鎌倉散策 五代執権北条時頼 二十一、京における宮騒動 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 寛元四年(1246)三月に北条時頼は兄の経時から執権を継承し、二か月後に宮騒動が起こった。北条時頼を討つ企てが露見し、反執権派の首謀者とされる名越流の北条光時が出家配流される。弟・時幸は強硬派であったとされ、『葉黄記』によると自害したとされる。名越流北条氏はこの時から衰退の一途をたどることになった。また『吾妻鏡』によると千葉秀胤は、六月七日に評定衆の更迭と、十三日に下総埴生西・印西・平塚の所領が没収されて上総国に追放されている。

『葉黄記』寛元四年六月六日条には、「その日に関東の飛脚が京に到来し、頼経の(鎌倉の)御所が警固され近習の藤原定員が召し籠められたたと。名越光時は伊豆に配流され、弟・時幸が自害し、その他の降伏者も召し籠められたと報らされ、千葉秀胤は本国に追放された」と記されている。しかし、上総は秀胤の本国であり、寛大な処分であった。北条時頼が執権となって間近に起きた宮騒動の影響を早急に鎮める事と千葉氏との決定的な対立を避けて事態の早急な終息を考えた対応であったと考える。そして『葉黄記』は、頼経の帰洛迄が綴られた。また宮騒動の終結により、鎌倉幕府内での執権・北条時頼の権力が確立された事は言うまでもない。

 

 『百錬抄』の六月八日条には、「関東で騒動が起きた。明日、関東から使者が到着する前将軍頼経が起こした事件に関するものである」と記されている。

 近衛兼経の日記である『岡谷関白日記』寛元四年六月九日条によると、「鎌倉で事件が起きたそうだ。九条頼経が陰謀を企み武士達に命じて時頼を討とうとし、調伏の祈祷を行ったが、発覚して騒動となり藤原定員を捕らえて拷問にかけたところ白状したという。定員の子(定範)は。証拠の手紙を焼いて自殺したという。頼経は幽閉され、使者の通行が禁止されて京都の人々には真相がわからず、九条道家は恐れ入っているとの事だ。なお、定員のこの話は虚偽だという」と記している。自身の子である頼経が、時頼打倒の陰謀の張本人だとする噂に驚いた道家は、『九条家文書』の六月十日に、自分が陰謀に無関係であることを誓った起請文を書き残している。前将軍の行智、(藤原頼経)が、この宮騒動においてどこまで関与していたかは定かではない。むしろ反執権派の独走であったとも考えられる。しかし、二十九歳になり鎌倉に居住し、大殿と称される身分は、反執権、反得宗の火種になる事は避けられなかった。したがって幕府の対応として時頼は、将軍頼嗣は残し、頼経を帰京させたのである。宮騒動においては、『葉黄記』の記述が朝廷側の資料として信頼されている。

 

 『吾妻鏡』寛元四年(1246)八月十二日条、「相模右近大夫将監(北条時房の子息、北条時定)が、京から(鎌倉に)かえった。これは、入道大納言(行智、藤原頼経)が京に帰られ道中、供奉されていたのである。この外の人々も同様に帰った。先月二十七日の五更(二十八日の扱い)、祇園大路を経て六波羅の若松殿に到着された。今月一日に供奉人らは(京を)出発した。そうしたところ能登前司(三浦光村)は、(頼経の)御簾の際にとどまって数刻退出せず、とめどなく涙を流した。これは、二十四年の間側近に合った名残りのためであろう。その後、光村は人々に語った『ぜひとももう一度、(頼経を)鎌倉に入れ奉ろうと思う』」。この言動は、三浦氏が今回の宮騒動において少なくとも無関係ではなかった事が窺える。六原の南東にある若松殿とは、もともと藤原邦綱の邸宅であったが、代々六波羅探題が管理し、北条重時の館とされ、六波羅探題が頼経の監視を行った事が窺える。

 

