鎌倉散策 五代執権北条時頼 二十、宮騒動 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 寛元四年(1246)閏四月一日、北条経時は死去した。享年三十三歳であった。祖父の三代執権・北条泰時から継承して、わずか四年である。弟の時頼に執権を譲り北条得宗体制を完成させて行く。

 北条経時の死去について京都に急使が送られ、三日間の行程で到着した。同月二日の日には経時は鎌倉の笹目の山麓に葬られている。そして八日の日には、六波羅以下の御弔問の使者が鎌倉参った。去る四日、急使が京に到着し、洛中に執権経時の死が広まったという。十八日には、鎌倉中に甲冑を身に付けた武士が街中に満ち溢れ、明け方になって鎮まったが、あれこれと噂などがあったという。二十日には近国の御家人が鎌倉に駆け付け、その数は幾千万とも知れず、連日、騒動が静まらなかった。北条時頼が執権に就いた事で北条得宗家と反得宗を呼応し将軍浮揚を掲げる北条庶流と御家人達の権力闘争が勃発したのである。藤原頼経は将軍職を辞任し、出家をして嫡子・頼嗣に将軍職を譲ったが、大殿として鎌倉に居続け、一つの勢力として存在していた。宮騒動の始まりである。宮騒動と称されるのは、『鎌倉年代記裏書』で「宮騒動」と号されているためであるが、「宮」を用いるのは不適当である。後にこの騒動で関係があるとされる藤原頼経(行智)が九条家の人間で摂関家将軍であるため「宮」を称されることはあり得ない。しかし、六年後の将軍頼嗣の追放で摂関家将軍から新皇将軍へと変わった事により連鎖性が生じる事として「宮騒動」と記されたと考えられる。

 

 五月に入り、時頼は鎌倉に平穏を保つように鶴岡八幡宮の神事もいつも通りに行われた。しかし、宮騒動が起こる。『吾妻鏡』に記される条文を追ってみると。

 『吾妻鏡』寛元四年(1246)五月二十四日条、「亥の刻(午後十時頃)に地震があった。子の刻(午前零時頃)以後、雨が降った。今は申の刻(午後四時頃)で、鎌倉中の人々は平穏ではなく、資材や道具を東西に運び出して隠しているという。すでに辻々が固められ、渋谷の一族等は左親衛(北条時頼)の厳命に従い中下馬橋を警護している。そうしたところ太宰少弐(狩野為左)が御所に参られるためにここを灯篭としたところ、渋谷の者が『御所に参るのであれば、(通過は)許さない。北条殿(時頼)の御方に参るのであれば、留めることはしない。』と言い、その間でたいそう喧嘩となり、ますます騒然となった。夜半になって、皆が甲冑を着て旗を挙げ、それぞれ勝手にある者は幕府に急行し、ある者は時頼の周辺に群集したという。うわさが飛び交わった。故遠江入道生西(名越朝時)の子息が逆心を起こし、とうとう発覚したという」。

名越流北条光時等の得宗家反対勢力により、大殿・頼経を中心に立てる執権排斥の動きが察知された。執権・経時の逝去によりに執権に就いた北条時頼により、光時等が粛正される。

 

 同年五月二十五日条、「世間の騒動はまだ止まない。左親衛(北条時頼)の宿館の警備は決して緩められる事はなく、甲冑を着た武士が周囲を取り囲んでいる。兎の一点(午前五時)に但馬前司藤原(定員)が(御所の)御使者と言って時頼の邸宅に参った。そうしたところ、殿中に入ってはならないと、諏訪兵衛入道(蓮仏、盛重)・尾藤太(景氏)・平三郎左衛門尉(盛時)等に命じられていたため、(定員は)直ぐに退室したという。越後守(名越)光時は御所中に祗候して宿直していたところ、今朝方に家人が参って(光時を)呼び出し、すぐにそのまま退室した。結局(御所に)帰る事なく、そのまま連座して出家し、その髻を時頼に献じた。これは、時頼を追討しようと一味同心し、心変わりはしないと互いに連署して起請文を書いた。その首謀者が名越の一族にいるとのうわさがあったため、出家する事となった。弟の尾張守時章・備前守時長・右近大夫将監時兼らは、野心は無いと以前に謝罪していたため、特に咎めはなかったという。その後、但馬守前司定家が連座して出家し、秋田城介(安達義景)が身柄を預かって守護した。子息の兵衛大夫(藤原)定範も連座に処せられたという。牛の刻(午後零時頃)以後、群参していた武士がまた旗を挙げた。今日、遠江修理亮(名越)時幸が病気のために出家したという」。将軍御所に居た光時は、陰謀の発覚を悟り、御所を出た物の自邸には戻らず出家し髻を時頼に送って降伏した。

