鎌倉散策 五代執権北条時頼 二十四、安達氏と宝治合戦 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 安達氏は、藤原北家魚名流を称し、武蔵を本拠地として鎌倉幕府の有力御家人を輩出した種族であり、安達氏の祖を安達盛長とする。平治元年(1160)平治の乱に敗れ伊豆国に配流となった源頼朝の従者として、頼朝の挙兵に伴い各地の武坂東士を招集し、頼朝に最も近い近習の臣下として幕府樹立に貢献した。『尊卑分脈』によると、盛長の父・小野田三郎兼広は、三河国宝飯郡小野田(現愛知県豊橋市)の出で陸奥の安達郡にも住んでおり、その子・盛長が安達氏を称したという。系図により異なるため定かではない。また、国史大系の底本では、父が小野田三郎兼盛とある。盛長は足立六郎、小野田藤九郎と称し、兄は藤原遠兼で、その子が足立遠元であり、盛長にとっては年長の甥である事が知られている。『吉見系図』によると、安達氏は比企氏所縁の武蔵国足立郡に由来するとされるが、幕府内での安達盛長と足立遠元の姻戚関係を示すものは見当たらない。盛長が頼朝率いる奥州討伐で現福島県の安達郡を領した事により安達を称したとみられる。

 

(鎌倉 安達盛長邸跡 甘縄神社)

 安達盛長が京に精通しながらも京で職につけず、藤原邦光を頼朝に推挙するなど京に知人が多いとされている。安達盛長と源頼朝との関係は、頼朝の乳母である比企尼の長女であり、二条院の女房として仕えた丹後内侍を妻とした事から、比企尼に頼朝の近習として仕えたとされる。藤原邦光を頼朝に推挙するなどの件は、丹後内侍の助力であったともされる。また、『曽我物語』では、頼朝と北条政子の間を取り持ったのが盛長とされているのも興味を得る。公に家臣を持つことが出来なかった頼朝に配流当初から頼朝に近習・従者として仕え、乳母の比企尼の娘婿と言う事から、頼朝にとっては、最も信頼が厚かったと考えられる。当時、盛長が所領を有していたかは定かではないが、頼朝との関係と比企氏の後ろ盾があった。元暦元年(1184)頃に上野国の奉行人となり、文治五年の奥州合戦の物見岡合戦で、筑前房良心(平家一族)が戦功を建て陸奥足立郡と出羽国大曾根荘を給わったと考えられ、子息弥九朗景盛が安達姓を称し、二郎時長が大曾根氏を称した。

 

(鎌倉 甘縄神社)

 正治元年(1199)一月に頼朝の死後、出家をして蓮西と号する。同年四月には二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になった。十三人の合議制の構成者は、北条氏の時政・義時。文官の大江広元、中原親能、二階堂行政、三善康信。御家人は七人で、坂東平氏三名の三浦義澄、和田義盛、梶原景時で、藤原北家魚名流等の四名、比企能員、足立遠元、安達盛長、八田知家であり、頼家の乳母夫とする頼家派の梶原景時を除くと、御家人による北条氏・坂東平氏と比企氏・藤原北家魚名流は、四人ずつの同数となる事に興味深い。安達盛長は、幕政にも参画し、この年秋に起こった梶原の景時の断行に対して強硬論者の一人となっている。盛長は、この年に三河国守護であったことが『吾妻鏡』により確、認されるが、生涯無位無官のまま翌正治二年四月二十六日に死去した。享年六十六歳であった。墓所は愛知県蒲郡市の長泉寺に残されている。安達は、長子・景盛が継承した。この景盛は自身の妾を、将軍を継承した頼家により略幕され、恨みを持っていると、配下の者から頼家に讒言される。それを聞いた頼家が景盛の誅殺に動いた。頼家の母・北条政子は、その事を知り、頼家に諫言して誅殺を止めている。

 

