鎌倉散策 五代執権北条時頼 二十三、三浦氏と宝治合戦 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 寛元五年二月二十八日に宝治元年と改元されると、『吾妻鏡』に鎌倉に怪奇な現象が起こった事が記されている。宝治合戦へと続く上で、その現象を編纂者が誘導でしているようだが、定かではない。宮騒動での三浦氏の立ち位置としては、行智(藤原頼経)が帰洛した『吾妻鏡』寛元四年(1246)八月十二日条に、「能登前司(三浦光村)は、(頼経の)御簾の際にとどまって数刻退出せず、とめどなく涙を流した。これは、二十四年の間側近に合った名残りのためであろう。その後、光村は人々に語った『ぜひとももう一度、(頼経を)鎌倉に入れ奉ろうと思う』」。この言動は、三浦氏が今回の宮騒動において少なくとも無関係で有ったか、無かったのかは定かではないが、将軍派であった事は窺える。しかし、反北条、反執権ととらえる事は、これだけで推察することは難しい。北条(名越流)光時は、陰謀の発覚を悟り、御所を出た物の自邸には戻らず出家し髻を時頼に送って降伏し、弟の遠江修理亮(名越)時幸は、病気あるいは自害により死去している。

 

 源頼朝の幕府創建期からの御家人の千葉氏を率いる秀胤は、領地没収と追放に合う。本来、北条氏は、幕府創建時において伊豆国で僅かな所領を持つ勢力であった。三浦氏は、相模国東側の三浦が所領しており、保元・平治の乱から源家に付き参戦している。しかし、幕府創建後の頼朝による幕政が行われると、相模国において頼朝の舅となった北条時政が台頭してきた。三浦氏にとっては、後に、常に謀叛の疑惑を持たれながら、北条氏の勢力にとっては、その軍事力の必要性を認められていた。三浦氏は、「御家人間抗争」である梶原景時の変、比企の乱、畠山重忠の乱、牧氏事件、和田合戦と北条氏、特に義時に着き、和田合戦において三浦義村は、事件直前に弟・胤義とともに北条義時に和田義盛の蜂起の情報を流している。和田義盛側は、その発覚を知ったために一日早く蜂起したという。その結果において、味方である武蔵の横山党の軍勢の参戦が遅れ、滅亡した。同族の和田義盛を裏切り、義時に付いた。『古今著文集』には、健保一年(1213)正月元旦の将軍御所で義村の上席に千葉胤綱が着座していると義村が、「下総の犬は寝場所も知らぬ」とうそぶくと、胤綱は「三浦の犬は友をも食らうぞ」という話が記され義村の裏切りを非難したとされている。

  

 三代将軍・源実朝が公暁に暗殺された際、公暁の乳母夫でもある三浦義村は、自身の嫌疑を恐れ、義村の配下により公暁を討ち取っている。源の実朝暗殺に対して三浦義村が、どの様に関わっていたか、また黒幕であったなどと言う説があるが、定かではない。しかし北条義時に実朝暗殺後の公卿の情報を提供し自身の関与を否定している。承久の乱では義村の弟の胤義が、京方に付いており、『承久記』古活字本巻上「義時朝敵となりし原因」に記されている記述に興味を持つ。後鳥羽院の側近である藤原秀康が挙兵計画への参加を説得された時に、三浦胤義の京滞在について聞かれている。胤義は、故二代将軍頼家の側室(一品房昌覚の娘)を娶り、頼家は北条時政により、子(禅暁)を義時により殺害され事を不便に思い、「大番役の次で在京して候ケレバ」とあり、大番役の任期が終わってもそのまま京に留まった。また挙兵計画に参加した胤義は軍議において、「朝敵となった以上、義時に味方する者は千人もいまい」と、兄義村も「鳥滸の者(頭の良くない者)」と日本国惣追捕使に任ずるなら必ず味方すると確約し、その内容を密書にして鎌倉に送っている。しかし三浦義村は、胤義の使者を追い返し、その密書を北条義時に届け、自身が幕府方であることに変わりの無い事を告げた。

 

 北条義時が元仁元年(1224)に急死すると、義時の後家の伊賀の方が実子の正村を執権とし、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようとする伊賀氏事件が起こる。正村の烏帽子親である三浦義村は陰謀に関わっているとして、北条政子が単身義村邸に問いただしに訪れた。義村は翻意し、釈明して二心が無いことを確認した。これにより政子が主導する北条泰時の執権が確定した。その後、三浦義村は、北条泰時、時房に次ぐ幕府での地位と実権を手中に収めている。幕府にとって泰時の舅義村の横行は、泰時にとって目に余る物であっただろう。しかし、三浦にとって、北条氏を打ち破る好機は先述した通り幾度もありながら、常に北条氏に付くことを選択した。これは源頼朝の創建した幕府に対しての忠義でもあり、自身の娘・矢部禅尼を三代執権の正室とした事で、北条氏に付くことは、執権の外戚父・舅として幕府での地位と実権を掌握できたからである。矢部禅尼と北条泰時との間に時氏が生まれ、外祖父となった。義村の外孫・時氏は、正室に安達景盛の娘・松下禅尼を娶り、時氏の子・経時と時頼を産んでいる。安達景盛が外祖父となり、三浦義村が死去するとその後を継いだ泰村は外大叔父となった。外戚であるが血の濃さから言うと三浦氏は、安達氏に一歩遅れを取った事になる。この様式による紛争は、まるで二代将軍・頼家の比企の乱における、北条時政と比企能員の形態に酷似している。

 

 『古今著文集』には、健保一年(1213)正月元旦の将軍御所においての千葉胤綱の義村の裏切りを非難したとされていることから、他の御家人から見ると、北条氏の武力勢力として伺える三浦氏に対し、敵視、あるいは嫌悪感を抱いていたのではないかとも考える。三浦義村の幕府での地位と実権と知略・策謀を見ると、他の御家人からすると逆らいづらい事もあった。しかし、千葉秀綱は正室に義村の娘をめとっており、なかなか結論がつけにくい。義村死去後を継ぐ泰村に対し、安達氏との敵対関係、下河辺氏、小山氏、結城氏等の争論に窺うことが出来る。三浦を率いる泰村は父・義村を超える器でなかった点も大きな要素であるかもしれない。『吾妻鏡』九月一日条に記された、執権北条時頼が、六波羅探題の北条重時を今日から下向させることを問われると、三浦泰村は、自身の幕府での地位を保守するために拒絶した。北条泰時に最も信頼された温厚な重時が鎌倉にいたならば、連署として中立的立場により、三浦氏との関係を緩和させたとも考えられる。その先見の眼を持つ事がなかった。

 北条時頼が執権に就き宮騒動が終息すると、北条重時がいない鎌倉で安達氏は、三浦泰村に必要以上の挑発を繰り返す事になった。  ―続く