寛元三年(1245)八月五日に、前年の五月二十九日に執権・北条経時が黄疸を患う病気が回復し、すべて大納言法印(隆弁)の祈祷の功績であるとした。入道大納言(行智、藤原頼経)が自筆の御書で関心であると仰せあられ御剣を送られる。しかし、同年九月四日には、経時の妻室・宇都宮下野前司安綱の娘が亡くなった。享年十五歳であり、『吾妻鏡』において病状などの詳細な記載は無い。またこの妻室は、『明月記』の著者である藤原定家の嫡子・為家の妻室が姉妹である。そして同月二十二日、北条経時の病気が再発した。
『吾妻鏡』寛元三年九月二十七日条、「武州(北条経時)が病気を再発され、今日酉の刻(午後六時頃)に急に息が絶えた。鎌倉中が驚き騒いだ。そこで夜になって、(経時の)御邸宅で七座の泰山府君際、霊気際、招魂祭、が行われた」。八月から将軍頼嗣も腫物が出来て、治癒、悪化を繰り返している。
同年十一月四日に入道大納言(行智、藤原頼経)が来春に上洛する事で審議が行われ、供奉人五十三人が定められた。すでに供奉人や番を勤めるものなどの名を列記した散状を小侍別当陸奥掃部助(金沢実時)に下され、その上に別奉行として能登前司(三浦光村)・信濃民部大夫入道(行然、二階堂行盛)を添えられている。翌年の二月十四日に必ず出発するとの思いが、『吾妻鏡』残されている。三浦光村は三浦や寿村の弟で、貞応二年(1223)に北条重時・結城朝広とともに新将軍となる三寅(藤原頼経)の近習に任じられ、以後二十年にわたり、頼経の近習として仕えた。左衛門尉、従五位以上、壱岐守に叙任され、仁治二年(1237)には能登守となり、寛喜二年(1231)頼経の嫡子・頼嗣が将軍職譲渡後は、頼嗣の補佐をするために評定衆の一人に加えられている。主君を頼経・頼嗣に仕え、この当時の評定衆は二十一人中、将軍派の八人を締めており、将軍派の中心人物として見られている。信濃民部大夫入道である行然、二階堂行盛は、政所執事に就任し、この家系による世襲制とした人物であり、中立的立場を誇示していた。将軍派は行然を取り込むことで、幕政において優位に立つ事を狙っていたとも考えられる。
寛元四年(1246)になると、正月の一日の埦飯が行われ、武州の差配であると記されている。病気の治癒の記載は残されていないが、改善されたのであろう。同月十日に行われた毛利光季の邸宅で行われた立春説での御方違の儀式に経時が参った事の記述が続いている。二月に入ると頼嗣室が病気となり、十三日になると大殿・頼経は、上洛の事についてしきりに思い立たれていたが様々な事があり、延期を命じた。また京では、後嵯峨天皇が践祚され即位した後、外祖父ではなくなった九条道家は失脚する。しかし北条泰時の危篤を知ると、西園寺公経が九条道家を無視して、孫の姞子(きつし)を入内させ中宮に立てることに成功した。公経の娘婿・九条道家との対立関係が生じることになるが、道家の子息であり、西園寺公経の孫である二条良実を西園寺家の庇護下におく事で、両家の協調関係は続くが、距離を置き始めている。道家の娘婿の近衛兼経が関白についていたが、公経は孫の良実を関白の近衛兼経から交替させた。後嵯峨天皇践祚により朝廷での実権が失われた道家であったが、寛元二年(1244)八月に西園寺公経が死去した事により、九条道家は朝廷での実権を再び掌握した。道家は公経の遺言と称して関東申し継を継承し、さらに寛元五年には、関白であった二条良実を廃絶し、偏愛していた四男の一条実経を関白として擁立した。道家は良実を嫌っていたとされ、西園寺の庇護下に置かれ良実が道家から義絶されていたとされる。その中、後嵯峨天皇は、久仁新皇(後深草天皇)を譲位して、自身が上皇となり治天の君として政務につく事で、朝廷内での九条道家を牽制し対抗しようとした。
