鎌倉散策 五代執権北条時頼 二十二、時頼の神仏信仰 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 寛元四年(1246)十月に入ると、宮騒動が終息した気配が鎌倉に漂った。北条時宗がかつてからの願いにより、大納言法印抗弁により、私邸で如意輪観音の秘法が行われ、また大般若経を信読している。また、右大将(源頼朝)の法華堂に参り、恒例の御仏事を聴聞したという。祖父・北条泰時と同様に仏法に信心する。宝治合戦後には、鎌倉新仏教、特に禅宗の臨済宗の布教促進に一役を担い、東国の武士の政治都市である鎌倉を仏教都市としても発展を見せた。またこの時期に入ると鎌倉での行事が行われ、流鏑馬よりも難しいといわれる、馬上から各所に配置された的を射る笠懸などが行われ、将軍頼嗣も非常に興味を持たれた。十二月に入ると京都から鎌倉に除目の叙書がとどき将軍頼嗣は従四位下に叙されている。治世における施策として悪党を助ける者は特に厳罰を行うとした。「悪党(夜討ち・強盗)や四一半打(しいちはんうち:博徒)を隠しておいたものの所領を没収される事」と御教書を諸国の守護・地頭らに下した。また、平穏が保たれると訴訟が増え後に迅速化を計る施策が行われる事になる。公明正大に訴訟を扱うという祖父泰時の治政と同じように、後に訴訟を迅速に行うため、時間の短縮を求めて、問注所、評定衆の改変なども行っている。そんな中、この年の七月に京都へ帰洛させられた入道大納言(行智、藤原頼経)から鎌倉の北条時頼に御書が届いた。

 

 『吾妻鏡』寛元四年(1246)十二月十二日条、「入道大納言家(行智、藤原頼経)の御書が左親衛(北条時頼)御方に到来した。様々に命じられる事があり、御請け文を出されるかどうかうちうちに人々の意見を聞かれた。詳しい事はともかく、御返事を出されるのがよかろうという。そこで(御書は)秘蔵された」。「様々の事が命じられた」とあるが、謀叛計画に関与せず頼経自身と父道家の無実を伝える物であったのか、自身の鎌倉帰還を望む物か、嫡子・頼嗣の将来を託す物であったのか、その内容は定かではない。しかし、最低限の礼儀として返事は出すが、九条家への対応は厳しいものであった。年が越え寛元五年となる。

 寛元五年(1247)正月十九日、九条道家の子息、摂政の一条実経を罷免され、後任に近衛兼経が任命された。『公卿補任』では一条実経の辞任とある。

  

『葉黄記』寛元五年正月十八日条には、「昨年の鎌倉の騒動で頼経が上洛して後、道家の周辺で様々なうわさが飛び交ったが、今は静まっている。しかし、『関東の景気』(幕府の様子)と称して頻りと上皇の側近たちが摂政交替の事を申し上げました。関東申し継の西園寺実氏が年末に家臣を鎌倉に派遣してこの件を相談したところ、実経を罷免すべきだという意向であったようなので、不確かではあるが、今回のような事になったらしい」。そして『後嵯峨上皇は、実経の辞任を非常に残念に思われたようだが、幕府の意向を無視するわけには行かなかった』と記している。

『百錬抄』正月十九日条においても「幕府の取り計らった事である」と記しており、幕府は、九条道家の不信感から子息・実経の摂政罷免を強硬に求めた。また、『天台座主記』によると、道家の子息で天台座主であった慈源が自身も九条道家の子であるとして、天台座主の地位にいるべきでないとして、同月二十八日に自ら辞表を出した。同年三月二日には,九条道家も再び長い起請文を書き、自身が鎌倉の陰謀に無関係であることを誓っていることが『九条家文書』に残されている。

 

 寛元五年二月二十八日宝治元年と改元された。三月に入ると『吾妻鏡』に三日、御所中で闘鶏御会が行われ、この際に若狭の前司)三浦泰村)等が少々喧嘩したという。

同年三月十一日、由比ヶ浜の潮が変色し、赤くなり血のようで人々が群集してこれを見たという。十二日の戌の刻に(午後八時頃)大きな流星が艮(うしとら)の方角から坤(ひつじさる)の方角に飛んだ。十六日、戌の四点(午後八時半頃)に鎌倉重が騒動した。しかし事実無根であったため、明け方になって鎮まった。十七日、黄色い庁が多く飛び(幅はおよそ一丈。三段ほど並ぶ)、総じて鎌倉中に満ち溢れる。これは平角の前兆であると。承平年間には常陸・下野で天気年間では陸奥・では四カ国でその怪異があり、(平)将門・(安倍)貞任等が戦いを起こした。そこに今この怪異が起こり、やはりあるいは当国で兵乱が起きるのではないかと、古老たちは疑っている。『吾妻鏡』において編纂者が宝治合戦の予兆として書き留めたのであろうか。