 『吾妻鏡』正治元年(1199)八月十九日条、「讒言する者がいて、妾女のことについて(安達)景盛が(頼家を)恨んでいると訴えた。そこで(頼家は)小笠原弥太郎(長経)・和田三郎(朝盛)・比企三郎・中野五郎(能成)細野四郎以下の軍兵を石御壺に召し、(安達)景盛を誅殺せよと命じた。晩になって、長経が旗を掲げて藤九郎入道蓮西(安達盛長)の甘縄の宅に向かった。この時になって、鎌倉中の武士らがわれ先にと争って集まってきた。このため尼御台所(政子)は、急いで盛長の宅に現れ、(二階堂)行光を死者として羽林(源頼家)が申された。『幕下(源頼朝)が薧じられた後、どれほどの時も立たずに姫君(三幡)が早世し、悲観に暮れていたところ、今度は合戦を好まれようとは。これは乱世の源です。とりわけ景盛は信頼が厚く、先人(頼朝)が特に情けをかけておられたました。(景盛)の罪状をお聞かせくだされば、私が速やかに尋ねて処置します。事情を問わずに誅殺されれば、必ず後悔を招くでしょう。もしそれでも追討されると言うならば。私が先ずその矢にあたりましょう』そこで(頼家は)渋々軍兵の出陣を取り止められた。鎌倉中が騒然となり、万人が恐怖しない事はなかった。(中原)広元朝臣が申した。『このような事は前例が無いわけではありません。鳥羽院が寵愛されていた祇園女御は、源仲宗の妻でした。しかし(妻が)仙洞御所に召された後、中務は隠岐国に流罪となりました』」。

 

 

 同月二十日条、「尼御台所(政子)は、(安達)盛長入道の宅に逗留され、(安達)景盛を召して仰った。「昨日は計らいによって、一旦は羽林(源頼家)の行き過ぎを止める事が出来たが、私すでに老齢に達しており、後々の遺恨は抑えることが出来ないでしょう。汝は野心が無いと起請文を頼家に献じなさい」。そこで(景盛は)すぐに(政子の)仰る旨の起請文を書いた。政子は(御所に)戻られ、その起請文を頼家に献じられ、その機会に申された。「昨日、景盛を誅殺しようとされたのは、あまりにも軽はずみで人の道に反しています。総じて今の形勢を見ると全く天下を守護するには用いがたいものです。政治に飽きて民の愁いを知らず、妓楼で楽しんで人々の非難を顧みないからです。また召し使うものと言えば、全く賢人ではなく多くは佞臣(ねいしん)の類です。まして源氏は幕下(源頼朝)の一族であり、北条は私の親族です。そのため先陣(頼朝)は頻りに温情を施され、常に座右に招かれていました。しかし今、かれらに褒賞は無く、そればかりか皆が実名で呼ばれるので、それぞれ恨みを残しているという噂があります。つまるところ、事に臨むにあたっては、よくよくお気をつけにさえなれば、末代であっても、秩序が乱されるようなことはありません。」と、お諫めの言葉を尽くされたという。佐々木三郎兵衛入道(盛綱)が使者となった」。

 

(鎌倉 妙本寺 比企一族の墓)

 これらの事で、北条政子が、自身を救い、後ろ盾であった比企氏の比企能員が何も動かず、頼家の近臣として比企三郎が自信を誅殺の役を得ていた事に反感を持った事だろう。北条政子が、正道を説いた事で自身を救ってもらった恩義を忘れずにはいられなかったと考える。他の有力御家人の勢力には及ばない安達一族が生き延びるには、北条氏に貢献し、後ろ盾となる事を悟ったのではないかと考える。建仁三年(1203)九月二日の比企の乱においては、同流の比企氏と反して北条氏に付いて比企氏を滅亡させた。畠山重忠の乱では、旧友であった重忠討伐の先陣を切り戦う。牧氏事件後執権となった北条義時に付き、建保元年(1213)五月の和田合戦では、参戦しているが主な戦功は記されていない。しかし、和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を弟・時盛が拝領している。北条政子、義時、三代将軍・源実朝に信頼される中で、幕政を動かす主要御家人となり、建保六年に実朝が右近少将に任じられると、秋田城介へと任官した。幕政において御家人では三浦氏に次ぐ立場迄進んでいる。

 

(鎌倉 和田塚)

承久三年(1221)の五月『吾妻鏡』で、後鳥羽院から北条義時の追討院宣が伝えられた鎌倉で、御家人の前に進み出て政子の傍らで安達景盛が政子の声明文を代読したと記してあり、三代にわたる将軍の遺跡守る様に「御恩と奉公」による団結を説いた。『承久記』においては政子が館の庭先で御家人たちを前にして演説したと記されている。このように北条氏に対しての忠義は続くが、弘安八年(1285)に起こる北条得宗家内の争乱の霜月騒動で、安達景盛の孫・泰盛は乱の首謀者の北条得宗家被官の平頼綱に討たれた。しかし、後の平禅門の乱により討たれた頼綱の死後、安達泰盛の弟・顕盛の孫・時顕が安達を継承し、復権している。そして北条得宗家が滅亡する東照寺合戦において安達氏は得宗家と運命を共にし、滅亡した。

 安達氏の北条への忠義は、勲功として多くの物を得る事が出来たが、御家人間においては、常に三浦氏に次ぐ立場で、これを取り除くために安達景盛は、好機を狙っていたと考える。  ―続く