 森幸夫氏『北条重時』に、葉室定嗣が記した『葉黄記』八月に十七日条には、重時は、定嗣を六波羅に招き、幕府からの申し入れを後嵯峨天皇に奏聞するよう依頼している。宮騒動による世情不安が続く中、執権北条時頼が六波羅探題重時に、内々朝廷に「徳政」の申し入れを指示いた。この「徳政」とは頼経の父九条道家の朝廷関与の排除であり、道家とその子・摂政の一条実経に任じていた関東申次の解任であった。上皇への時頼へ申し入れ事項の奏聞方法を巡り、やり取りが記され、非常に興味深い。定嗣は、重時の時頼書状をもらい上皇に奉覧するというが、重時は「私状」であるとして断り、ならば、これを書き写して上皇に見せることを定嗣は示したが、これも重時は「その状なお恐れあり」と、拒んだ。定嗣は、書状の要旨を箇条書きし、上皇に伝えると言う事で折り合いを付けた。その場で折り紙二枚を書き、一枚を奏覧用に、一枚を控えとして重時に与えた。重時は関東御教書などの幕府公文書では無いという「私状」としての物を上皇に見せるのを憚った。

 

 同年九月に入ると鎌倉では、北条時頼が六波羅探題の北条重時を鎌倉に戻す事を三浦泰村に話している。

『吾妻鏡』九月一日条、「左親衛(北条時頼)が若狭前司(三浦)泰村を招いて、さまざまに相談される事があった。全て治世の眼目についてと言う。その中で(時頼が)仰った。『才知に乏しい私が一人で幕府の政治を補佐するのでは、たいそう独断になる事を恐れる。六波羅の相州(北条重時)を呼び寄せて、万事を相談したいと思う。これは、このところ考えていた事である』。若州(泰村)がそれは適当ではないと申されたため、しばらくこの問題はそのままにされたという」。三浦泰村は、相模において北条氏と二分する大勢力であり、前将軍頼経と現将軍頼嗣に接近し、北条氏を凌ぐ勢力までも拡大させていた。宮騒動においても反執権御家人の勢力の筆頭とも思われるが、相模で勢力を二分する三浦氏と敵対し、処断する事は、騒動の鎮静化を遅らせ、拡大させる要因ともなりえた。鎌倉が和田合戦の時のような惨状となりえたのである。北条時頼は六波羅探題北条重時の連署擁立により、自身と幕政の安定化を計ろうとしたとした事と考えられるが、重時の鎌倉帰参により泰時の政治的地位が低下することを懸念し、反対したと考える。これにより、時頼及び北条一門の心証を悪化させたとも推測される。温厚で、治世に優れた重時がこの時鎌倉に帰参していれば、後に起こる宝治合戦にて三浦氏の滅亡はなかったと考えられる。

 

 六波羅探題として残った北条重時に、同年十月十三日、時頼の使者として得宗被官の安東光成が上洛し、朝廷に正式に徳政興行を申し入れた。関東申次に九条道家実経親子の更迭し、西園寺実氏を任ずる事を伝えて断行したのである。また、京中守護において篝屋停止を求めた。朝廷にとって予想外の事で、広橋経光の日記『民経記』寛元四年十二月八日条に「武家、京都を蔑如に処すの故歟」と憤慨している。この篝屋創設に九条道家・頼経親子が積極的に関与しており、失脚した二人成立させた制度を白紙撤回したことになる。またか篝屋制度は京在中の御家人である在京人の負担となっていたため、負担軽減といった側面も有る。そして、京に居た頼経の父・九条道家も関東申次を罷免され、籠居させられた。宝治合戦の後も将軍に就いていた頼嗣であったが、宝治合戦やその後の残党による謀反事件に九条道家・頼経親子が関与していたとされ、建長四年に将軍職を解任され京に送還された。九条道家は失意の中、その年の二月二十一日、六十歳で死去する。頼経は十年後の康元元年(1256)八月十一日、赤痢のため三十九歳で京にて薨去した。子息・頼嗣も翌月に逝去している。日本中で赤痢の疫病が蔓延し、親子ともども罹患したと考えられる。摂関将軍が絶え、次に宮(新皇)将軍へと続いてゆく。中流公卿の吉田経俊の日記『経俊卿記』には、将軍の死に際し、「将軍として長年関東に住んだが、上洛後は人望も失い、遂には早世した。哀しむべし、哀しむべし」と記している。  ―続く