 

同年三月二十日に前執権で兄の経時の一周忌が行われ時頼と母・松下禅尼いかが聴聞参列している。建立された

 宝治元年(1247)四月二十五日、鶴岡の北に今宮(新宮)が創建され、配流となり、都に戻ることの無かった後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇の三上皇の霊を鎮めるため、鶴岡八幡宮の北側に創建された。現今宮社に置かれる碑文によると「四条天皇延応元年(1239)鎌倉中所々喧嘩争乱の事あり、特にその五月二十五日には大騒動を起こせし伝ふ 玄(この)日後鳥羽院は隠岐に崩御し給ふ由りて斯(これ)は其怨念の然らしめしところな建立された宝治元年(1247)四月 大臣山の西麓に今宮を建て 其院の孫礼を勧請(かんじょう)し奉り 順徳院及び御寺長賢を合祀せらる 長賢は承久の役 官軍に属し奮戦 後捕らわれて陸奥に謫(たく)せられし者という 今宮は又新宮と書す 昭和四年十二月 鎌倉青年會」とある。『吾妻鏡』には、延応元年(1239)五月二十五日条の記述には無く、『新編鎌倉市』から用いて書かれたと推測する。若宮社は、令和元年九月の台風により、旧コンクリート製の社殿が壊れ、令和三年六月に木造の社殿が建立された。

 

(国宝後鳥羽天皇像 後鳥羽天皇宸翰御手印置)

 後鳥羽院が隠岐に流され、嘉禎三年(1237)に「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となる事があれば、此の世に災いをなすだろう。わが子孫が世を取ることがあれば、それは全て我の力によるものである。わが菩提を弔うように」と置き文を記している。後鳥羽院が隠岐に流されると、後鳥羽上皇の兄・守貞親王(後高倉院)の子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。そして、天福元年九月に後堀川天皇の皇后であった九条竴子(藻璧門院)が二十五歳で亡くなり、翌天福二年八月に後堀河天皇も二十三歳という若さで崩御される。また、後堀河天皇の子である四条天皇も仁治三年(1242)二月に十二歳で崩御した。後鳥羽院直系でなく擁立された天皇が早世し、再び直系であるが、承久の乱において中立を固持していた土御門上皇の皇子邦仁王(後嵯峨天皇)が擁立され、後鳥羽院は四条天皇の御代の延応元年(1239)二月に宝年六十で、配所にて崩御した。これら守貞親王(後高倉院)の直系が早世した事で京などにおいては、後鳥羽院の祟りかとも噂が流れている。また、後鳥羽院の崩御の十か月後の延応元年十二月五日に承久の乱で大将軍の一人であった三浦義村が頓死。それから一月半後の翌年一月二十四日に同じく大将軍であった北条時房も頓死した。平高塚の日記『平戸記』には、三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊が原因とする記述があり、京などでは後鳥羽上皇の祟りという風聞が流れている。

 

(後堀河天皇像 四条天皇像)

承久の乱に関わった有力人物の男性は六月に死去し、北条政権にかかわった女性は七月に死去しており、元仁元年(1224)六月十三日に北条義時、嘉禄元年(1225)六月に大江広元が、翌月の七月に北条政子が死去した。安貞元年(1227)六月十八日に北条泰時の次子・時実(十六歳)が家人により殺害され、寛喜二年(1230)北条時氏(北条泰時の嫡子)六月十八日に死去し、北条泰時は仁治三年(1242)六月十五日に死去している。また二代将軍の源頼家の娘で四代将軍・藤原頼経の室・竹御所も文暦元年(1234)七月に死去している。これらの事から政変が起こるたびに鎌倉・京において後鳥羽院の怨霊の噂が絶えず流れたのではないかと考えられる。執権となった北条時頼は、鎌倉においても後鳥羽院の鎮魂に意を注ぎ、鶴岡八幡宮の北に今宮社を建立したのではないかと推測する。  ―続く