 同月二十六日条、「今日、左親衛(北条時頼)の御方で内密にご審議が行われた。右馬権頭(北条正村)・陸奥掃部助(金沢実泰)・秋田城介(安達義景)らがその参加者という」。

 

 同年六月一日条、「今日、入道修理亮従五位以下平朝臣(名越)時幸が死去した」。葉室定嗣の『葉黄記』には寛元四年六月六日条に「自害」したと記されている。また『保略間記』には、光時は頼経の近習として覚え愛でたく、驕心を持って「我は義時の孫なり、時頼は義時が曾孫なり」と執権になろうとし、藤原頼経も光時に心を寄せていたとしている。

同月六日条、「夜更けになって駿河四郎式部大夫(三浦)家村が密かに諏訪兵衛入道蓮仏(盛重)のもとにやって来て、相談する事があった。蓮仏はすぐに左親衛(北条時頼)の耳に入れた。家村をその座に留めたまま蓮仏が御所に参る事はニ三度に及んだ。御問答の事があったのであろう。明け方に家は退出したという」。

七同月日条、佐渡守(後藤)基綱・前太宰少弐(狩野)為左・上総権介(千葉)秀胤・前加賀守(町野)康持らは、事情があって評定衆を罷免された。康持は門注所執事も辞められたという」。

  

 同月十日条、左親衛(北条時頼)の御邸宅で、またうちうちの審議が行われた。亭主(時頼)・右馬権守(北条正村)・陸奥掃部助(金沢実泰)・秋田城介(安達義景)等が寄り合った。今回は若狭前司(三浦泰村)を加えられた。内々に心中の隔たりはなくその考えを伝えられるためである。この外に諏訪入道(蓮仏、盛重)・尾藤田(景氏)・平三郎左衛門尉(盛時)が参った。

同月十三日条、「入道越後守(名越)光時(法名蓮智)が配流され、伊豆国の江間の宅に向かった。越後の国務以下の所帯の職の大半は没収された。また上総権介(千葉)秀胤が上総国に追放された。企てがあると露見したためである」。光時は所領を没収され伊豆国江馬郷へ配流され、子孫は名越流北条氏の嫡流を外され、江間姓を称した。その後も得宗家と名越北条氏は対立が続き、文永九年(1272)に起こる二月騒動にて弟の教時が再び謀反を起こして北条時頼の嫡子・時宗に討伐されている。

 同二十日条、「鶴岡(八幡宮の)臨時祭が行われた。ただし将軍家(藤原頼嗣)は参宮されなかった。また奉幣の御使者も立てられなかった宮寺がすべて差配した」。『吾妻鏡』に記されるこの条は、藤原頼嗣八歳が父頼経と同様に北条家による傀儡将軍であることを物語っている。そして二十七日には、入道大納言(行智、藤原頼経)が入道越後守(北条時房の長子・時盛)の佐助の邸宅に入った。これは御上洛御門出(旅に出発するに先だち、吉日を選んでその日に仮に家を出る)の儀であり、近習の者が多く供奉したという。また上洛の間の駅家の雑事などが命じられた。

 

 七月一日条、「左親衛(北条時宗)が入道大納言家(行智、藤原頼経)の御旅宿に酒肴などを進上されたという」。

同月十一日条、「入道大納言家(行智、藤原頼経)が、京に帰られた。今朝方に出発され、夕方に酒匂駅に到着された」。

北条家により二歳で鎌倉に下向して、傀儡将軍であった頼経も二十九歳になり、京に送還された。十八日間を経て同月二十八日に京に入られ、そして六波羅の若松殿に移された。 ―続く