三代執権北条威泰時の死去した翌日の仁治三年(1242)六月十六日に北条経時が四代執権に就いている。十九歳であった。連署は置かれず、北条氏の間で、北条得宗家と侮りがたい庶流の北条氏の敵対勢力が存在する不安定要因を抱えた政権であったと言えよう。
『吾妻鏡』に仁治三年の記載が無く、その就任が、どの時にどの様に行われたかは定かではない。鎌倉では北条一門である泰時の異母弟の名越流北条氏(朝時)・極楽寺流北条氏(重時)・伊具流北条氏(有時)・正村流北条氏(正村)や甥の実時、従弟の時盛等がおり、御家人の中でも足利氏義、三浦泰村等も存在し、若輩の経時を後見する有力者としての京の六波羅探題である北条重時が鎌倉に居なかった事で、互いに牽制しあう関係であったと考えられる。また弟の時頼の処遇についても難問であり、それらの政治的不安定要素により連署の設置が行えなかった要因であろう。泰時が生前の五月九日に出家しており、異母弟の朝時が翌十一日に出家し、十五日には足利義氏も出家し、時盛も六月に出家しているのは、北条泰時の指示による幕府中枢の対応によるものであると考える。京都では平経高の『平戸記』に、鎌倉で合戦が起きる噂が流れや、将軍頼経の御所が厳重に警護されているなどと伝えられた。また各所の関が固められ、鎌倉への通路が封鎖状態に置かれたことが記されている。不穏な動きを読み取ったのであろう北条重時が、泰時の葬儀が行われた後、七月に京に戻った事で、それらの噂が払拭された。
北条経時が直ちに泰時の後継として執権を継いだように記される『百錬抄』・『保暦間記』等は、いずれも後年に編纂されているために、記述には注意が必要である。それら資料には翌寛元元年(1243)七月二十日には、北条朝直が義父である泰時から譲られた武蔵守を経時に譲ることが認められており、この時点で経時が名実とも泰時の後継者としての地位が確定していたと考えられる。譲った朝直は遠江守に就任した。経時の執権としての施政は、祖父・北条泰時の施政を継承しながら、訴訟制度の改革などを行った。また将軍・頼経から子息・頼嗣に将軍職を譲り、『吾妻鏡』では頼経自身の考えによるものとされるが、幕府の主導によるものと考える。そして四代執権の北条経時が、寛元四年(1246)閏四月一日に二十三歳で早逝し、弟の時頼が執権を継ぐ。その後、北条得宗家に反感を抱く庶流北条氏と、将軍権力の浮揚を図る御家人との間で内部抗争が勃発し宮騒動が起こった。そして後に宝治合戦へと発展し、鎌倉が再び戦火に見舞われる事になるのである。
『吾妻鏡』は仁治四年(1243)正月から再び編纂され、この年の二月に十六日に寛元元年(1243)と改元された。六月に北条泰時の一周忌の仏事が、山之内の粟船の御堂(常楽寺)で行われ、北条左親衛(経時)と武衛(時頼)が参り、遠江入道(北条朝時)・全馬の権守(北条正村)・武蔵守(北条朝直)以下の人々が多く集まったとある。
寛元元年(1244)八月二十九日、関東申次の西園寺公経が七十四歳で逝去すると、朝廷での実権を衰退させていた頼経の父である九条道家が関東申次となった。これは道家が勝手に公経の遺言と称して関東申し継の職を継承する(公経生存中から将軍実父として公経と共に関東申し継の職にあったともされる)。四条天皇擁立に対し幕府の承認を得ず、事後報告に終わった事など、幕府はこれ以上の道家の権力集中に反感を示した。また申次により、幕政介入も見られ、泰時の後を継いだ北条経時と将軍・頼経の関係も悪化していくことになる。
北条時頼は嘉禎三年の元服後の九月一日、左兵衛少尉に任じられており、寛元元年(1243)閏七月七日、従五位以下に叙し、左近将監転任。そして、寛元二年(1244)三月六日、従五位上昇叙、左近将監奴元となっている。また同年七月には『明月記』の著者で、歌人の藤原定家が死去している。
