多円覚寺に逗留した記事があり、「博多円覚寺の開創・展開」において、蘭渓来日以前に博多円覚寺は存在し、禅寺であったとも考えられる。蘭渓の滞在中に本格的禅寺になった事で開山と称した可能性はあると考えられる。北条時頼の開基を裏付ける資料は無く、この時には、北条時頼と蘭渓の面識がない点と、後に両者の密接な関係により、後に時頼開基の伝承が加わり、伝わったものと考える。
『元享釈書』、『蘭渓和尚行実』によると、その後に蘭渓は博多から京都の泉涌寺来迎院に移った。『本朝高僧殿』によると、来迎院主の月翁智鏡(げっとうちきょう:明観智行)が、宋に渡っている時に蘭渓と旧知となった縁によるとされる。『元享釈書』、『建長寺和漢年代記』に、蘭渓は月翁の勧めで鎌倉に行き、寿福寺に入つたと記される。
(鎌倉 常楽寺)
宝治二年十二月に、『大覚禅師語録 巻上』、『元享釈書』によると蘭渓道隆が鎌倉に来て、寿福寺滞在を聞いた北条時頼は、蘭渓道隆を粟船の常楽寺の住持に迎えたと記される。常楽寺は『吾妻鏡』嘉禎三年十二月十三日条で、北条泰時が妻の母の菩提を弔うために退耕行勇を開山に建てられ立てられた。『鎌倉市史 社寺編』では密教と浄土宗を兼ねた寺院であったと見られる。『大日本史料 第五編』によれば、宝治二年三月二十一日付の常楽寺鐘名に、この寺に北条泰時の墳墓のある寺であり、「坐禅の空間を催すに足るとあって、蘭渓か住持する時には、すでに禅院としての性格を備えていた事が分かる。北条時頼は前年に道元と面会しており、禅の教えを受けたとされ、禅に興味を持った時頼が禅の本場南宋から渡ってきた蘭渓に本格的な禅の教えを学ぼうとして、暑く保護したようである。建長元年四月八日のものと推定される法語『大覚禅師語録』に「大旦那(時頼)は自己のすべてを傾けて道徳を実行し、忠心から国政を行っている。本来菩薩の身でありながら人間界に現れ、身分の高い者として大権を掌握している。世を救おうとする思いは海のように深く、民を養おうとする心は山のように固い。仏教を厚く敬い、皇室を長く保とうとする」と述べている。建長元年に北条時頼は、鎌倉に禅秀専門寺院の建立に着手している。
(鎌倉建長寺 三解脱門)
川添昭二氏の「鎌倉仏教と中国仏教」において、蘭渓の時頼に対する教えの基本は、「仏法は、実生活を離れたところにあるのではない」というものであり、政務に多忙な者にも受け入れやすく、また右に見たように蘭渓には、「褒め上手」なところもあった。時頼は蘭渓との出会いによって、より禅に積極的に取り組もうとする気持ちを書きたてられたと考えられる。しか、蘭渓は、建長寺に中国宋の禅院の方式をそのまま導入し、法語や規則を与えて厳格な禅封を起こした。『沙石集』の著者無住の『雑談集』巻第八にも『蘭渓は中国の僧で、建長寺での僧の作法を行ったため、天下に全員の作法が広まった。』と記しており、監査には「時頼が建長寺を建立した事で、中国の僧も多数やって来て寺院はまるで中国のようになった。前週が盛んとなったのは、全て時頼のおかげである。だから時頼は、栄西の生まれ変わりだとも言われている」と記している。『沙石集』巻第十末には、「栄西が『興禅五国論」という書に『自分の没後五十年に禅宗を興す』と予言し、その後蘭渓が時頼を大旦那として建長寺は建立されて、初めて宋の禅宗寺院の規則を導入したのが、ちょうど栄西没後五十年にあたる。よって、時頼を栄西の生まれ変わりのように言うのである」と記している。実際bには、建長寺官制の建長五年(1252)は、栄西の没した建保三年(1215)であるため三十九年であるが二人の出会いにより建長寺の創建と禅修の興起の決起となった事を強調した。
建長寺に所蔵される大覚禅師墨蹟『法語規則』や『大覚拾遺録』に納められている「法語」は衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したもので、「規則」は行規の厳格を要求した。蘭渓は、寺内の禅僧たちに厳しい規則を用いて臨み、沐浴・坐禅・洗面の時間なども厳しく定め、許可のない私語は罰する等、生活の隅々まで及ぶ規則を定めて違反者には罰を科す物であった。卵形来日から没するまでの三十二年間において日本語を学ぶ事無く、始終中国語を話したという。大旦那に対しては「褒め上手」であったかもしれないが、自身の教義において衆僧に対しの厳しい修行を科していた。
(鎌倉 建長寺三解脱門内部)
平安末期から鎌倉中期にかけて中国は、北宋と南宋に分かれていた。1127年に北宋は金に敗れ、1233年には金が首都開封をモンゴル帝国に陥落され、南に逃げた金の最期の皇帝哀宗をモンゴル帝国は南宋軍と協力して追い詰めて1234年に金が滅亡した。1235年に、宋軍は北上して洛陽・開封を回復したが、モンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍との戦闘状態に入る。これをモンゴル・南宋戦争である。しばらくは長江流域を挟み一進一退を繰り返すが、1260に即位したクビライが中国風元号を立てた。クビライが襄陽を陥落させるころには、南宋は内部崩壊により抵抗力を失う。1276年にバヤンに臨安を占領されて実上総は滅亡した。南走して徹底抗戦を続けた一部の皇族・官僚・軍人が1279年に広州湾の崖山で元軍に撃滅され、これを崖山の戦いと言い、宋は完全に宋は滅びた。元寇による襲撃・侵略は、文永の役と弘安の役である。元は、高麗の趙開の日本との通商し、南宋を牽制するように顕現した事で、日本への外交交渉として通商交渉と南宋への通商・武器輸出等の禁止を目論み、南宋への包囲網を敷くことが一つの目的でもあった。ただし、クビライが日本への使節を派遣すると同時期に、「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲すのみ」と明言し、高麗の造船による軍船が整え次第「あるいは南宋、あるいは日本、命に逆らえば征討す」と述べるなど南宋制服と同様に日本制服の意思を表明していた。
蘭渓道隆が日本に来た寛元四年(1246)は、南宋軍とモンゴル軍が激戦を繰り返していた時期で、中国の戦火の状況も伝わっていたと考えられ、その情報収集もあったのではないかとも考えられるが、元寇の際には、元の密偵の嫌疑をかけられて甲州や奥州松島、伊豆国に移されている。後に嫌疑は晴れ、諸寺の侍従を経て再度鎌倉の建長寺に戻り弘安元年七月二十四日(1278)に同寺で没した。 ―続く