寛元四年(1246)一月に十九日に御嵯峨天皇の譲位により四歳(満年齢二歳)で久仁新皇(後深草天皇)が践祚され即位した。そして、同月二十一日に北条経時の病気が再発する。
『吾妻鏡』寛元四年(1246)三月二十一日条、「武州(北条経時)が御病気でたいそう危篤のため、治療・逆修(ぎゃくしゅう:生前にあらかじめ死後の利益を願って仏事を修する事)などの処置に及んだという」。
同月二十三日条、「武州(北条経時)の御方で深秘御沙汰(内密の御審議)などが行われたという。その後、執権を弟の大夫将監(北条)時頼朝臣に譲られた。これは存命の見込みが無い上に、二人の子息(後の隆政・頼助)がまだ幼いため、事態の混乱を防ぐために(時頼が)処置されるよう、噓偽りのない(経時の)御本心からであっという。左親衛(時頼)はすぐに承知されたという」とある。
寛元四年(1246)三月二十三日、北条時頼が第五代執権となった。そして執権北条経時は、四月十九日に再び危篤状態になって出家をし、翌月の閏四月一日死去した。法名安楽。享年三十三歳であった。祖父の三代執権・北条泰時を継承し、わずか四年であり、自身の二人の子息が幼少であると言え、三歳下の時頼に執権職を譲る思いは複雑であったと言えよう。『吾妻鏡』に記されていない、当時において、窮迫する反得宗家の北条庶流や、それに呼応する将軍派の御家人の行動があったのではないかと考える。あまりにも時間が無かったのであろう。時頼に執権職を譲らなければ、鎌倉に争乱が起こり、得宗家の滅亡にもつながる。また、北条泰時が行ってきた二人の継承が途切れてしまう。まして、経時の幼い子息二人(後の隆政六歳・頼助三歳)の生存にも関わった。経時は弟時頼に継承を託したのである。
(京都 仁和寺)
この時の経時の対応が、後の北条時頼の自身の血による継承を強行させたことは間違いない。時頼自身が病に臥し、嫡子・北条時宗が幼少であったため、北条重時の嫡子・長時を一時的な中継ぎ(眼代)として執権に就けている。後に病が癒えた時頼が実質的な権限は掌握していたが、この時の経緯が生かされたと考える。また、経時の幼い子息・隆政・頼助であるが、この二人を世に残す事が、再度の動乱の要因になる事を恐れたのかもしれない。隆政は、父・経時の死後、時頼の意向で隆弁に入室して僧侶となるが弘長三年(1263)一月九日、二十三歳で死去した。頼助(らいじょ)は、次期は不明であるが弘長二年以前に出家しており、三宝院・安祥寺・仁和寺各流を受法し、仁和寺流・法助の弟子となり、文永六年(1269)に頼守から頼助に改名している。修行を積み鎌倉に戻り、師匠の法助から頼助宛ての置き文に、寺の事は鎌倉の執権・北条時宗と重臣・安達泰盛によくよく相談するように書かれ、鎌倉と京都仏教界の仲立ちを勤めたとされる。弘安四年(1281)四月十六日、元弘の危機を前に八代執権・北条時宗の命により宿老の仁を差し置いて異国降伏祈禱を行う。弘安六年(1283)八月、北条氏出身者として初めて鶴岡八幡宮重代別当となった。円教寺、遍照寺、左女牛若宮等の別当、東寺長者などを歴任し、正応五年(1292)、大僧正・東寺別当に就任する。鶴岡八幡別当職は弟子の政助(北条宗政の子)に譲り、鎌倉時代最期の十七代別当の有助(北条兼義の子)も頼助の弟子である。そして頼助は、永仁四年(1296)四月二日に五十三歳で死去した。頼助の死により父・経時の直系は断絶した。また「御方で深秘御沙汰(内密の御審議)」は、後に得宗専制期の幕府最高機関の秘密会議となる寄合いで、この時が初見となっている。
―続く