寛元二年年四月二十一日、北条経時が加冠役として六歳になる藤原頼嗣の元服を行った。頼経を廃し、その子・頼嗣を将軍となる。『吾妻鏡』二十一日では、「御任官の事は、嘉禄の例の通りに後日に行いまた将軍宣旨も受けられるという。これは天変によって(将軍職を)譲与される事を(頼経は)急に思い立たれたが、五・六月は御慎みにあたられるために、今月この義が行われた」とある。この継承は、表面的には天変を理由にしたものであったが北条氏の家督である「得宗」が泰時の死去に頼経に変わった事で、もう一つの鎌倉幕府の核である「鎌倉殿」頼経に政治的実権が移る事を抑止するための施策であった。翌月の五月五日に頼嗣を征夷大将軍に任ずる宣旨が鎌倉に到着している。
北条経時の治政は、祖父泰時の意思を継ぐように継承されたが、将軍職を頼経からその嫡子・頼嗣に継承した事は、特筆される。北条泰時の死後二年足らずで行われた将軍継承に、泰時の生前の施策としての介入であったかは定かではないが、何故か不可思議に思われる。そして、この年に経時の次子・頼守(後に出家して頼助と号す)が生まれた。頼経には仁治二年に側室の讃岐の女房との間に庶長子・隆政(りゅうせい)、がいるが、頼守が嫡子であったとされ、母は不詳であるが、経時の妻室が宇都宮下野前司安綱の娘であり、翌年の九月に十五歳亡くなっている。後にこの二人は数奇な運命をたどった。
寛元二年(1244)に、寛元三年(1245)二月にも大殿と称す前将軍の頼経は、再度上洛を計画する。しかし寛元二年(1244)には、天変地異により頓挫し、寛元三年は上洛直前の十二月に北条経時・時頼兄弟の屋敷から出火があり、政所も焼失したため延期された。幕府は、頼経の上洛により御家人の負担が相当なものとなり、上洛に従った御家人達が頼経の働きかけにより官位を授かり、側近たちが将軍により強固なつながることを恐れた。また頼経の上洛により、頼経が権大納言から大納言職に叙任されたならば、北条氏といえども頼経を抑え込むことが出来なかったと考える。泰時の異母弟・朝時の嫡男・光時を筆頭とする名越流北条氏等が反得宗勢力として将軍頼経に接近し幕府内における権力基盤を徐々に強めていたことも脅威であった。
『吾妻鏡』寛元三年四月六日条に「名越流北条氏の北条朝時(北条泰時の異母弟・経時の叔父)が死去。年は五十三歳三歳であった。法名は生西。数か月間、脚気と痮病(ちょうびょう:腹部が膨らむ病気)に苦しんでいたという。公私ともにその死を惜しまない物は無かったという。
同年五月二十九日条に「武州(北条経時)が御病気になられた。黄疸を患われたという」。はじめての北条経時の病状の記載が残され、父・氏時から北条得宗家の執権が早世の道をたどることになる。
『吾妻鏡』寛元三年七月五日条、「前大納言(藤原頼経)が久遠寿量院で出家された。御戒師は岡崎僧正(成巌)御剃手は師僧正(院円)、指燭は院円法師であった讃岐の守(藤原)親実がこの事を奉行したという。これは長年のご希望であった上に、今年の春ごろ彗星・客星の異変があり、また御病気などが重なったため、思い立たれたという」。翌六日には、出家した藤原頼経(行智)が、御所を将軍頼嗣に譲ったため頼嗣が御方違(かたたがえ:忌むべき方角を避けるためにいったん別の方角に移る。忌むべき方角は節句ごとに変わる)のため御所の北側にある若狭前司(三浦)泰村邸に移っている。頼嗣は馬に乗り供奉人は徒歩で移った。
同月二十六日条には、「今夜、武州(北条経時)の御妹(檜皮姫、十六歳)が将軍家(頼嗣)の御台所として御所に入られた。近江四郎左衛門尉(佐々木)氏信・小野沢二郎時仲・尾藤太景氏・下河辺左衛門二郎宗光らが付き従った。これは正式の儀を取らず、密儀として参られ、おって披露の儀を行うという」。七歳になる頼嗣に、この相急な対応に対し不可思議に思われる。しかし前将軍・頼経も同様に源頼家の娘・竹殿を妻室にした経緯と同じく、執権経時の妹を室にしたことで将軍の外戚として、得宗家の権威を保持したと考えられる。またこの時期に北条得宗家と反得宗の対抗勢力である庶流北条氏、や御家人に記される事はない動きがあったのではないかと推測する。 ―続く